道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

「男性同士のケア」が難しい理由

 

 

 

 近頃では、「これからは男性同士でもケアし合わなければならない」と言った主張がちらほらとされるようになっている。

 この主張がされる文脈は様々だ。「これまでの社会は女性にケア役割を押し付けていたが、これからは男性も平等にケア役割を担うべきである」という問題意識に連なる主張である場合もあるだろう。

 また、女性の恋人や妻がいないことで「女性からの承認」を得られないと悩んだり「孤独」になることを恐れる男性に対して、「そもそも"自分は異性のパートナーにケアしてもらうべきだ"という発想を捨てて、同性との相互にケアし合う関係を築く可能性に目を向けてみるべきだ」という批判込みのアドバイス的な意味合いで、「男性同士のケア」が提唱される場合もある。

 そして、「マウントを取り合う」「互いに褒め合わない」といった男性同士のコミュニケーションの特徴を批判したり、男性は友人同士で互いに触れ合ったり親密な関係を築くことを恐れがちであるということを指摘したうえで、既存の「男同士の関係性」に対する代替案として「男性同士のケア」の重要性が指摘される場合もあるようだ*1

 

 いずれの主張にせよ、「現時点では、男性同士でケアが成立している関係は貴重であり、多くの男性たちは互いにケア関係を築く気がなく、また築こうとしても失敗がちである」といった事実認識が背景にあるようだ。

 その事実認識については、わたしもおおむね同意している。男性同士で理想的なケア関係を築けている実例を目にしたことはほとんどないし、「男性同士でケア関係を築こう」と思っていたり試みていたりする男性にもほぼ会ったことがない。自分自身もそうであるし。

 そして、女性同士でのケア関係については、なかなかうまく行っている実例を目にしたことが何度かある。わたしはあくまでその関係の外側にいており、内部が実際のところどんな感じになっているのかは未知ではあるのだが、女性同士でシェアハウスやルームシェアなどを楽しく順調に長期間続けられている、という話を聞いたことが度々あるのだ。

 比較すると、男性に関しては、シェアハウスやルームシェアをしていたけど破綻した、という話を聞くことの方が多い。かろうじて続けている人たちについても、女性同士のそれに比べて、ぜんぜん楽しそうではない。ふつう共同生活に必要とされるはずの気遣いやコミュニケーションができていなくて、冷淡でギスギスした関係になったり片方がワリを食っていたりする、ということの方が多いのだ。

 

 男性同士のケア関係が成立しない理由については、ジェンダー論的な説明がなされることが多い。たとえば、男性たちは社会から課された「男らしさの呪縛」にとらわれており、互いに感情を打ち明けたり優しさを示したり弱みを見せ合ったりすることに抵抗感を抱いてしまう、という説明がされる。あるいは、男性社会のあいだに存在する「ホモフォビア」のために、スキンシップを含めた親密なコミュニケーションを同性と取ることに拒否や嫌悪の気持ちを抱いてしまう、という説明がなされたりする。

「男らしさの呪縛」にせよ「ホモフォビア」にせよ、男性たちのあいだにそういうものが存在するという点に関しては、わたしも全否定はしない。わたし自身としてもそういうものを感じなくはないし、たとえば企業で出世コースを歩んでいてバリバリと活躍して妻も子供もいるような「正常値」のタイプの男性については、男らしさやホモフォビアにより強くとらわれている人が多いだろう。

 しかし、男性が抱える問題について語る言葉が、いつもいつも「男らしさの呪縛」や「ホモフォビア」といったもっともらしい用語に回収されることには、違和感や物足りなさも感じる。

 わたしの周りには立身出世や家庭を持つことをあきらめた代わりに好きなことをしてラクに生きることを望む「外れ値」な男性が多く(そのなかにはわたし自身も含まれている)、彼らが「男らしさ」にとらわれている度合いは「正常値」な男性に比べるとずっと小さなものであるはずだ。ホモフォビアについても、三十代前半であるわたしと同年代かわたしより若い世代であり、四大卒であり都会に住んでいて映画や小説にも親しんでいて……という属性であれば大半はリベラルな考え方を持つものであり、同性愛を嫌悪しているという感じは薄い。男性同士でスキンシップをすることには抵抗感を抱かない人もふつうに沢山いる。

