批判その7:啓蒙主義(科学的な理性)は、その産物である人工知能やソーシャルメディアによって葬り去られてしまうだろう。
ピンカーの反論:メアリー・シェリーが『フランケンシュタイン』を書いた時代なら、そのような物語は魅力的なものだっただろう。しかし、電気によって復活する人間の死体と同じく、人間に取って代わる人工知能とはSF的なファンタジーに過ぎない。人工知能脅威論は誤りであり、メディアは過剰な不安を煽っているということは、私の他にも多くの論者が指摘している。ロドニー・ブルックスが「AIの未来予測に関する7つの大罪」で論じているように、新しい技術があらわれた時には人々はその技術をまるで魔法のように何でもできるものだと考えてしまい、その技術の限界を正確に認識することができないのだ。
ヘンリー・キッシンジャーは2018年の記事で「インターネットを利用している人は情報を扱うことばかりに気を取られて、その情報の意味を文脈化したり概念化したりすることができなくなる」と書いた。インターネットを使わずに年鑑で物事を調べている人がそうでない人よりも情報の意味を文脈化したり概念化したりすることに長けているかどうかは怪しいものだ。どうすればインターネットが現代の世界を人々が王権神授説を信じていたり異教徒を焼いたりしていた啓蒙主義以前の時代へと逆戻りさせるのか、キッシンジャーは全く説明できていない。
人工知能のアルゴリズムは人間の言語では理解不能であり、時には根拠が全く理解できないような判断を示すため、意思決定をAIに任せることは合理的に正当化された説明や政策という考えを時代遅れのものにするだろう、とキッシンジャーは予測する。しかし、ディープラーニングとはインプットしたデータから効率よくアウトプットするメカニズムに過ぎない*1。実のところ、キッシンジャーのような人が恐怖を抱く「ディープラーニングがアウトプットをする判断根拠には、人間には理解できない部分がある」という点こそが、ディープラーニングの弱点なのだ。AIとは道具に過ぎないものであり、今後AIがより発達して「知能」に近いものとなるとしても、アウトプットの判断根拠を明らかにしてより人間の常識に沿った穏当な判断をする方向に進化することにだろう。
ソーシャルメディアも、民主主義を破壊したり若い世代を蝕んでいるなどと非難される。しかし、メディアが根拠不明の情報や剽窃や陰謀論を助長させて不毛な荒地を作り出すのは今に始まったことではなく、印刷メディアが登場した時代から起こっていたことだ。そして、メディアが撒き散らす嘘に対抗できるのはメディアによって真実を発信することである。嘘とはそれを信じる人がいなくなれば消滅するものであるが、真実とは誰かが信じなくても存在し続けるものであるため、結局は嘘ではなく真実の方が残ってきた。ソーシャル・メディアの時代はまだ始まったばかりなのであり、これからも嘘ばかりが流通し続けたり民主主義が毀損され続けると考える理由はない。フェイクニュースの影響力は過大評価されており、実際には2016年の大統領選にすら大した影響を与えなかったのである。
スマートフォンへの非難についても、広い視野で捉えてみよう(↓本とか雑誌とかウォークマンとか、どの時代でも何らかのメディアが非難を受けていた、という漫画)。
スマートフォンが最近の若者を不幸にしているという証拠はない。むしろ、使い過ぎない限りは若者の精神的健康にポジティブな影響を与えている可能性もあるのだ。
批判その8:なぜニーチェに対してそこまで厳しいのだ?
ピンカーの反論:私が『現代の啓蒙』のなかでニーチェのことを手ひどく扱ったことは、私の予想を遥かに上回る反響を呼んだ。
ニーチェの著作は「人道主義の反対とは何か?」ということへの答えを示すものだ。ニーチェは、最大多数の人々の幸福を増加させて苦痛を減少させるべきだという考え方をユダヤ-キリスト教的な「奴隷道徳」であると見なし、偉大な業績によって人間という種を引き上げる英雄と天才たちによる究極善にとって邪魔にしかならない、と論じた。『現代の啓蒙』では、ニーチェの愛すべき名言をたっぷりと引用させてもらった。「高次の人間による、大衆に対する戦争の布告」とか「衰退しつつある人種の絶滅」とか「退化しており寄生的な存在を容赦なく駆除することを含む、人類のより高次な繁殖」などなどだ。古くはファシストやナチスやボルジェビキから、現代のオルタナ右翼や白人至上主義者に至るまで、彼らがニーチェを好んできたことは偶然ではないのだ。そして、驚くほど多くの芸術家や知識人たちや、どんな世代にもいるニーチェのファンたちも、彼のことを先端的でクールだと見なしている。
『現代の啓蒙』のなかでニーチェをこき下ろしたのには理由がある。多くの著作家たちは、ニーチェの登場は啓蒙主義が神の存在を否定したことの必然的な結果であり、啓蒙主義的な人道主義者であるためにはニーチェ主義者にならなければならない、と主張してきた。しかし、人道主義とニーチェ主義との間には、神の存在を否定していること以外に共通点はない。ニーチェと人道主義者を一緒にしている人の一部は、単純に無知な人である。彼らは神の存在を前提とした道徳に頭を支配されてしまったので、神の存在を前提せずに道徳を築く方法について理解することができなくなっているのだ。より賢い人でも、ジョン・グレイのように科学や民主主義などの現代的な理念に我慢できなくなって、連想ゲーム的にニーチェと結びつけることで啓蒙主義を貶めようとする人がいる。
だが、ニーチェは自分の文学的才能を駆使して「大半の人間の生命には価値がない」と主張し続けた。人道主義とは正反対の主張だ。人道主義とは、神の存在とニーチェ主義の両方を否定することなのである。
複数の批評家たちが「ピンカーはニーチェのジョークを理解できいない」と憤慨した。人種を絶滅させることについての文章や女性嫌悪的な文章を書いていたとき、ニーチェは本気でそのようなことを主張していたのではなく、単に皮肉やフィクションを書いていたり他の時代や地域の人々の考え方を再現しようとしていただけなのだ、と批評家たちは主張する。批評家たちに言わせると、ニーチェの文章はそもそも論理的なものではなく個人的で箴言的で矛盾と謎だらけなものなのであり、ピンカーにはニーチェの文章を批判する権利はないそうだ。
しかし、ナチスやオルタナ右翼はニーチェのことを誤解していると言い張るニーチェの擁護者ですら、ニーチェがレイシストやファシストに好まれる一因がニーチェ自身にあることを認めている。ニーチェのようにファンの多い著作家が「劣った人種は絶滅させろ」と何度も何度も書き続けていたとしたら、深読みをしない読者たちが「劣った人種は絶滅させるべきだ」と考えるようになっても不思議はないだろう。ニーチェは反ユダヤ主義者に対して批判的であったという事実も、哲学者のケリー・ロスが示したようにニーチェが人種差別主義者でありユダヤ人も非難していたということをふまえれば、擁護にならない(ロスは『現代の啓蒙』におけるニーチェの扱いを批評家から擁護してくれて、むしろ私のニーチェの扱い方はあれでも甘過ぎる、と指摘した)。
私はニーチェ研究者ではないが、反啓蒙主義的であり反人道主義的な思想家として私がニーチェを扱ったことは、バートランド・ラッセルを含む複数の哲学者たちや思想史学者たちの研究に基づいている。そして、『現代の啓蒙』の出版後に公開された、ニーチェ研究者である法哲学者のブライアン・ライトナーのエッセイも、私のニーチェの扱いが正しいことを裏付けるものであった。ニーチェが超人性を優先するがために道徳的平等を否定したことを、ライトナーは明言しているのだ。