道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

ある生物種が絶滅することの何が問題なのか?

 

 オックスフォードのPractical Ethicsブログに、2015年の8月に倫理学者のカティア・ファリア(Catia Faria)が公開した記事を訳して紹介。

 

blog.practicalethics.ox.ac.uk

 

 

「生物種の絶滅を悪いこととする理由は(もしそんな理由が存在するとすれば)何であるか?」 by カティア・ファリア

 

 歴史を通じて、やがては絶滅する運命の生物種が数えきれないほど誕生してきた。自然的な過程によって起こった絶滅にせよ人間の手によって起こった絶滅にせよ、絶滅は悪いことであり、絶滅を防いだり場合によっては絶滅しかけている生物種を回復させるための自然保全が行われるべきである、ということには環境科学者も一般大衆も同意をしているように思われる。多くの場合、自然保全のリソースは、生態系から長らく失われていた絶滅危惧種を再導入するために費やされる。別の場合には、外来種の登場によって脅威に晒されている在来種(人間の手によって導入されたのではなく、ある特定の自然環境に昔から存在している生物種のことだ)を守るために、政府は外来種を根絶させるという対処法を実施する。存続が危険に晒されている生物種が絶滅することを防ぐという目的のみに専念する組織はいくつも存在している。しかし、生物種の絶滅を防ぐために行われるこれらの行為は、かなりの議論の余地がある前提に依存しているのだ。

 

 時には、以下のように主張される:

 

(1)生物種の絶滅は本質的に悪いことである

 

 この主張においては、生物種は誰かにとっての(person-affecting)価値ではない非人称的な(impersonal)本質的価値を持っている、と考えられている。本質的価値という概念の背景にあるのは、ある物事が存在することは、それが誰かに"とって"善かったり悪かったりするということがなくても、善いことや悪いことで有り得る、という考えだ。ある人々は、生物種はこのような本質的価値がある種類の物事であると主張する。ある生物種が絶滅するということは代替不可能な価値の消失が起こるということであり、その生物種が絶滅することによって世界は以前よりも悪い場所になる、と彼らは論じるのだ。つまり、世界に含まれる価値の総量が減少するということだ。これこそが、ある生物種が絶滅することは悪いことであるという主張の意味なのであり、その悪さが誰かにとっての悪さでないとしても絶滅は悪いことなのである。尚、この議論における"誰か"は、人間であるか動物であるかにかかわらず、自分自身の福祉(well-beig, 幸福)を持つことができる存在の全てを指している。上述してきたような本質的価値が生物種には含まれ得るとすれば、私たちは生物種を保全するための非人称的な理由を持つ、ということになる。生物種は高い本質的価値を持つという主張は妥当である、と仮定してみよう。すると、生物種の保全と回復という目標に熱心に取り組むことは、それが他の個体に対して多くの犠牲を負わせることであったとしても、生物種を守るという目的それ自体のために行われるべきだ、ということになる。

 しかしながら、この主張を推奨した場合に人間の利益に対して生じるであろう結果について考えてみれば、この主張の問題点が明白に理解できるだろう。たとえば、ヨーロッパライオンはかつてイベリア半島からギリシャカフカスまで、ヨーロッパ中に幅広く存在していた。そして、ヨーロッパライオンが人間を直接攻撃することや家畜を食べることによって生じる人間に対する悪影響を防ぐため、西暦80年頃〜100年頃にかけて人間はヨーロッパライオンを絶滅に追い込んだ。だが、上述した主張によると、ヨーロッパライオンの絶滅は人間にとっては善いことであったということに関わらず、非人称的な価値の消失が伴っていたためにヨーロッパライオンの絶滅は別の面では悪いことであったということになる。

