政治哲学者のウィル・キムリッカとスー・ドナルドソンの共著『人と動物の政治共同体(現代:Zoopolis)』の邦訳が発売されたが、何週間か前にAmazonに予約したというのにまだ届かないので、代わりにキムリッカとドナルドソンが無料で公開している論文「動物の権利と先住民の権利(Animal Rights and Aboriginal Rights)」を読んでいた。
この論文のメインとなる主張は「先住民の権利を認めることや先住民の文化を尊重することは、先住民による捕鯨や狩猟などの動物の権利を侵害する行為までをも認めることにはならない」というもので、以前の二人の論文「動物の権利、多文化主義、左派(Animal rights Multiculturalism and the Left)」でされていた主張と共通するところがある*1。
著者たちによると、動物の権利の理論は、動物たちが"私"という自己認識を持つことを認めて、動物たちの主体性を尊重するものである。そして、動物の権利の理論はカナダなどの先住民たちの文化とは必ずしも相反しない。動物の権利の理論は、動物を人間よりも劣った存在であると見なし動物を所有物であると考えるキリスト教・西洋の世界観は批判するが、動物と人間とは対等な存在であると見なして動物と人間との相互性を重視する先住民たちの世界観とは共通点があるものだ、と著者たちは論じている。
とはいえ、動物の権利の理論においては動物を殺害したり動物に苦痛を与えることは非常に限られた場合においてしか認められず、原則としては禁止される。他方で、捕鯨や狩猟などの行為は先住民の文化にとっては重要な要素であり、先住民たちは捕鯨や狩猟を行い続けているしそれを行う権利を主張してもいる。
著者らによると、動物の権利運動を行う運動家や団体の多くは、先住民の文化と動物に関する問題には触れようとせずに無視している。その理由としては、「イヌイットのアザラシ漁など、先住民が生活する上で栄養摂取のために不可欠な狩猟は存在する」「工場畜産などの先進国の慣習が犠牲にしている動物の数に比べれば、先住民の文化が犠牲にしている動物の数はごく僅かなのだから、戦略上の問題として前者の方を優先的に批判するべきである」「先住民が持つ条約上の権利や自己決定の権利は尊重しなければならない」「捕鯨や狩猟などの文化は先住民の社会を結びつける大切な要素なのであり、外から侵害するべきではない」「西洋のマジョリティが先住民の文化を批判することは、西洋の文化や道徳観を押し付けることであり、文化帝国主義や人種差別につながってしまう」ということが挙げられる。
著者らは、上述の「動物の権利運動が先住民の文化には触れようとしない理由」を一つずつ取り上げて、反論していく。例えば、文化の尊重という理由で先住民が動物の権利を侵害することを例外的に認めたとすれば、先住民以外の他の集団も、自分たちの文化を尊重するために自分たちが動物の権利を侵害することを認めろと要求してくることになる。例えば、国際捕鯨委員会にて日本やアイスランドが北米大陸の先住民による捕鯨を支持しているのは、自分たちの「文化的捕鯨」も先住民の捕鯨と同じように認められることを期待してのことである。カナダでのフカヒレ漁禁止やサンフランシスコにおける動物の生体販売の禁止に対しても、中国系活動家たちによる「文化帝国主義だ」という批判があった。西洋諸国には先住民以外にも多かれ少なかれマイノリティである人々が数多く存在しているのだから、マイノリティ文化の尊重という理由で先住民が動物の権利を侵害することを認めてしまえば、他の数多くのマイノリティ文化が動物の権利を侵害することも同様に認めなければならなくなってしまう。
しかし、文化帝国主義を避けるためや植民地的な歴史を反省するために先住民が捕鯨や狩猟を行うことを認めることは、人間同士の間で行われた不正義の後始末を動物に押し付けるようなものであり、そもそもおかしい。例えば、アメリカ政府は1855年に先住民のマカー族が捕鯨を行うことを認める条約を交わしたが、同じ条約では、捕鯨と同じくマカー族の伝統であった奴隷制を禁止することも要求していた。しかし、動物の権利の理論の考え方に基づけば、奴隷の対象とされる人々と同じく鯨たちも"私"を持つ主体なのであり、人間に殺されない権利がある。鯨たちの生命に関する権利の所有者は鯨たち自身なのであり、アメリカ政府とマカー族のどちらも「捕鯨の権利」を設定する権限は持たないのである。
このように、動物の権利を侵害する先住民の様々な慣習が諸々の事情で法的に認められていたとしても、法的に認められているからといって倫理的に認められるとは限らない。マジョリティの文化だろうがマイノリティの文化だろうが、例外なく、それらの慣習に道徳的問題点があるか否かを問うのが動物の権利の理論によって求められるところである。
