道徳的動物日記

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反共同体主義としてのリバタリアニズム(読書メモ:『自由はどこまで可能か』)

 

 

 タイトル通り、思想や哲学としてのリバタリアニズムの入門書。

 本書の初版は2001年ともう20年以上前であるし、わたしが本書を最初に読んだのも学部生だったときだ。本書の書評やレビューはネットの内外にて既に大量に書かれているだろうから、この記事では本書の内容を要約するということはせず、先日に読み直したときにとくに印象に残った箇所……第4章「政府と社会と経済」で、共同体主義コミュニタリアニズム)や共和主義などの「連帯感」を重視した発想に対して批判を行なっている箇所を主に紹介しておこう。

 

経済的不平等は社会内部の連帯感を損なう、と言われるかもしれない。だが、リバタリアンはそもそも相互に人間性を認め合うという、礼儀正しい尊重以上の濃い連帯感が社会全体の中に存在しなければならないとは考えない。濃い連帯感は共同体の内部で求めるべきである。経済的に豊かな人と貧しい人の間ではライフスタイルが異なるために連帯感が生じにくいかもしれないが、そのことは、異なった宗教の信者や異なった地方の住民の間で連帯感が存在しにくいのと同様、問題ではない。

次に政治的権力の不平等についてだが、これはリバタリアニズムの立場からも確かに問題だ。しかしそれは、経済的不平等を禁止する理由にはならない。問題なのは、正当な授権によって得られたのではない政治的不平等や、平等な自由を侵害するような政治的権力行使である。[…中略…]現代の日本を含む、利益配分型の政治は、たとえどんなに民主的であっても、原理上不正である。なぜなら絶対的貧困を救済するための福祉給付や十分に理由のある公共財(ここでは国防や法秩序も含む)の供給を除くと、政府には果たすべき役割など残っていないからである。政治権力の不平等の防止策は、多様な利益集団の政治参加の平等化ではなく、政治権力自体の最小化であって、それがなされれば、経済的な力が政治に影響するということもおのずからなくなる。それはちょうど、政界と財界の癒着をなくすためには、財界の内部調整によって利権を公平に分配するのではなしに、利権そのものをなくすべきであるのと同様である。

このように考えると、政治とは多様な利益集団の取引と妥協の過程だと考える「政治的多元主義」や、個々人の利害は職能団体とその代表者によって代表され調整されると考える「コーポラティズム」と呼ばれる見解は、政治の実態を記述するものとしては正しいかもしれないが、規範的な見解としては斥けられる。社会の中には多様な利益が存在することは事実だが、その利益の追及は強制力を伴う政治の場ではなしに、民間の領域でなされるべきである。人からお金をもらいたかったら、課税によって否応なしに取り立てるべきではなく、寄付か交換によって、相手の納得ずくでもらうべきである。

するとリバタリアニズムが認める政治の役割は結局何なのか?それは、市場では十分に供給されない公共財が何であり、政府がどれだけ供給すべきかを決めることと、福祉給付の程度を決めることくらいに限られるだろう。むろんこれらの政治的決定に際しても、自己利益的考慮は入り込んでくるだろうが、右の原則が建て前としてでも認められれば、政治が利益集団に利益を分配できる程度は現在よりもはるかに制限されるだろう。

 

(p.124 - 126)

 

リバタリアニズムの消極的な政治観に対する、より根本的な批判もある。最近英語圏の政治理論で注目されている「公民的共和主義(シヴィック・リパブリカニズム)」や、それとよく似た「参加民主主義」などと呼ばれる見解によると、ーー政治は人々の幸福や利益実現のための単なる手段ではないし、まして必要悪でもない。むしろ政治への積極的な参加こそが、市民のよき生にとって欠かせない構成要素である。経済の領域では私的利益を孤独に追求しているにすぎない個人も、政治の領域で公共的決定に参加して、公共善について同胞市民と共に熟慮し討論し競い合うことを通じて、連帯感を持つようになる。政治への参加が人格を陶冶し、他者への共感と思いやりを持った豊かな人間性を育てるーーとなる。古代ギリシア直接民主制を理想化するこの立場では、民主制は人々の意見を平等に反映させるとか、あるいは専制政治を阻止しやすいといった理由よりも、誰もが政治に積極的・直接的に参加すべきだという理由によって正当化される。民主主義国家は民主主義へのコミットメントによって結ばれた政治的共同体である。

