わたしはまだ独身なので、「夫婦間の関係をどう解決するか」というよりも「認知(行動)療法」の考え方についての理解を深めるために読んだ。
認知という言葉は、「考える」に当たるラテン語に由来し、人が判断したり決心したりする方法や、お互いの行動を理解する、あるいは誤解する仕方を指している。この[認知]革命は、人が問題を解決する時ーーまたは、問題を起こしたり悪化させたりする時ーー、どのように思考するのかということに新たに焦点を当てた。どういうふうに考えるかが、私たちが成功したり人生を楽しめるかどうか、さらには生き残れるかどうかを、大部分決定するのである。考え方が前向きではっきりしていれば、こうした目標を達成するだけの力が十分あることになる。もし歪んだ象徴的意味や非論理的思考や間違った解釈のために身動きがとれなくなっていれば、私たちは事実上耳が聞こえず目が見えないのと同じになってしまう。どこへ行っているのか、何をしているのか、はっきりとわからないまま、つまずきながら歩いていると、早晩、自分自身や他人を傷つける羽目になる。誤った判断をしたり誤ったコミュニケーションをしていると、自分自身にも相手にも苦痛を与えてしまい、次々に、苦痛な報復の矢面に立たなければならなくなる。
この種の歪んだ思考は、より上級の思考を適用することによって解決できる。自分が間違っていることに気付き、それを正そうとするときには、たいていこのような上級の思考法を使っている。ところが不幸なことに、親しい人間関係ーー明確な思考と過ちの訂正が特に重要になる関係ーーでは、相手に関する間違った判断を認め、改めることがとりわけ難しいようである。その上、同じ言葉を話していると思っていても、一方の言っていることと、もう一方が聞いていることがまったく違う場合がよくある。このように、コミュニケーションの問題は、多くの夫婦が経験する欲求不満や失望を招き、さらに悪化させる結果になるのである。
(p.3 - 4)
● まず、お互いの失望や不満や怒りの多くが基本的な性格の不一致に由来するのではなく、誤ったコミュニケーションやお互いの行動に対する偏った解釈の結果起こる不幸な誤解に由来することに気が付けば、夫婦は困難を克服することができる。
●誤解はしばしば一方が相手の歪んだ像を形成する時生じる能動的過程である。この歪みによって、夫(妻)は次々と相手の言動を誤解し、相手には望ましくない動機があると考えるようになる。夫婦には単に、自分たちの解釈が「正しいかどうか調べあげ」たり、自分たちのコミュニケーションが明瞭になるよう注意するといった習慣はないのである。
(p.12)
一見したところでは、他の人がすることが、私たちの怒り、不安、悲しみなどの反応を直接引き起こしているように見えるものである。「あなたのせいで私は怒っているのよ」とか、「君のせいで僕はいらいらしているんだ」というようなことを言ったり、あるいは少なくともそう考えたりしている。しかし、こういった表現は厳密には正確ではない。もし相手がそのようなことをしなかったら、特別な感情(怒り、不安、悲しみ)を体験しなかっただろう、ということしか本当は言えないのである。その人の行動は、私たちがさまざまに解釈する事実であるにすぎない。私たちの情緒的な反応は、相手の行動そのものよりも、自分の解釈によって引き起こされるのである。
(p. 131)
お互いの防衛や怒りを和らげたいと望んでいる夫婦は、相手に対して作り上げている否定的イメージを捉え、評価し、修正していくことができる。自分たちの持っている不愉快なイメージが変わってくると、怒りも変化してくることがわかるだろう(…)。
闘争は野生の世界には適しているかもしれないが、現代世界では私たちの生死が問題になることはほとんどない。しかし、たとえ腹を立てている時でも、人前では完璧に礼儀正しい仮面をつけることができる。しかし、不運なことに、社会における他のどんな暴力よりも、家庭内での暴力が多い。私たちは夫(妻)に対しては自分を制御することができない、あるいは、しようとしないことが多いのである。感情の高まりに耐えかねて、心の中のブレーキが外れると、怒りが勢いを増し、ついには暴力を振るってしまうことになる。奇妙なことに、「敵」は自分の愛する人、あるいは愛していた人なのである。
(p.181)
自分はこれまで傷つけられてきたから、非生産的な行動様式をあくまでも続けていく正当な権利があるという考えは、あなたがこれからも傷つき続けるということを確実にするだけである。それでは、傷つけられて報復するという悪循環は決して終わることはない。誰かが悪循環を率先して断ち切らなければならないのである。それをあなたがすればいいのである。
(p.193)
ジョナサン・ハイトがポリティカル・コレクトネスや「マイクロアグレッション」概念を批判する際に認知行動療法の視点を持ち出していることは注目に値する*1。
認知行動療法には「ネオリベ的」「自己責任論的」という批判がなされるし、「反ネオリべ」を自称する精神分析とか臨床系の人ほど認知行動療法には批判的なようだ。しかし、結局のところ、ある人に生じる問題とは社会とか構造とかのせいもあるかもしれないがその人の生き方や考え方のせいであったりもする。社会を変えるのは難しいし、変えたところでより良くなるとも限らないのだから、個人の身に生じている問題を変えるためには社会(や他人)を変えようとするのではなく当の個人が変わるように努めるべきだ、というのはかなりの強度がある考え方であるのだ*2。
『愛はすべてか』は夫婦という個人間の問題を扱っているが、同様の視点は、社会と個人との間の問題や「マジョリティ」と「マイノリティ」との問題を考えるうえでも参考になるだろう。内田樹が述べているような「被害者の呪い」を解くうえでも役に立つはずだ*3。