道徳的動物日記

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感情の普遍性と合理性(読書メモ:『一冊でわかる 感情』)

 

 

 

 『福祉国家』『ポピュリズム』『法哲学』『マルクス』『古代哲学』『懐疑論』などに続いてVery Short Introduction シリーズの邦訳書を紹介するシリーズ。

 当たり外れも大きいVery Short Introduction シリーズだが、本書は役者解説が充実しているのも含めて、かなり「当たり」の部類。原著は2000年と古いが、(一部の議論を除けば)現代でも通じる内容であると思われる。

 

 本書の特徴のひとつは、進化心理学の観点に基づいて感情の「普遍性」が強調されていること*1。第一章の章名は「普遍言語」であり、ポール・エクマンによる基本情動理論や表情の研究などを紹介しながら、「どんな感情があってどんな感情がないかは文化によって異なる」とする文化人類学的な「情動の文化理論」を否定する議論を行なっているほか、存在自体は普遍的だが表出のされ方や意味づけが文化によって異なる社会的な感情である「高次認知的情動」についての考え方も紹介されている。

 冒頭から日本独自の「甘え」という言葉が紹介されていること、そして英語には「甘え」に当たる単語はなくても「甘え」で表されるような情動を著者自身が経験したというエピソードから、どんな情動に名前が付けられていたりしなかったりするかという文化的・社会的な事柄に関わりなく情動自体はわたしたちの身体のなかに生物学的・普遍的に存在することを論じるくだりは印象的だ(とはいえ、訳註でも指摘されている通り、ここのエピソードで紹介されている「甘え」とは日本における一般的な意味での「甘え」といよりも、『「甘え」の構造』などで論じられているような特殊な意味での「甘え」であるようだが)*2。また、「恋愛という感情は西洋に独自のものである」という発想を批判しつつも、恋愛も高次認知的情動なのでその社会的な意味付けは文化によって異なることを指摘しているところなどはバランスがよい。ちなみに、本書に限らず進化心理学の本では恋愛感情の普遍性が強調されることが多いのだが、それには、恋愛感情はフェミニズムジェンダー論にも絡んで人類学や社会学からはとくに普遍性が否定されることの多い感情であるからそれに対する反発、というところもあるのだろう*3

 なお、基本情動と高次認知的情動ははっきりと分かれるものではなく、たとえば嫌悪感については、排出物などを見て嫌悪感を経験するというのは文化に依らない普遍的なものである一方で、非道徳的な行為に嫌悪感を感じてそのような行為をおこなった人から遠ざかるという社会的機能を果たす場合には高次認知的情動に近づく(どのような行為が非道徳的であるか、ということには文化的差異が含まれるから)。訳者あとがきでは、どのような情動であっても「認知的評価」が絡んでくるのだから基本的情動と高次認知的情動は分けることができず、せいぜいは程度の違いである、といった指摘もされている。

 ちなみに訳者あとがきは本文以上に感情の「普遍性」を推す立場で書かれている。また、感情についてその感情を経験している本人の「内側」から理解しようとすること…インタビューして語らせることも含む…は文化ごとの言語や概念に必然的に影響されてしまうが、客観的に測定できる表情や生理的反応などの「外側」から分析すれば感情の普遍性が浮かび上がってくる、といったことも指摘されている。…近年ではエクマンの研究については異論や批判もあるようだが*4、こういった方法論に関する議論も含めて興味深いところだ。

 

 また、心理学者によって書かれた本でありながら、感情に関する西洋の哲学者たちによる議論がたびたび紹介されているところもポイントだ。全体としては西洋哲学では感情が軽視されていたことは強調されているし、プラトンホッブズ・カントあたりが理性至上主義者として持ち出されて批判されてはいるが、アリストテレスアダム・スミスによる感情論は肯定的に扱われている(感情の哲学といえば定番であるヒュームの出番は本書には意外とないが)。

 

アリストテレスの中庸という概念は、現在、心理学者が「情動的知性」(emotional intelligence)と呼んでいるものと酷似している。情動的知性とは、情動と理性のどちらか一歩が完全に主導権を握るということなく、両者の間でちょうどいいバランスを取るということに関わるものである。情動的に聡明な人は、いつ自らの情動を制御すればよいのか、またいつ情動のなすがままにふるまえばよいのかを知っている。情動的知性はまた、他者の情動を正確に読み取る能力にも関わる。他者の情動状態の推測はその人が泣きじゃくっているようなときには簡単だが、そういった兆候がいつもはっきりしているとは限らない。また、私たちはよく自分の情動を覆い隠そうとして、自分が何を感じているかを他人に推測させにくくする。もっとも、私たちが心に秘めた考えをついさらけ出してしまうような無意識の昂りまでことごとく制御することなど、めったにできないのではあるが。そのような微妙な兆候から他者の気分を推察する能力は、実践を積めば改良することはできるものの、非常にたぐい稀なる才能と言える。