この説は、一見して現実離れしているように思われる。第一に、大部分の人は自分自身の利害についてはある程度合理的な判断ができるが、天下国家や地球全体にかかわる問題については、ごく限られた知識しか持ってない。またかりに人々がこれらの問題について十分理解しているとしても、各人が求めるのは公共的な利益よりも自己利益かもしれない。そもそも政治参加が人格を陶冶するというのも、奇異な主張である。プロの政治家と市井の私人とを比べると、前者の方に立派な人格者が多いだろうか?政治家の公約は商人の契約ほど当てになるだろうか?

[…中略…]

…公民的共和主義は、リバタリアンに限らず自由主義的見解からはとうてい認めることができない。それは何よりもまず、人間の多様性を無視している。人々の中には公共的決定への参加を生きがいとする人もいるように、私生活を楽しもうとする人々もいる。公民的共和主義者は後者の人々を、教育されるべき、意識の低い人々とみなすようだ。しかしそのような人間観を持つのは自由だが、それは公的に強制されるべきものではない。その強制は個人的自由に対する全面的な侵害である。それはちょうど音楽好きの人々ーーそれは現代の日本では政治好きの人々よりも多いだろうーーが、音楽のない生活は貧しい生活だという理由で、政府は音楽の振興を国家的目的として、すべての国民に音楽活動への積極的な参加を呼びかけなければならない、と主張するようなものである。

 

(p.126 - 128)

 

 リバタリアニズムの立場からの共同体主義/共和主義批判はジェイソン・ブレナンの『アゲインスト・デモクラシー』でも行われており、わたしはブレナンの本を読んだことをきっかけにして「リバタリアニズムにも意外と見どころはあるんじゃないか」と思うようになった*1。また、「共和主義の議論は要するに自分の趣味を押し付けようとしているだけだよね」とか「自分にとって政治が大切だと思うのはいいけど、他のみんなにとっても政治が大切だと主張するのは違うよね」といった感想(批判)は、マイケル・サンデルなどの共同体主義者やジョン・ロールズにエリザベス・アンダーソンなどのリベラリストに対してわたしが以前から抱いていたものでもある*2共同体主義を批判するという点ではリベラリズムリバタリアニズムも共通しているし、原則としてわたしはリベラリズムのほうを支持しているが……リバタリアニズムほどに自由を重要視する意義がわたしには感じられないし、リバタリアニズムはやはり弱者に対して厳しいものがあると思うし、現実にリバタリアニズムを実践しようとしてもうまくいかないことはほぼ自明であるように思えるし……リベラリストの多くは政治大好き人間であるために、連帯感とか自尊心とかいった議論については共同体主義や共和主義のほうに寄ってしまいがちだという問題がある。そういう問題を考えると、リベラリズムよりも原理的かつ冷徹な視点から共同体主義者や共和主義者の主張を一蹴してしまえる(そしてその光景を眺めているリベラリストにも我に返るきっかけを与えられる)リバタリアンの存在には、大きな意義があるとも思っている。

 

 その他に本書で印象に残ったポイントは、「左派(左翼)リバタリアニズム」について紹介しながらも最終的には「左派リバタリアニズムは実際にはリバタリアニズムとは言えない」と切り捨てているところ、自己所有権テーゼや経済的平等に関するジョン・ハリスやジェラルド・コーエンの議論を紹介しているところ、臓器売買を肯定しているところ、などなど。

 また、共同体主義が「根なし草」を否定するのは反自由主義であるときっぱり指摘しているところや、マルチカルチュラリズムは民族的アイデンティティだけを公的に重視するから恣意的だと批判しているところ、「移民の自由」をはっきりと擁護しているところなどは、出版から20年以上経った現在でこそむしろ重要になっていると思う(いつの間にか、昔よりも現在のほうが、こういった主張を堂々と言うことが難しくなっている面があるからだ)。

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

以前にも思ったが、政治思想家たち(ロールズやアンダーソンにサンデルなど)は「社会制度」や「政治参加」が人々の「自尊」にもたらす効果を過大評価する傾向があるように思える。政治思想家たちは政治のことが好きで政治を大事に思っているから政治参加できないと自尊の感情がなくなるだろうけれど、わたしもわたしの周りの人たちも、ほとんど政治参加していないけれど自尊の感情を保てている。