 この場合、二つの可能性が存在する。生物種の持つ本質的価値は人間の福利よりも重要であるか、そうではないかだ。前者の場合、ヨーロッパの動物相にヨーロッパライオンを再導入することが私たちに実行可能になったとすれば、それが人間の福利に対して実に多大な悪影響をもたらすとしても、私たちはそれを行うことについての止むを得ない強制的な理由を持つということになる。大半の人にとっては、このような主張はとても受け入れられないだろう。では、ヨーロッパライオンを再導入することについての非人称的で本質的な理由があるとしても、人間の福利を考慮することでもたらされる様々な理由はそれを上回る、ということにしてみよう。このような弱いバージョンの主張ですらも、奇怪な結論をもたらす可能性がある。生物種は本質的価値を持つとすれば、私たちはヨーロッパライオンが絶滅したことについて嘆く理由があるということになる。さらに、その行為が感覚ある存在に対して何ら良い影響を与えないとしても、私たちは様々な生物種を再導入することについての止むを得ない強制的な理由を持つことになる、という様々な事態が有り得るということになるだろう。…結局、生物種は非人称的な価値を持つという主張にはほとんど根拠が無いのだ。

 

 生物種の保全に関して訴えられるもう一つの主張は、以下のようなものだ。

 

(2)生物種の絶滅は、感覚ある存在に危害をもたらすので、悪いことである

 

  この主張は二通りに解釈することができる。第一の主張は、ある生物種の絶滅はその生物種の各個体に危害をもたらすので悪いことである、ということだ。しかし、絶滅は個体に対して影響を及ばさないので、この第一の主張が正しいということはほぼ有り得ない。感覚ある個体が生命を失うという危害を受けることは、その個体の死によってもたらされるのであり、その個体が属する生物種の絶滅によってもたらされる訳ではない。その生物種の最後の個体が死ぬことはその生物種の絶滅をもたらすが、絶滅が死をもたらすのではないのだ。したがって、ある生物種の絶滅は悪いことであるとしても、その生物種に属する個体の誰かに危害を与えるから悪いということは有り得ない。さらに付け加えると、死は動物に対して個々に危害をもたらす。ある個体にとってその個体の死がもたらす悪さは、ある特定の生物種に属する個体の数とは無関係にもたらされるのだ。ある生物種において最後に残った個体が死ぬとしても、その最後の個体が死によって受ける危害は、それ以前に死んできた数百万の個体が各々の死によって受けてきた危害を何ら上回りはしないのである。

 第二の主張によると、ある生物種の絶滅は生態系のバランスに悪影響をもたらし、それによって絶滅する種とは異なる生物種に属する個体に対して危害をもたらすので、悪いことである。無論、この主張は、生態系のバランスは動物たちにとっての福利の源泉であるということを仮定している。しかし、この仮定は事実からは程遠い。以前に論じたように、現存する生態系は、そこに存在する大半の動物たちにとっては強烈な不幸の源泉となっているのだ。個体群動態のデータは、大多数の野生動物たちが従う繁殖戦略のために、個々の野生動物が置かれている平均的な状況は実質的には大規模な絶滅が起こっている場合と変わりがない、ということを示している。ある生物種は、その生物種に属する全ての個体が死んだ場合に絶滅する。多くの場合、絶滅する生物種に属する個体の全員がとてつもない苦痛に満ちた死を経験する。この状況はその生物種が存続する場合と実に似通っているのであり、生物種が存続するということはその種に属する個体が幸福であるということを意味していないのであり、むしろ存続する生物種に属する個体の多くは苦痛に満ちており悲惨な死で終わる短い生を過ごしているのだ。

(2)の主張をもっともらしくさせているのは、感覚ある存在に対してどのような事態が起きるかこそが重要である、という前提だ。しかし、この前提には、生物種が絶滅することを防ぐことはそれ自体のために追求されるべきことではない、という意味が含まれている。絶滅を防ぐための対策は、感覚ある個体たちに対して多大な危害を負わせるという犠牲を含んでいる場合には、正当化されない。さらに、ある個体が絶滅危惧種に属していないとしても、その事実によってその個体の生命の重要性が減少するということにはならない。このことを認めれば、政府によって行われているものにせよ民間組織に行われているものにせよ、現在実施されている環境マネジメントの方法に対して大々的な変化がもたらされるべきだということになる。もはや、全ての条件を考慮してみると野生に生きる動物たちに対して危害をもたらすような自然介入は、環境マネジメントにおいて行われるべきではないのだ。

 

 

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