道徳的動物日記

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インターネット時代におけるマスメディアの必要性(読書メモ:『マスメディアとは何か 影響力の正体』)

 

 

 マスメディアを研究する分野といってもさまざまにあるだろうが、本書の内容は「マスメディアが人々にもたらす影響をデータを用いて科学的に検証する研究分野」である「メディア効果論」に立脚しており、「取材方法などに関する情報の送り手についての議論ではなく、視聴者などの受け手に対する影響」に関する議論がメインとなっている(p.v)。

 そして本書のもうひとつの特徴は、マスメディアを擁護したり肯定したりする議論がたびたび登場すること。市井の人々がマスメディアに対して抱いているさまざまなイメージ……「偏っている」「人々を洗脳している」「何も影響力がない」「オワコンだ」……が誤っていることを指摘して、マスメディアの影響力について冷静に分析しながら、その存在が民主主義社会には不可欠であることが主張されているのである。とくに終盤の第5章と第6章では「インターネットがマスメディアに取って代わる」というネット黎明期にあった期待がまったくの幻想であったことを鋭く論じたうえで、インターネット時代であるからこそのマスメディアの必要性が説かれている。……本文中にも書かれているが、著者のような「マスコミ擁護派」はメディア研究者のなかでも少数派な存在であるようだが。

 また、本書はメディア効果論の学説史というかレビューのようにもなっており、専門外の研究者や実務家にもわかりやすくメディア効果論の知見を参照できるようになっているとともに、著者としては「次代のメディア効果論の研究者の育成」という点も意識しながら書いたものらしい(p.252)。そのため、専門外の読者にとってはマイナーな研究者の名前がいっぱい出てくるほか、各研究についても研究手法やそれに伴う研究結果・研究範囲の限界などが細かく紹介されている。「研究成果」だけでなく「研究手法」も詳しく伝えることは本書に限らず最近の新書本ではよく見受けられることだし*1、読者に自分や自分野で主張されていることを鵜呑みにさせず、より注意深く考えさせることに誘うという点で基本的には好ましいことだが、それにしてもかなり詳細かつ堅い筆致なのでアカデミックな文献になれてない読者にとっては読みものとしてつらいところがあるかもしれない。

 

 第1章は、初期(戦後)のマスメディア研究で盛んに主張されていた「強力効果論」について。「文字通りマスメディアが強力な効果を持つという前提に立つ」「メディアの効果がすべての人に対して即時的、直接的に及ぶものだという想定に特徴づけられる」(p.5)議論で、ナチスプロパガンダに対する反省や「なぜナチスの宣伝はあれほど強力だったのか」という疑問からスタートしたらしい。ただし、現代ではそもそも「ナチスプロパガンダが強力だった」というイメージ自体が誇張されていたものであることが明らかになっている*2。また、「『宇宙戦争」事件」に関する研究も取り上げられているが、「メディアの影響力は誰にでもいつでも働くわけではなく、フェイクニュースに騙されるかどうかも、そのニュースを受信した人が批判的思考能力を働かせられる状況にあったかどうかや、身近な人からの影響があったかどうかに左右される」といった結論になっている。

 第2章では、マスメディアの影響力は限定的であると主張する「限定効果論」が扱われている。この章では「対人コミュニケーション」や「選択的接触」がキーワードとなっており、マスメディアと個人の間には「個人の所属する集団」や「集団内のバリア」があること、またどのような情報に接触したりどのような情報を受け入れたりするかは個人側の動機や心理に認知過程などにも影響されているから、マスメディアがただ情報を発信するだけでみんながその情報に影響されるわけではない、といったことが論じられている。

 具体的に紹介される知見は、「選挙においてマスメディアが人々の投票先を変えたわけではなかった(もともと所属していた集団の影響力のほうが強かった)」「マスメディアの情報を集団内のオピニオンリーダーが受け取り、リーダーから非リーダーの人たちにその情報が伝達される(コミュニケーションの二段の流れ)」「個人は自分の信念や都合に合わなくて認知的不協和を生じさせられるような情報を回避して、都合の良い情報にばかり接触する(選択的接触)」といった知見が紹介されたのちに、メディア研究におけるエビデンスや体系や研究史といったポイントについても論じられている。