 しかし、そんな彼らにとっても、やはり「男性同士のケア」は難しいのだ。普段からナヨナヨしていて、弱音や愚痴を吐くことに抵抗感を抱かなくて、スキンシップを拒まない男性であっても、それで同性とのケア関係が成立するかどうかは別の話なのである。

 

 この問題を解くために、前回にも紹介したトマス・ジョイナーの『Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success(てっぺんで一人ぼっち:男性の成功の高い代償)』に基づいて論じよう。

 この本の主題は、「男性の高い自殺率は、男性は女性に比べて孤独になりがちであるから」というものである。そして、男性が孤独になりやすい理由のなかでも大きなものが、「男性はコミュニケーション能力に欠けているから」ということだ。

 男性がコミュニケーション能力に欠ける理由には、生得学的な要因もあれば、環境的な要因もある。

 生得学的な要因としては、「男性は女性に比べて生来的に物質主義的であり(instrumentalism)、人間に対する興味が薄い」という点がある。おもちゃ箱にいくつもおもちゃが入っているとき、女の赤ちゃんは人形やぬいぐるみなどの「人(人格)」が関わるおもちゃを選びがちな一方で、男の赤ちゃんはミニカーやボールなどの「物」らしいおもちゃを選びがちなことは、普遍的な傾向だ*2

 この傾向は成長してからも男女の興味や行動や志向に様々な影響を与え続ける。女性が他人に目を向ける一方で、男性は地位や金にばかり目を向けるのである(これも物質主義の副産物だ)。進学や就職の男女差……看護学や心理学などの「人」が関わる学問の志望者には女性が多く、数学や哲学などの抽象的な学問の志望者には男性が多い、など……には、社会や環境の影響だけでなく生得的な志向にも影響されているのだ。

 環境的な要因としては、もともとが人に対する興味が少ない男性たちが、それでも他人に対して関心を向けてコミュニケーションする方法を学ばずに大人にまで成長できる環境が現代の社会には用意されてしまっている、ということがある。これについてはジョイナーの本を紹介する記事に詳細を書いているので、詳しくはそちらを参照してほしい。以下では要旨だけを書こう。

 小学校から大学までは周りに同世代の若者がたくさんいるため、男性は「友人を作ろう」と意識して努力しなくても友人を作れてしまい、「友人は特に自分から働きかけなくても自然と作れてしまうものだ」と考えるようになる。そして、特に若い男性同士の間では、互いのことをさして考えずに好き勝手なことをする粗野で気さくな友人関係が定番になるものだ。

 しかし、社会人以降の環境は学生時代のようにはいかず、新たに友人を作ろうとすればそのことにコミットメントしなければいけない。だが、大半の男性は友人の作り方や関係の維持の仕方を学生時代のうちに習得していないから、新たな友人を作ることが困難なのだ。そして、歳を取るにつれて、昔からの友人は疎遠になったり病気で死んでしまったりして、いなくなる。だから、男性は友人のいない孤独な老後へと一直線に進んでしまうことになるのである。

 一方で、女性たちは、友人の作り方や関係の維持の仕方を学生の時点で学んでいる。「人への関心」が高い女性同士の関係では、互いに気を遣いあったり感情を察知しあったりコミュニケーションの工夫をしたりなどの労力を払うことが必要とされる。これについては「女性同士の関係はドロドロしている」「女の友情は本物じゃない」などとのネガティブ・イメージが持たれがちであるが、若い頃からそのような関係を築くことは、歳を取ってからもメリットをもたらす。女性は、友人ができたり友情が続くことは自然で当たり前のことだとは見なさず、労力を支払う必要があるものだという事実を、人生の早い段階で学習することになるのだ。

 そのため、女性は社会人になっても、男性のように友人に困ることはない。女性は人生のどのステージであっても新しく友人を作ることができる。さらに、女性同士の友人関係は、男性同士の友人関係に比べて長続きしやすい(関係維持のための労力を互いに払っているからである)。これが、男性に比べて女性が孤独になりにくい理由のひとつであり、ひいては女性が男性に比べて自殺のリスクが低い理由にもつながっているのである。

 

