道徳的動物日記

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読書メモ:『J・S・ミルと現代』&『一冊でわかるJ・S・ミル』

 

  来週に中公新書の『J・S・ミル』が出版されるし*1表現の自由論を勉強したり『経済学の倫理学』を読んだりしたことで最近はまたミルに触れる機会が増えてきたので*2中公新書の予習というか前夜祭的な感じで岩波新書とオックスフォードのVery Short Introductuion (日本ではかつては「一冊でわかる」シリーズとして翻訳されていた)でミルを扱ったものをそれぞれ読んだ次第。

 

 

 

 

 前者は1980年に出版しされた岩波新書であり、時代的な背景もあってかマルクスがやたらと登場してくるところが特徴的(フロイトなんかも出てくるし、まだ首相になったばかりのサッチャーが好意的に紹介されているところも印象的)。

 後者はVSIシリーズだけあってそつなくまとまっているが、そつがなさ過ぎて味気ないし、たとえば『自由論』に関して「いまの政治やメディアやインターネットの状況を見るとミルが言っていた事にそのまま賛成するのは難しいですよね」みたいなコメントがされているのだが、そりゃそうなんだがそんなのは誰でも言える事だしもっと深いこと言ってくれよ、と思ってしまった。この味気なさはVSIシリーズであることにも由来しているのだろうが、おそらく著者が歴史(思想史)系の人であることも影響されており、哲学者や哲学の解説本はやっぱり歴史系よりも哲学系の人が書いたほうが面白くなるよなと思った。

 どちらの本でもミルに影響を与えた人々(父ミルやハリエット・テイラー、ベンサムやスミスやリカードなど)が紹介されたりしながらミルの思想や著作が解説されているが、『自由論』だけでなく『経済学原理』も中心的に取り上げられているところが印象的(VSIのほうでは『論理学体系』にもけっこうなページが割かれている)。ミルが新マルサス主義者であり人口制限(具体的には産児制限)を唱えていたことや能力に基づく複数投票制(労働者の政治的影響力を制限するため)を唱えていたことなど、ある種「暗黒面」的な要素もきちんと紹介されている。

 また、『資本主義の倫理学』を読んだときにも印象的だった「停止状態(定常状態)」論についても詳しく紹介されている。

 

古典学派の経済発展論に停止状態(ステイショナリ・ステイト)という概念があります。土地の生産力の増大には基本的な制限があり、資本と人口とがその壁につきあたることによって、それ以上の経済的進歩が困難となる。より具体的にいえば、人口増加→食物価格上昇→労賃上昇→利潤低下となり、資本も人口も増加しなくなるような状態がやってくる。これが停止状態なのだが、そうなるとたいへんだから、それに到達することをできるだけ将来にくりのべるために人間は努力しなければならない、具体的にはそのために科学・技術の力によって自然をより能率的に開発し、また国内的・国際的な分業をより大規模に発展させて、労働の生産力を向上させなければならない、これが停止状態にかんする古典学派の伝統的な考え方です。

ミルはこの考え方に異論をとなえました。異論といっても、収穫漸減の法則から利潤率の低下傾向を導きだし、そこから停止状態がくることの必然性を説明するという、リカードウが定式化した論法に反対するわけではありません。ミルの異論というのはこうなのです。はたして、停止状態は人間にとってそんなに忌みおそれるべき状態なのだろうか。なるほど、そこでは従来のような経済的あるいは産業的進歩はストップするだろう。だが、そこで人間の知的・道徳的進歩までとまってしまうことはあるまい。いな、そこでは人間の心が金銭の獲得や立身の方策のためにうばわれることがなくなるので、精神的文化的側面ではむしろよりいっそうの進歩が実現する、つまり経済的進歩ではなくて人間的な進歩(human progress)がはじめて可能となるのではないか、ミルは『経済学原理』の「停止状態」のところでそのように主張しております。

 

(杉原、 p.79 - 80)

 

ミルはスミスのこうした考え方をしりぞけて、富と人口の停滞がけっして真の意味の進歩や改善の停止を意味するものではないことを力説します。そしてこの場合のミルの観点が、経済的進歩ならぬ人間的進歩の観点なのです。

ミルはのべています。旧学派の経済学者たちの多くが「みずからの地位を改善しようと苦闘して……たがいにひとを踏みつけ、おし倒し、おし退け、追いせまることこそ、もっとものぞましい人類の運命である」と考えるのは、文明の進歩の途上における必要な一段階と人生の究極の理想状態とをとりちがえたものである。「人間の精神が粗野であるかぎり、それは粗野な刺激を必要とする」のであって、古代や中世では戦争に勝つこと、近代では富の獲得が人類のエネルギーを動員する目標としてもっとも有効であったし、近代において生産と蓄積をはかることは、国家の独立と安全を保つためにも肝要であった。そして「いやしくも富が力でありできるだけ富裕になるということが万人の野心の対象となっているかぎり、富を獲得する途が万人にかたよりや差別なしに開かれているということは、もっとも時宜をえたものである。けれども、人生にとって最善の状態はどのようなものかといえば、それはだれも貧しいものはおらず、そのためなんびとももっと富裕になりたいと思わず、また他の人たちの抜け駆けしようとする努力によって押し返されることをおそれる理由もない状態である」。

(杉原、 p.116 -117)

 

 よく言われていることであるだろうが、停止状態を肯定するミルの議論は現代の「脱成長論」を思い出させるものだ*3。そして、(経済発展や人口制限のおかげで)貧しい人がいなくなった社会では人々に余裕ができて、抜け駆けして他人よりも上に立とうなどの浅ましい欲求もなくなりみんなが精神的・文化的に成長して充実した生活を過ごすようになる……という楽天的な見方は、おそらく、現代の経済学や心理学ではガッツリ否定されるだろう(たとえば、豊かな社会の富裕な人々も地位財…とくに子どもの教育…をめぐって際限なく競争し続けている現在の状況を、ミルには予測できていなかったようだ)。

 関連して、岩波新書とのVSIのどちらでも、ミルが「ナチュラリスト」であったり自然愛好者であったりすることが取り上げられている。田園地方を愛して植物学にも携わっていたミルは自然の破壊を快く思わなかったし、自然美を眺めることで満足できるような人だから「生活に余裕ができたらみんなもお金とか地位とかモノとかにこだわるのやめて些細なことに満足できるようになるはずだよね」と素朴に考えていたのかもしれない。実際、(わたしも含めて)贅沢品や地位に対する欲求に乏しく自然や文化から満足を得られるような人も多くいるし(その多くはインテリであるが)、ミル的な停止状態論や脱成長論はこれからも常にそういう人たちからの支持を一定数得られ続けるだろう……問題なのは、自然や文化じゃ満足できない人たちもこの世界にはいっぱいいるということだけど。