 限定効果論は強力効果論に比べるとエビデンスや数字に裏付けられたものではあったようだが、「マスメディアは大した影響力を持たない」という結論は研究者にとってもそれを支援する企業にとっても魅力的ではなく、マスメディア研究の一時停滞を招いた。また、限定効果論に対しては「マスメディアの影響力を過小評価することでマスメディアの権力性を覆い隠している」という批判がなされた一方で、限定効果論を肯定する研究者たちにも「巨大なマスメディアの影響力に抵抗する能動性を持った市民たち」という物語に引っ張られていた側面があるそうだ。前者の批判は科学的知見を無視しているし、後者は人間の心理的な特徴や制限に過ぎないものを美化して捉えている、というのが著者の指摘だ。いずれにせよ、マスメディアの影響力を過大評価することには警戒すべきである……「人々をプロパガンダから守るためにマスメディアを規制すべきだ」という主張ほど政治的権力に都合のよいものはないから……と著者は主張する。

 

 第3章では、限定効果論の研究結果にも限らずなぜマスメディアの影響力は大きく見積もられがちなのであるかが論じられて、「「マスメディアを疑う」ということを疑う視点」(p.85)が提供される。ここで主に論じられるのは、「自分はマスメディアの影響を受けないが、他の人たちはマスメディアに容易く影響されてしまう」と認識してしまう「第三者効果」というバイアス、そして実態以上にマスメディアが偏向していると認識してしまう「敵対的メディア認知」というバイアスだ。

 第三者効果は心理学の本などでもよく紹介されるものだ。人は「自己高揚傾向」「内観の幻想」によって自分の意見は熟考にもとづく(優れた)ものであると思いがちだが、他人の意見については「マスコミに影響されているんだろう」「SNS上のフェイクニュースに踊らされたものにすぎない」と容易く判断してしまうということである。また、敵対的メディア認知は、「マスメディアは偏向している」と主張している個人の側の党派性や「選択的記憶」(自分の立場に沿わない情報のほうが印象に残って優先的に記憶される)などが原因で生じる。そして、著者は「少なくとも日本のマスメディア事業者が発信する政治的ニュースについては、特定の方向への偏向は比較的起こりにくいと考えられる」(p.110)として、「マスメディアの偏向報道」がオーバーに表現されていることを改めて指摘する。

 そもそも、日本のテレビ・ラジオは政治ニュースについては放送法によって報道の公平性を保つことが厳しく要求されている(ただし新聞やウェブ記事はその限りではない)。また、テレビ局も新聞社も営利企業であるために「顧客」の意向を気にする必要があるが(NHKも視聴率は受信料徴収の正当性を維持するために視聴率は気にする必要がある)、日本は右でも左でもなく中間に有権者がたくさんいる国なので、偏向報道潜在的な顧客を減らすから、政治的ニュースは中立なものとなる。……著者の主張には異論があるだろうが(「マスコミは偏向している」と主張する人はテレビよりも新聞を標的にしているかもしれないし、報道ニュースなどではなく討論番組とかバラエティ番組などにおける「偏向」や「洗脳」を問題視しているかもしれない)、わたしとしては賛同できる。まあわたしが念頭に置いている比較対象がアメリカだからということがあるかもしれないけれど(アメリカでは報道における「公平性の原則」が撤廃されており、有権者の政治的二極化も激しくなっているから、本書の議論にしたがっても、アメリカのマスメディアが偏向している可能性は否定できないように思える)。

 

 第4章で紹介されるのは1970年代以降に登場した「新しい強力効果論」であり、直接的に観察可能な投票行動ではなく人々の目に見えない認知過程にマスメディアがもたらす影響について論じられている。

 具体的には、マスメディアは「あるトピックに対して人々はどんな考えを抱くのか」ということには影響できないが、「議題設定」や「ゲートキーピング」を行うことで「そもそも人々がどんなトピックについて考えるか」ということには影響力を与えられる。たとえば選挙においては、マスメディアは人々の支持政党には影響を与えられなくても、選挙における「争点」を設定する能力はあるのだ(または「どんなトピックが由々しき社会問題であるか」ということも報道によって設定されたりする)。

 そして、同じトピックであっても、どのような「フレーム」で報道されるかによって人々の認識に与えられる影響は変わる。たとえば、問題の背景を一般化・抽象化して論じる「テーマ型」の報道よりも特定の人物や出来事に注目した「エピソード型」の報道のほうが人々の印象に残りやすい(また、たとえば貧困問題について特定の個人にフォーカスしたエピソード型で報道することは、報道の意図とは裏腹に自己責任論を招きやすいという問題も紹介されている)。