 そして、男性は人間に対する関心が生得的に薄いこと、男性がコミュニケーション能力を培わないまま成長してしまえる環境が存在することは、男性たち本人だけでなく周りの人たちにも影響を与えることになる。男性は女性に比べて人間関係の面で無能となり、他人にとって助けとならない存在となるからだ。

「自分がつらいときや苦しいとき、男性に相談しても助けにならないから、女性に相談した方がいい」という知恵は、女性も男性も若いうちから学習することになる。だから、女の子は女の子同士で相談をしたり悩み事を打ち明けたりする一方で、男の子は同性にではなく女の子に相談や悩み事を持ちかける、という不均衡な状態が出現するのである。

 この事実は、友人関係だけでなくきょうだい関係にも影響をもたらす。一般的に、男性であっても女性であっても、姉か妹がいる人は「自分は不幸である」「自分には頼れる相手がいない」という感情を抱くことが他の人たちより少ないのである。しかし、兄や弟の存在は、男性に対しても女性に対してもこのような効果をもたらさないのだ。

 そう、他人を支えたり他人を幸せにしたり他人をケアするという点では、女性に比べて男性は無能な存在であるのだ。……ケアすることへの関心を持たず、ケアするための能力を習得してもこなかったから。

 

 わたしが思うに、「男性同士のケアが難しい理由」の説明としては、「男性はケア能力に欠ける無能な存在である」という事実に注目することの方が、「男らしさの呪縛」や「ホモフォビア」を持ち出すよりもずっと的を得ている。

「これからは男性同士でも相互にケア関係を築くべきだ」という主張自体は正論であるかもしれない。多くの男性も「それはそうだな」と納得するかもしれない。しかし、正論であるからといって、実際にそれを実行できるかどうかはまた別の話なのだ。

 相互のケア関係を成立させるためには、以下の三点を満たす必要がある。

(1)自分が他人をケアできること

(2)自分以外で、他人をケアできる男性が身近にいること

(3)その相手と「互いにケア関係を築こう」と相互に了承すること

 

 仮に(1)がクリアできていたとしても、(2)や(3)までクリアできるかどうかは至難の業だ。所属している環境によって多少の差はあるだろうが、運の要素も大きいだろう。大概の男性にとっては「男性の友人」という選択肢のプールは小さく、そして大概の男性がケア能力に欠けていることをふまえると、条件を満たす相手と出会うこと自体が至難の業である。そして、仮に出会えたとしても、シェアハウスやルームシェアなどの深いケア関係を築こうと思ったらそのための現実的な条件(住んでいるところ、ライフスタイル、相手側の人間関係的な事情などなど)を満たさなければいけない。

 シェアハウスやルームシェアとまでは行かなくても、友人に対して「互いにマウントを取り合ったり貶しあったり好き勝手なことを言い合ったりするのはやめて、これからはお互いに思いやり合う関係に変わろう」と言い出すことだって、あまり現実的ではないはずだ。相手も同性同士でのケアの重要性を理解していて問題意識を共有していない限り、ポカンとした顔になるのがオチだろう。そして、仮に合意が取れたとしても、「お互いに思いやり合う関係」を続けられるほどの能力が互いに備わっているとは限らないのである。

 

 というわけで、「これからは男性同士でもケアし合わなければならない」論は、耳触りのいい正論ではあるかもしれないが、実行に移せる機会はごく限られており、多くの男性にとっては役に立たないアイデアであるかもしれない。

 そして、「異性からの承認」を得られない男性が苦悩するのは、もっともなことであるかもしれない。男性は、自分自身について内省したり自分の友人関係を振り返ったりすることで、自分の性別があまりに頼りにならない存在であるということを重々承知しているからだ。そのため、男性が女性からのケアを求めるのは、本人の自己利益や自己防衛という観点からすればしごく合理的な選択であるかもしれないのである。……もちろん、この「合理的な選択」によって「女性に対するケア役割の押し付け」という現象が社会的に発生しており、それについて不利益を感じた女性が反発することも、もっともなことではあるのだが。

 

 

 

*1:この記事の執筆時点で「男性同士のケア」でGoogle検索して1ページ目に出てくる記事の多くでも、そういう文脈で話がされていた。

www.asahi.com

cakes.mu

*2:

benesse.jp