道徳的動物日記

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狩猟にまつわる倫理的問題

 

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 ↑ 倫理学者のゲイリー・ヴァーナーの論文「環境倫理、狩猟、動物の位置付け(Environmental Ethics, Hunting, and the Place of Animals)」を要約した上記の記事など、このブログでは英語圏倫理学者が狩猟について書いた文章を要約したり翻訳したりした記事をこれまでにもいくつか公開してきた*1。今回の記事では、反・種差別的な動物倫理学の立場から狩猟について言えることを、ヴァーナーの記事などを参考にしながら簡単にまとめてみよう。

 

 ヴァーナーは狩猟という行為をその目的に応じて「セラピー的狩猟」「生存のための狩猟」「スポーツ・ハンティング」という三つのカテゴリに分けている*2。「セラピー的狩猟」は自然界の動物の個体数を調節して生態系や生物多様性などを守ることを目的とする狩猟であり、「生存のための狩猟」は食料確保など人間が生きるために必要とされる狩猟のことだ。「スポーツ・ハンティング」は自然保護を目的ともしなければ生きるために必要とされない狩猟のことであり、ヴァーナーの定義では宗教的な儀式や文化的慣習として行われる狩猟もこのカテゴリに含まれる。

 

 とりあえず「生存のための狩猟」は置いておいて、他の2つのカテゴリの狩猟について考えよう。一般的な人々が持つ常識や道徳観念、また種差別を批判しないタイプの倫理学などにおいては、「セラピー的狩猟」に対する批判はほとんどないように思える。いわゆる「スポーツ・ハンティング」には眉をひそめるとしても宗教的な儀式や文化的慣習として行われる狩猟は認める、という人も多いだろう。そのような価値判断の背景には「生態系や生物多様性には価値がある」「宗教的な儀式や文化的慣習には価値がある」という前提があると考えられる。狩猟によって動物が苦痛を感じたり死んだりすることも、生物多様性や文化的慣習を守るという目的のためには許容される、ということだ。

 しかし、種差別を批判するタイプの倫理学においては、狩猟によって動物が苦痛を感じたり死んだりすることそれ自体が重大な道徳的問題として扱われる。反種差別的な観点からすれば、宗教的な儀式や文化的慣習として行われる狩猟はほとんど例外なく認められないだろう。宗教や文化を理由として人間を殺害したり傷付けたりすることが認められないと考えるのであれば、宗教や文化を理由として動物を殺害したり傷付けたりすることも認められない、と考えなければ種差別であるからだ。

 セラピー的狩猟に関しては、やや扱いが難しくなる。狩猟による自然保全を行わなかったために生態系が乱れてしまい、結果的により多くの動物が飢餓などにあい苦痛を感じたりしながら死んでしまう、という可能性があるからだ。カント的な義務論で考えれば、将来の悲惨を防ぐために狩猟を行うことは目的のための手段として動物を扱うことになるから認められない、ということになるだろう。一方で、功利主義の理論で考えれば、将来に大多数の動物に生じる悲惨を防ぐために現在の少数の動物を殺害するという行為は認められる可能性がある。…ただし、いずれにしても「生態系」や「生物多様性」それ自体に価値があるとは判断されない、という点がポイントだ。まず考慮されるべきは人間や動物の利益であって、生態系や生物多様性には間接的な価値しか認められないのである*3

 

 いわゆる「動物倫理」は環境倫理学のサブカテゴリーとして扱われがちである。しかし、生態系や生物多様性に本質的な価値を認める一方で種差別は否定しない、という「自然保全」中心的なスタンスをとる環境倫理学者も多い。また、生態系や生物多様性に本質的な価値を認めず、かといって動物たちの利益も考慮しない、良く言えば「プラグマティズム」で悪く言えば「人間中心的」な主張をする環境倫理学者も多々いる。そのため、動物倫理学的な考えと環境倫理学的な考えは必ずしも一致しないのだ。

 倫理学者だけでなく、実際に自然保全を行う人たちの間でも、自然保全中心的か人間中心的か反種差別的か、というバリエーションなりグラデーションなりは存在すると思われる。

 

 結局のところ、重要なのは「何のために狩猟を行うか」という目的と、そのための手段としてどこまでの行為を認めたりどれほどのコストを支払うか、というところだ。…たとえば、ある場所の生態系の手段を守る方法として「金銭的コストがかからない狩猟」と「金銭的コストや人間側の負担などがかかるが、動物を殺害せずに済む手段」という両方の手段が存在する時である。おそらく、現在の社会ではほとんどの場合で前者の手段が採用されるだろう。しかし、それはこの社会に種差別が浸透し過ぎた結果なのであり、本来なら人間側に相当のコストや負担がかかっても避けられることが可能な場合には狩猟は回避すべきである、と考えることもできるだろう。狩猟が避けられない場合としても、殺害する動物の数をより減らしたり動物に与える苦痛をより減らすための努力は欠かせない、と考えられる。

 このことは「生存のための狩猟」に対しても当てはまる。たとえば、菜食主義への反論として「野菜や穀物を栽培するための農業においても害獣駆除は不可欠だ」という議論が持ち出されることが多い。しかし、ある程度の害獣駆除は不可欠だとしても、回避できる駆除まで行なっていないか、駆除の方法は適切か、といったことは常に問われ続けるべきである。

 

 

 

*1:たとえば、以下の二つの記事

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*2:ある狩猟行為はこれら三つのカテゴリのどれか一つにしか収まらない、というわけではなく、ある狩猟行為がセラピー的狩猟であると同時にスポーツ・ハンティングでもある、という場合もあり得る

*3:この記事でも同様の議論がされている。

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