道徳的動物日記

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「傷つき」と表現の自由(読書メモ:『表現の自由を脅すもの』)

 

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 昨日に公開された現代ビジネスの記事ではジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を紹介したが、ミルと同じようなタイプの主張を現代において行なっている本である、ジョナサン・ローチの『表現の自由を脅すもの』にも目を通してみた。現代といっても1993年であり、30年前の本ではあるんだけれど……。

 

 

 

 しかし、30年前であるのに、この本で問題視されている状況は現代とまったく同じようなものだ。つまり、アメリカのジャーナリズムやアカデミズムでは表現の自由が脅かされていること、その脅かしは宗教的原理主義者や右翼だけではなく左派からも訪れていること、そして彼らが表現の自由を制限したり抑圧したりしようとする根拠はマイノリティに対する配慮や同情であるということだ。

 90年代の前半ということはSNSやインターネット以前の時代であるのだが、そういえば「ポリティカル・コレクトネス」が問題視されるようになったのも90年代からである。結局のところ、ネットは新しい問題を生み出したというよりかは、昔から存在する問題を可視化したりブーストしたりしているだけ、と言えるのかもしれない。

 

 ローチは、現代(当時)のアメリカで「あなたは他人を言葉でもって傷つけてはならない」という原則が浸透しつつあることを危惧する。

 ただしい知識にたどり着くための研究や討論においては、どこかで誰かが傷つく事態は必ず発生する。その「傷つき」の対象とは人種的マイノリティや性的マイノリティには限らない。たとえば、一見すると人の生活や価値やアイデンティティと関係のなさそうな地球科学や生物学の研究ですら、地球平面説や創造論を信じるキリスト教原理主義者を傷つけてしまう可能性はある。また、『悪魔の詩』事件が示すように、イスラム原理主義者たちは物理的な暴力をもって実際に表現の自由を脅かしてきた。

 原理主義者であってもマイノリティであっても、知識によって傷つけられることはあり得る。とはいえ、原理主義者の傷つきや彼らによる復讐を恐れて知識から遠ざかってしまうことは、近代社会や民主主義政治の根底にある「自由思考」や「自由科学」を捨ててしまう「敗北」である*1。そんなことがあってはならない。そして、原理主義者のために表現の自由が脅かされることがあってはならないのなら、同じように、マイノリティに対する配慮によって表現の自由が脅かされること(この本のなかでは「人道主義者からの脅威」と表現される)も、あってはならないのだ。……ローチの議論をざっくりとまとめると、このようになるだろう。

 

 さらにざっくりと、ローチの主張を一文で表してみるなら、どうなるか?それは「だれかを傷つけるものであっても、そんなこととは関係なく、表現の自由は守られるべきだ」というものになる。

 この主張は、2020年代のいまから見ればかなり粗野に思えてしまうものだろう。実際のところ、この本のなかで彼はかなりマッチョな議論をしている。

 以下、印象的な箇所を引用してみよう(太字の部分はわたしによる強調)。

 

私は、人道主義者や平等主義者が、道徳的に高い立場にあるという主張は偽りであるということ、そして、人を傷つけることを許容、ときには推奨しさえもするという誓約をもつ知的自由主義が、唯一の本当に人間らしい体制であるということを示したいと思う。私は、「言葉で傷つけられた」人々には、補償という形で何かを要求するという道徳的権利はいっさいないということを示したいと思う。自分が傷つけられたというので何かを要求する人に対する正しい答えとは何か。それは、「お気の毒、だけどあなたは生きていくでしょう」というに尽きる。「人種差別主義者」「同性愛恐怖者」「女性差別主義者」「神を冒瀆する者」「共産主義者」、あるいは、どんな化け物であろうと、これらのものを処罰せよと主張する人たちはどうかといえば、彼らは知的探求の敵であり、彼らの騒がしい要求は全く無視されて然るべきであり、いっさい付き合ってはならない。

(p.44)

 