動物の権利の理論は西洋・キリスト教的な文化の世界観よりも先住民の文化の世界観に近い、と著者らは書くが、実のところ先住民の文化の世界観における動物の扱いにも様々な問題がある。狩猟採集民の先住民たちの文化には「狩猟される動物たちは、自分が人間に狩猟されることを了承しているし、自分の身を人間に差し出しているのだ」「人間と、人間に食べられる動物の間には、お互いの契約や同意が存在している」という価値観が存在することが多い。だが、自分自身に激しい苦痛や死が引き起こされる行為に対して動物が契約したり同意したりしているというのは疑わしい。ある人が他人を殺しながら「この人は自分が殺されることについて私と契約して同意しているんだ」と言ったとしても、私たちがその発言を疑ってそのような同意や契約の存在を否定することは充分に合理的だが、同じことは動物に対する殺害にも当てはめられるべきである。また、実のところ、「狩猟される動物や家畜は人間に食べられることについて人間と契約を結んでいる」という物言いは西洋人が自分たちの狩猟や畜産を正当化する際にもよく用いられる言説でもある。人間が自己申告した「契約」を理由にして先住民の狩猟を認めてしまえば、工場畜産や動物実験などの慣習も人間が「契約」を自己申告すれば認められてしまうことになる。実際には、「契約」という考えによって動物の殺害を正当化することは、動物を狩猟することによって生じる哀れみや罪悪感を抑制するための心理的メカニズムであると見なすのが妥当である。そして、そのような心理的メカニズムは、動物の殺害を倫理的に正当化する理由にはならない。
また、動物の権利の理論においても、「必要」であれば動物の殺害が認められる場合はある。人間が生きるために必須な栄養をとるための手段が動物の殺害のみであるなら、動物の殺害が認められるかもしれない。だが、この「必要」という概念が濫用される危険性もある。例えば、「現在では他にも栄養をとる手段があるとはいえ、イヌイットはこれまでずっとアザラシ漁を続けていたのだから身体がアザラシ食に適応しているのであり、他のものを食べることは危険かもしれない。だから、現在でもアザラシ漁は必要だ」という主張や、「栄養の問題ではなく、自分たちの文化によって認められたものを食べるという必要が私たちにはあるんだ」という主張である。動物の権利の理論からすれば、これは「滑りやすい坂」である。「必要」という概念を無限に拡大すれば結局何でも認められることになってしまうし、自分たちが必要とするものの範囲を都合良く拡大解釈してしまう心理的傾向が人間に存在することにも留意するべきである。また、狩猟などの行為は人間たちが主体的な意思決定に基づいて行う行為であるが、「必要」という言葉はそこを誤魔化して曖昧にしてしまう。必要だから仕方なく狩猟せざるをえないんだ、という風になってしまうからである。
…このようにして動物の権利の理論と先住民たちの世界観の間にも不一致や齟齬はあるが、やはり(西洋やキリスト教の世界観と比べれば)動物の権利の理論と先住民たちの世界観の間には一致するところが多い。動物の権利運動家と先住民たちはお互いを敵視し合うか無視し合うことが多いが、お互いの世界観を結び付けて共に力を合わせれば、「動物は人間の所有物である」という西洋的な世界観に挑戦することができるはずだ…というのが著者らの結論である。
以下は本題とはあまり関係ないが、個人的なメモとして引用しておく。
人間の場合と同様に、動物の基本的な権利も制限の対象となる。例えば、(人間または動物の)個体は、正当な自己防衛の行為によって殺害されることが認められる場合がある。更に一般的には、全ての正義論と同様に、動物についての正義論も、私たちが「正義の情況」にいることを前提としている。…正義の情況とは、私たちがお互いを破壊(distruct)することなく自分たちが繁栄(flourish)することを目指すことが可能である情況だ。人間たちは動物との正義の情況の中に常に存在してきた訳ではなかったし、隔絶していて不毛なコミュニティでは現在でも動物との避けられない衝突が続いているかもしれない(先住民のコミュニティであるかそうでないかに関わらず)。だが、今日の人間の大多数にとっては、動物を傷付けなくても繁栄することは可能である。更に、他者を傷付けずとも自分たちの善を追求することをこれまで以上に可能にし続けるために、正義の情況を維持して拡大する義務も人間は負っている。自己防衛や必要性のために正当に認められる例外は存在するかもしれないが、動物を傷付けることは推定的には常に不正である。このことは、厳密な意味での全ての動物の権利理論を結び付ける、根本的なコミットメントなのだ。( p.3)