最近読んだ本シリーズ:『体育がきらい』&『サイエンス超簡潔講義 動物行動学』&『サイエンス超簡潔講義 うつ病』

 

●『体育がきらい』

 

 

 著者は大学で体育やスポーツを教えており、また「体育哲学」という研究を行なっているそうだ。本書で哲学っぽいことが書かれるのは終盤になってからだが、身体を通じて個々人が世界を経験したり知覚や認識をしたりすることを重視したり、「体が変わる」ことで「世界が変わる」と論じたり、あと全体的に「〜のために運動すべきだ」とか「〜な身体になったほうがいい」とかいった基準や規範に否定的で個々人の多様性や独自性を重視している感じなど、どことなく現象学を思い出させるような議論がなされている。

 全体的には、日本独自の「体育」教育が発達した歴史的経緯や現在の教育現場における体育教育の状況が紹介されていたり、体育や運動とスポーツとの違いについて論じられたりしている。体育教育やスポーツ論に関する知識が得られるという点ではよい。ただ、本書は「体育がきらい」な子どもに向けて書かれたテイになっており「その理由を一緒に考えましょう」という感じで始まるのだが、実際には、体育業界に関わっている(が体育業界を相対化する視点も持ってしまったがために居心地の悪さや罪悪感を抱いている)大人による子どもに向けた言い訳に終始しているという感じがあった。

 また、本書では「体育ぎらい」な子どもや大人が発生する原因について「規律と恥ずかしさ」「体育教師」「部活」「スポーツという文化が苦手」「そもそ運動が苦手」といった観点から分析するのだが、わたしが子どものときに体育が苦手だった理由である「痛いからイヤ」「(走ったら)喘息で呼吸が苦しくなるからイヤ」「砂ぼこりなどで身体が汚れて不潔感を抱くからイヤ」といった点にはほとんど触れられていないのは、「身体」を強調する本書だからこそ身体的苦痛や不潔感というかなり根本的な「感覚」を取りこぼしているという点で大きなマイナスだと思った。たとえば「ドッジボールは弱肉強食の論理がはっきりする野蛮なゲームであるから多くの子どもを体育きらいにする」といったことが書かれているのだが、そうではなくて、ボールがあたるとめっちゃ痛いからイヤなのである。

 

●『サイエンス超簡潔講義 動物行動学』&『サイエンス超簡潔講義 うつ病

 

 

 

 

 どちらもVery Short Introdutionの翻訳。このブログでは人文学や社会科学系のトピックはVery Short Introdutionの翻訳書は多々紹介してきたが、それらのなかには読みものとして優れていて考えさせられるものも多くある一方で、著者のクセや自意識がノイズになり過ぎていたり規範的な主張が多過ぎてうんざりさせられたりマイナーなトピックについて読者が読む意義を理解させることに失敗していたりするものもあったりした。それに比べると、自然科学系のトピックのVSIは、読んで知識を得たりその分野の考え方や研究手法を教えてもらったりするだけでも自分のなかに蓄積される情報量が純粋に増えていく感じがあって、本としての面白さはまあまあだが「読んだ時間が無駄になったな」と感じたりストレスを生じさせられたりすることがほぼ確実にないという点でいいものだし、安定感があるなと思った。要するに人文学や社会科学って難儀なのだ。

 なお、『動物行動学』については動物福祉に関する議論も充実しているところ、『うつ病』については「うつ病と創造性の関係」というポイントに紙幅が割かれているところが、それぞれ印象に残った。

内在的公正世界信念と究極的公正世界信念(読書メモ:『「心のクセ」に気づくには 社会心理学から考える』)

 

 

 「公正世界仮説」についてはいまや多くの人が知っていることだろう(小賢しいネット民好みの理論でもあるし)。しかし公正世界仮説(本書では公正世界信念と書かれており、また公正世界誤謬と呼ばれることもあるらしい)には二種類あるということは、わたしは本書を読むまで知らなかった。

 

まず1つ目は、「内在的公正世界信念」です。良い行いをすれば良い結果が、悪い行いをすれば悪い結果がもたらされる、と信じる傾向です。この考え方は小さな頃からの学習や経験を通して、多くの人に身についていきます。