我々は皆、自分の方からとにかくもっと攻勢にでてけしかけろなどと言っているのでは勿論ない。どうか、ユダヤ教の礼拝堂にペンキで鉤十字を描いて、私は祝福を与えているのだなんて言わないようにしてもらいたい。面白がって人の気に障るようなことをするのには反対である。しかしまた私にとってはっきりしているのは、知識の追求に当たっては、多くの人たちが、そして多分我々のほとんども何らかの機会に、傷つけられるということ、しかもこれは、どうにかしようと願ったり、努力したりしてみても、どうにもならない現実であるということである。人を傷つけるのは良くない。しかし、どうしてもそうならざるをえないのである。傷つけ合いなしの社会は、知識なしの社会である。

(p.199)

 

(……前略……)彼がもしきつい態度を取りたいというのなら、自分の戸口に「ホモは病気だ」と書いたポスターを貼りつけたいというのなら、それを差し止めるべきではない。実のところ、私がはっきり言いたいのは、もし彼がゲイ(ホモ)の人たちは、直せるような病気に罹っていると信じるのなら、そう発言し、自分の主張を証明するようにすればよいということである。

どうしてそう言えるのかって。

先ず第一に、彼を罰したところで効果はないからである。抑圧するだけでは、いかなる仮説も完全に埋葬されることはない。悪しき考えを葬る唯一の道は、それを天下に曝し、より良いものをもってこれに代えることである。

第二に、すべての少数者同様、ホモの人たちも、知識や議論を規制する措置によっては、得るよりも失うところが遥かに多いからである。確かに今日、取り締まる人たちはゲイの人たちの側に立っているといえよう。しかし車輪は回転し、多数者の方がのし上がってきて、異端裁判的機構が彼らに向けられるようになると、ホモの人たちは、自分たちも手伝ってそれを作り上げた日を悔いるであろう。

(……後略……)

(p.255)

 

 上記のようなローチの主張は、おそらく、現在では通じない。いまとなっては、言葉は単に人の気持ちを傷つけるだけでなく、気持ちを傷つけることで精神的・肉体的な損傷を引き起こしかねないこと、そして場合によっては人を死に至らしめかねないことが、多くの人によって理解されているからだ。人種的・性的少数者に対する差別的な言動や表現が、彼らにトラウマを与えたり彼女らを自殺に追い込んだりしてきたらしいことは周知されるようになっており、良心的な人々は、だからこそ自分や他人が差別的な言動や表現することを危惧して「規制もやむなし」と考えるようになっているのだ。

 ……とはいえ、過去に現代ビジネスで紹介した『アメリカン・マインドの甘やかし』のなかでも危惧されていたように、現代では不愉快な表現や非・左派的な思想や言論を抑圧するために、「危害」の概念が後付けで拡大されている感がある。そして、攻撃的であったり挑戦的であったりする言論に触れて、正面から受け止めて対峙したりする機会が失われることで、若者は言論に対する免疫がなくなってますます傷つきやすくなる、という悪循環も発生しているようだ*2*3

 なにより、原則論として、「人を傷つける知識や表現は制限しましょう」という発想は、(1)どんな表現についてもどこかの属性の人が「わたしはこの表現で傷ついたから、この表現は封じられるべきだ」と言い出す泥沼の状況か、(2)「この属性の人の"傷つき"は配慮されるべきだが、この属性の人の"傷つき"は配慮されるべきではない」という権威主義的で独善的な選り分け、のどちらかを引き起こすことになるだろう。

 

 とくに今日のSNSやアカデミアの状況をみると、以下の引用部分は、かなり鋭い予言であったように思われる。

 

それが無神経なように聞こえるとしても、 気持ちを傷つけられない権利というものが確立されると、より礼儀正しい文化に至るどころか、誰が誰にとって不愉快だとか、誰がより多く傷つけられていると主張することができるかといったことをめぐって声高な泥仕合が一杯起きるだろう

(p.205)

 