 さらに、テレビというメディアには人々の間に「共通の世界観」を培養するという特性もある(培養理論)。テレビは読み書きが苦手でも視聴できるから多数の人が触れてきたうえに、自ら能動的に選択しなくても常に番組が流されるために「選択的接触」が回避されやすい。そのため、好むと好まざるとにかかわらず、「いま世の中ではこんなことが起こっていますよ」とか「いまの社会はこんなことになっていますよ」とかいった認識が視聴者たちの間に培われていき、意見も似通っていて世論の「主流」が形成されるのだ(右派や左派の人であっても、テレビの視聴時間が長ければ長いほど、諸々のトピックに関する意見は中道に寄っていく)。……もちろんメディアが万能なわけではなく、現実世界の制約をすべて超えられるわけでもないが、現実認識に与えられる影響力はやはり大きなものである。そして、マスメディアが恣意的に情報を選択して争点を設定できるというのは、やはり人々の自由とか民主主義とかには相反するところがあるので、1990年代以降のメディア研究ではインターネットに大きな期待がかけられることになった。

 

 第5章は、そのインターネットの問題について。基本的には「インターネットは個人の選好の強化を助長する」というのが主な問題であり、ネットでは既存メディア以上に選択的接触が激化するしSNSでは自分と似た傾向を持つ他者とつながってしまうし(類同性)、さらに検索エンジンSNSの側も個人の選好に沿った情報を表示するパーソナライゼーションを行うために、認知的不協和を引き起こすような情報はまったく目にせず知りたい情報だけに囲まれて過ごすことが可能になってしまう……その結果としてエコーチェンバーやフィルターバブルなどの社会的に有害な現象が引き起こされたり、意見の異なる者同士が最低限の情報共有や共通認識を成立させることも難しくなって民主主義に危機がもたらされたりする、という議論だ。

 この議論自体は、本文中にも出てくるキャス・サンスティーンが15年くらい前から指摘していたことでもあるし、いまやお馴染みの感もある。とはいえ、従来のマスメディアは偏向しておらず「中立」であったからテレビや新聞は視聴者や読者が抱いているのと反対の意見を届けられていたことなどが強調されているのは、本書の議論の文脈に沿っていて印象的だ。また、検索エンジンSNSアルゴリズムよりもユーザー個々人の類同性にもとづいた選択がフィルターバブルを作り出すことが指摘されているなど、わたしたちがネット環境の単なる犠牲者でもないことに触れられているのは重要だと思う。そして、やや意外なのが、「Yahoo!ニュース」や「SmartNews」などの「ニュースアグリゲーター」は、ニュース記事にせよ意見記事にせよ多様な情報に読者を触れさせる仕組みなので、選択的接触やエコーチェンバーを抑制する効果があるという指摘である。

 ネットの発展に伴い「注意経済(アテンション・エコノミー)」が活発化した現在では、ネットによって右派や左派の偏向が過激化するという問題以上に、そもそも政治ニュースに触れない人々が増加する可能性のほうが深刻である。みんながテレビを視聴していた時代には政治に興味がない人でも朝や夕方にはニュースを目にすることで自然と政治についての知識を獲得するという「副産物的政治学習」が行われていたが、自分の好きな分野の情報に選択的に触れているだけで注意力や時間が全て消耗されるようになった現在では、政治的な知識を得る人はもともと政治に興味のある人……つまり多かれ少なかれ右が左に偏っている人だけなので、中間的な意見と浮動票を持つ有権者が選挙に足を運ぶ機会も減っていくのだ。

 だが、インターネットの欠点はマスメディアを経由した仕組みによって抑えられる、とも著者は論じている。たとえばヤフー・ジャパンのトップページには常に8本のニュースが表示されているが、この記事の選択はデータ分析によって自動的に行われているのではなく人力で行われているうえに、パーソナライゼーションがされることはなくどのユーザーにも同じ記事が表示され、そして政治や経済や国際といったハードニュースが必ず含まれる。このようなポータルニュースの利用者は、政治よりも娯楽に興味がある人であっても政治的知識を得られやすいのだ。

 

これは、ポータルサイトなどのニュースアグリゲーターが、インターネット上のサービスでありながら、以下に述べるようなマスメディアとしての特徴を持つがゆえである。1つ目は、日本におけるヤフー・ジャパンに代表されるように、利用者の規模が大きい(マス)という点である。2つ目は、これらのサイトに掲載されている記事の多くは、テレビ・新聞といった既存のマスメディア事業者によって作成されたものであるという点である。そして3つ目は、個人の選好のみにもとづくパーソナライゼーションによって表示する記事を決定するのではなく、多くの人が知るべきだと考えられる重要なニュースをすべてのユーザーに等しく表示しているという点である。

(p.227)

 