 

(p.56 - 57)

 

 また、本書では感情や情動というものが合理性を持っているという主張が繰り返し論じられており、「あとがき」の副題も「情動には情動なりの固有の理性がある」となっている。

 

「心(heart)には心なりの固有の理性がある」とブレーズ・パスカルは述べている。そして、さらに「そうした心の理性について通常の理性は何も知らないのだ」と付け加えるのである。人が、認知と情動、あるいは(もう少し伝統的な言葉で言えば)理性と熱情について語るとき、それら二つは、相互に明確に区別される異種の精神機能であることが前提となっている。一つは、冷たく平静・沈着なものであり、明確な論理規則に則ってゆっくりとある結論に到達しようとする。もう一つのものは、熱しやすく彩り豊かであり、情動的直感に従って一気に結論を得ようとする。しかし、ただ、心がいわゆる理性とは独立に働くことがあるからと言って、心がことごとくあらゆる種類の理性を欠いているということにはならない。それどころか、私がこの本で示そうとしてきたのは、危険から逃れようとするにしても、魅力的な人に求愛しようとするにしても、心を何ものかに集中してある判断を得ようとするにしても、情動が働くところには、必ず、それなりの理性が潜み、そして、ときにそうした理性はきわめて機能的であるということである。ただ理性の中に熱情が潜むというばかりではなく、熱情の中に理性が潜んでもいるのである。

[…中略…]

情動や気分が判断に影響するもう一つの道筋は、良い気分と自信過剰との間のよく知られた関係の中に見て取ることができる。良い気分の人は決まって自分がある活動において成功する見込みを過大に見積もり、悪い気分の人は「抑うつ的現実主義」として知られるように、そうした見込みをより正確に評価しがちである。見込みの評価以外のところに違いがなければ、正確な見込みを持てる方が不正確な見込みを持つよりもそれ自体いいことであるわけなので、普通に考えれば、悪い気分の人の方がよりうまくいくように思われるかも知れない。しかし、問題なのは、「見込みの評価以外のところに違いがない」という事態はあり得ないということである。仮にあなたの成功する確率がきわめて低く、しかもあなたの気分がすぐれないとしよう。そうした場合、あなたはその確率を正確に見積もることになるわけであるが、そうなると、あなたはそれをやってみようとさえ思わなくなるだろう。しかし、あなたが良い気分であれば、成功の望みをふくらませ、果敢にもそれに挑み、最後にはうまく成功を収めてしまうかも知れないのである。失敗して無駄になるコストが低く、かつ成功して得られる報酬が大きければ、過剰に楽観的であることの方が、より多くのものを手にする確率が高くなるだろう。逆に、私たちが、客観的な成功確率に冷ややかに基づいて期待を形成しようとすれば、いかなる試みをしようと、それは、成功の確率をさらに低くすることを招来しかねない。また、自信過剰が現実に成功の見込みを引き上げることがないとしても、それは、協力者を得たり他者からの信頼を集めたりするといった、より社会的性質を帯びた利益をその個人にもたらすかも知れない。

このような例は逆説的に思われるかも知れない。ある側面から見ると、良い気分状態にある人は、客観的事実から言えば非現実的なまでに高く成功を見積もるわけなので、あまり合理的ではなくなっているように見える。しかし、別の側面から見れば、ときに利益は大胆にふるまう人のみにもたらされることがあるわけなので、自信過剰であることは、現実的であることよりも、より合理的であるとも言い得るのである。情動はときとして、一種の「超理性」とでも言うべきものを示し得る可能性があり、通常の純粋理性が愚行に走らないよう歯止めをかけてくれているかも知れないのである。

 

(p.170 - 173)

 

 本書において「感情は合理性を持つ」と言われるときには、長期的な合理性のことを指したり、あるいは生態学的であったり進化論的な合理性のことを指している。……たとえば、ごく可能性の低いリスクにも大げさに反応してリスクを回避することは、短期的には得られる可能性の高いリターンを失わせるという点で非合理的だが、リスクの結果が死であったり大ケガであったりする場合には取り返しのつかないことになるから、どんなにリスクの可能性が低くても大げさに反応したほうが長期的に見るとよい(あるいは、わたしたちの祖先はそうやって大げさに反応したおかげで子孫を残せてきたからその傾向がわたしたちに残っている)、といった感じの主張。