言葉の上での攻撃と物理的暴力を同等だと考えたい人には、もう一度自分の立っている立場の論理を思い返してほしいと言いたい。もし人を傷つける意見が暴力なら、つらくてきつい批判は暴力だということになる。言い換えると、人道主義的前提に立てば、科学それ自体が一種の暴力になる。では暴力に対処するにはどうするか。それを止めさせ、実行者を罰するのに、公的・私的な警察権力を樹立する。そして人を傷つける思想や言論を取り除く権限を持った当局者を立てる。別言すれば、異端尋問所を、である。

(p.207)

 

 ……とはいえ、やっぱり、「傷つき」を一切意に介さずに表現の自由や知識の追求が原理的に擁護される社会というものが成立するとも思えない。それは大半の人にとってキツ過ぎるし、けっきょく人間には人道主義的な傾向が多かれ少なかれ存在するのだから「配慮」や「同情」というものは必ず発生するはずだ。そして、ヘイトスピーチや無知蒙昧な表現を放置することは、原理的には必要であるとしても、現実的にはデメリットやコストの方が多くて割りに合わないことは、火を見るより明らかだ。だからほどほどの「落としどころ」を見つけなければならないのだが、その「落としどころ」を探すための試みが、泥仕合や異端尋問に繋がっているとも言えてしまう。まあ難しい問題である。

 

*1:ローチはジョン・ロックカール・ポパーなどの知識人たちの考え方を紹介しながら「自由思考」や「自由科学」のあり方や成り立ち、価値などを説いているが、まあミル的な「思想の自由市場」とだいたい似たような感じと言っちゃっていいと思う。

*2:

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安全主義は、「危険」や「不安」に関する学術用語の定義を拡大させるという影響ももたらしている。ニック・ハスラムという心理学者は、心理学の世界では「コンセプト・クリープ(概念の漸動)」という現象が起こっていることを指摘した。心理学研究においては、「PTSD」「精神障害」「虐待」「いじめ」などの単語が指し示す意味の範囲は近年になって急に拡大しており、概念の名前は同じであってもその中身は大幅に変わっているのだ。

特徴的なのは、いずれの概念についても、その定義や基準が客観よりも主観を重視したものとなっていることだ。たとえば、ある人が「自分は虐待を受けた」と申告したり「トラウマを負った」と主張したりした場合、虐待やトラウマの存在についての客観的な検証がなくとも、本人の言い分が事実としてそのまま認められるようになっているのである。

こうして危険や危害の基準が客観的なものから主観的なものになることによって、差別や暴力の問題について論争的な議論を行う学者の講演についても、学生が「この学者の講演を聴くことによって傷ついた」「自分の大学がこのような主張を行う論客を招待したという事実によって不安になった」などと主張することで、授業や講演をキャンセルすることが可能になった。

*3:

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たとえば、デラルド・ウィン・スー教授が発明した「マイクロアグレッション」という概念では、日常的な言動のなかで行われる些細な見下しや侮辱も攻撃(aggression)の一種であるとされる 。しかし、マイクロアグレッションという概念は、発話者が攻撃を意図していなくても聞き手が傷つけばそれが攻撃である、としてしまう。つまり、「攻撃」の定義を発言者の意図や客観的な基準にではなく、聞き手の主観に委ねてしまう概念であるのだ。

マイクロアグレッションという概念にかかると、「自分が傷ついた」という感情が、相手を非難することを正当化する根拠になってしまう。最初は不愉快であったり攻撃的に聞こえた発言であっても、相手の発言についての真意をたずねたり「どのようなことを主張しようとしているのか」と冷静に解釈したりすることで誤解が解けたり建設的な対話がスタートする可能性はあるものだが、その可能性が閉ざされてしまうのである。

さらに、マイクロアグレッションのような概念は、学生たち自身の精神的健康にも良からぬ影響をもたらす。他人に対する非難を優先して自分の感情の正当性を吟味することを怠らせるだけでなく、「自分が被害者である」とか「自分は傷つけられた」といった意識が他人を批判する根拠になると思わせることは、そのような意識を積極的に持つように本人を動機付けてしまうのである。その結果、学生たちは、「自分は被害者である」という意識から逃れなくなるのだ。