2000年代の中ごろまでは、ブログや市民メディアがニュース発信者としてマスメディアの地位を脅かすかのような言説も存在したが、継続的にジャーナリストを育成し、ニュースを発信し続ける既存のマスメディア事業者の役割を代替する存在とはなりえなかった。結局、人々のボトムアップによる情報発信のみではメディアは成立せず、ジャーナリストなどによる取材・執筆と専門家によるトップダウンの編集が必要となることは、新しい技術が社会にもたらす変化(もっといえば、新しい技術が作る未来)について楽観的に描く雑誌『ワイアード(Wired)』を創刊したケヴィン・ケリーですら、認めざるをえなかった。なお、政治家などのニュース当事者によるSNSを通じた情報発信は盛んに行われているが、これは自らが伝えたい情報のみを発信する広報であり、たとえば汚職や不祥事などの本人が伝えたくない情報も伝える報道とは異なる。また、記事の自動生成を行う自然言語処理の技術がいかに進歩したとしても、日々変化し続けるニュースについて、人間の手によって書かれた良質なデータが供給され続けない限り、記事を生成し続けることは難しい。

(p.228 - 229)

 

 ただし、ニュースアグリゲーターがマスメディアから安価に記事を買い叩くことでマスメディアが利益を上げられなくなり、ジャーナリストの育成や良質な記事の作成もままならなくなれば、結果としてニュースアグリゲーターも共倒れする危険性はある。インターネット事業者としてはそういう点にも注意しながら、パーソラナイゼーションを行って個人の選好に沿った情報を表示するだけでなく、選好とは無関係の情報を届けることが民主主義を持続させるための社会責任として求められているのだ。

 というわけで、最終章である第6章では「マスメディアは社会にとって必要な存在である」(p.236)という結論が改めて提示される。また、この章では、ネットやAIなどの技術が発展した状態でもその技術をどう用いるかには人々の主体性が介入する余地があるとして技術決定論を退けながら、メディア環境を守ることの必要性が主張されている。

 

メディア環境の改善においてマスメディアが果たすべき役割は「人々が見るべき情報をなるべく多くの人に等しく届ける」ことである。「自分が見たい情報は自分自身が一番よく知っているのだから、見るべき情報をマスメディアが決めるのは傲慢だ」という意見もあるだろう。しかし、個人としては自分の見たい情報を見続ければそれでよいが、すべての人が自分の見たい情報だけを見るようになれば、少なくとも民主主義は機能不全に陥り、結果として個人も不利益を被る。こうした社会的ジレンマ状況を考慮しなければならない。したがって、傲慢に思えても、誰かが情報を選択する役割を担わなければならないのである。

 

(p. 248 - 249)

 

 この結論に対してはネット民からは反発も多いだろうが、わたしとしては充分に同意できる。……イーロン・マスク買収前のTwitterでニュースメディアのキュレーションが行われたことが発覚した件を見ると、情報をキュレーションするとしても、「キュレーションをしている」という事実そのものはオープンにしたり、キュレーションにあたっての基準などに関する公開性や透明性にはかなり気を付けるべきだとは思うが(そうしないと反動を招いてメディア不信がさらに悪化してしまうので)。……一方で、はてなブックマークポータルサイトでありながら専門家によるキュレーションが行われていないWebサイトであるが、現在の(それ以前からの?)この惨状を見ると、やはり専門性に基づいたトップダウンによる情報や記事の選別って必要なんだなと思わされる。

 

 全体的には、テレビメディアが世の中に対してポジティブな効能をもたらしていることが色々と指摘されているところが印象に残った。また、本書を読んでいてたびたび思い出したのが、中学生だか高校生だかのときに社会の先生が授業で言っていた「新聞を読みなさい」という説教だ。要するにマンガばかり読んだりゲームでばかり遊んでいたりバラエティ番組ばかり見ている学生に対して「もういい歳なんだから新聞を隅々まで読んで、世の中で何が起こっているかを知りなさい」ということなのだが、ふと振り返ってみると、わたしを含めた現代社会の大人の多くが当時の中学生と同レベルになっていること……自分の知りたい情報だけを追って他の情報は気にもかけない人間になってしまっているわけである。今後は気をつけていきましょう(……とはいえ、だからといって新聞を購読するのは金銭的にも二の足を踏んでしまうし保管スペースやゴミの処理などにも困るし、テレビだって我が家にはないし購入したところでニュース番組を流す習慣はもう失われているしで、「選択的接触」を予防するために自分の身のまわりの環境を整えるというだけでも、実行するのはなかなか大変で厄介である)。