(超)長期的な合理性や進化論的な合理性は経済学的な合理性とは反するとか、経済学では捉えきれない合理性がわたしたちには潜んでいるのだとかいった主張は進化心理学ではおなじみのものであるし*5、むしろ古臭いくらいのものだ(結局のところ、狩猟採集民の時代ならともかく現代社会ではわたしたちの心理や感情は頼りにならないのだから理性や制度が必要になる、というのが最近の傾向だろう)*6……2000年の本にそれを言っても仕方がないが。

 また、科学におけるピアレビューや裁判における陪審員制度など、意思決定の制度化(集団化)について疑問を呈しながら、「[ピアレビューや陪審員制度が]…うまくいっているというのであれば、それは集団が個人よりも情動的でないからではなく、逆により情動的であるからなのだろう」(p.128)と主張しているくだりはほとんど意味不明だし、ほかにも感情の利点を強調したいがあまりに無理筋な議論になっているところが多々ある。ここらへんはジョナサン・ハイトの『社会はなぜ左と右にわかれるのか』を(悪い意味で)思い出したが、『あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか』を読んだときと同じく、現在に比べると心理学者たちもだいぶ無邪気で調子にのっていたんだなと思わされた*7

 

 どちらかといえば、心理学の知見が紹介されているところよりも、哲学者の議論が紹介されているところのほうがむしろ興味深くて印象に残った。具体的には、「(宝くじに当たるような)思わぬ幸運はむしろ人を不幸にさせることが多い」というアダム・スミスによる「幸運が招く危難」論や、「妬みは民主主義の基礎にある」として妬みを肯定するバートランド・ラッセルの議論、古代ギリシアの哲学者たちはレトリックが情動に与える影響について重視していたこととかフランクフルト学派の心理学者(ほとんど哲学者みたいなもん)は集団心理についてネガティブな考えを抱いていたこととかマーサ・ヌスバウムによる「カタルシス」の議論とか。

 個別の心理学の(トリビア的な)知見として印象に残ったのは、「気分が良くて急かされているときにはニュートラルな気分で急かされているときよりも主張の論理性を判断する能力が乏しくなるが、気分がよくて時間もたっぷりある場合にはニュートラルな気分で時間がたっぷりある場合によりも主張の論理性を判断する能力がさらに上がる」というのや、「ポジティブなものであれネガティブなものであれ激しい情動を伴った場面は記憶に定着して想起しやすくなる(ネガティブな記憶は抑圧されるというフロイト理論は間違い)」というの。

 また、情動の合理性という議論については、本文中のものよりも訳者あとがきのほうがむしろ説得的で印象に残った。

 

もう一点、情動の合理性・機能性に関わる議論をしておこう。それは、時間や情報などの資源が十分にある場合とそうではない場合で情動の見え方ががらりと変わるということである。情動は、大概、せっぱ詰まったときに生じる。とっさに何かをしなくてはならないというときに生じてくるのである。[…中略…]…私たちはよく、ある強い情動が絡んだ過去の事柄を思い出すときに、あのとき、もし別の逃げ方をしていればよかったとか、もう少し効果的な抗議をしておけば今、困ることはなかっただろうに、などということを考えるものである。それはひとえに、情動に駆られた思考や行動が最適なものあるいは合理的なものでは決してなかったという判断がそこに働くからにほかならない。

しかし、これはよくよく考えると、じつにおかしな話である。それというのは、情動は、ある問題を解くのに十分な時間と情報が与えられている場合には本来あまり生起しないわけなので、その視点から情動的行動の機能性や合理性を考えても、ほとんど意味をなさないからである。従来、情動をめぐる議論は、概して理想的な状況でできたであろうこととの対比において、情動を非合理・反機能的と決めつけることが多かったわけであるが、情動が現に生起するそれぞれの状況との関連で、そこでの思考なり行動なりを見ると、それらは大概、その限られた中で最も高い機能性や合理性を具現しているのだと言えるのかも知れない。

 

(p.189 - 190)

 

 なお、一見すると不合理であったり合理性が説明できなかったりする社会的な感情(罪悪感や怒りや不公平感)なども(狩猟採集民の)集団生活における互恵性とか自己防衛とか資源の分配とかに由来する、といった議論もされている。このトピックについてはクリストファー・ボームの『モラルの起源』などで深掘りされていたところだ。