(p.68)

 

2つ目は「究極的公正世界信念」です。今、何かしらの不公正に巻き込まれて被害を負っていても、将来必ず、何らかの形で埋め合わされるに違いないと信じる傾向を指します。この信念は、信仰や宗教とも関わりがあります。宗教は、信仰の対象はさまざまだとしても、死後の世界(たとえば、天国や地獄)や、生まれ変わり(輪廻転生)の教えをしばしば提供します。そこに共通するのは、長期的な視点です。被害の回復は、いつになるかわからないし、時に現世ではなく来世になるかもしれないけれど、きっとその日がやってくるのだと考えます。

(p.70)

 

 また、「不公正世界信念」というのもあり、日本人はこの不公正世界信念の傾向が強いそうだ。

 

最後に、公正な世界の存在を否定する考え、すなわち、「不公正世界信念」にも触れておきましょう。直感的に考えると、公正世界信念が弱い人は不公正世界信念が強い、と思われるかもしれません。でも実は、両者の関係性は研究によってまちまちで、まだはっきりとした関係性は見いだせていません。その背景には、自分が自分自身にとってふさわしい結果を得ているかという公正感と、自分以外の周囲の人たちがそれぞれにふさわしい結果を得ているかという公正感にズレがあることなどが想定されています。

(p.74 - 75)

 

 また、本書では公正世界的な推論を行う程度に関するアメリカ人と日本人との比較研究も紹介されている。それによると、日米のどちらでも、過去に窃盗を犯した人(悪い人)の不運については内在的公正推論が行われて(「悪いことをしたからそんな目にあうんだ」)、周囲から尊敬されている人(良い人)の不運については究極的公正推論が行われる傾向にあるそうだ(「いつか埋め合わせがきっと来るさ」)。

 しかし、日本人はアメリカ人に比べると、良い人と悪い人のどちらについても究極的公正推論を行いづらい。また、悪い人に対する内在的公正推論の程度は、日本人のほうが激しい。なお、宗教(ほぼキリスト教)を信仰しているアメリカ人は無信仰のアメリカ人よりも悪い人に対する内在的公正推論の程度がかなり激しい一方で、宗教(一番多くは仏教)を信じている日本人と無信仰の日本人とではほとんど違いがなかったそうである。

 本書の著者は、(だれかの不運に関する)究極的公正推論はおおむねポジティブに働く…相手が将来に幸運を得ることを予期する考え方なので、相手が傷つくわけではない…が、内在的公正推論は無関係の物事に因果関係を想定することで相手を傷つける…いわゆる「自己責任論」をもたらして困難な目にあっている人や弱者に対するサポートを減らす、という点を危惧している。

 文化差といえば、本書の第1章では物事の原因に関して「内的帰属」するか「外的帰属」するかという原因帰属の理論や、それの文化差なども紹介されている。ここの議論については、過去に読んだロバート・ニスベットの『世界で最も美しい問題解決法』を思い出した*1

 

 さて、ここからは本書に対するネガティヴな感想となるが……最近のちくま(プリマー)新書の例に漏れず、本書についても、やはり説教臭さや規範意識が鼻についてしまった。

 前半は「人間の心理にはこういう傾向がありますよ」と知識を紹介しつつ「傾向に左右されて不合理な考え方をしたり自他に問題を引き起こさないように気をつけましょうね」といった常識的な注意をするという感じなのだが、ステレオタイプを扱った第4章や現状肯定心理を扱った第5章からは差別や格差や気候変動の問題なども言及されるように、やたらと内容がWokeになってくる。……単なる心理学ではなく「社会心理学」という点で分野自体に規範的な側面があったりするのかもしれないし、中高生向けの新書ということになっているので「SDGsとか取り入れてください」と編集者から指示があったかもしれない。もちろん、著者自身が諸々の社会問題に対する懸念や憂慮を抱いているから本書のなかにメッセージを込めた、という面もあるだろう。

 しかし、パターナリズムの訳語に「家父長制」という単語が含まれていたり、日本ではジェンダーステレオタイプに基づく広告が多いことと日本のジェンダー・ギャップ指数が低いことをつなげたり(ジェンダー・ギャップ指数の指標には広告やステレオタイプに関する項目は含まれていなかったと思う)*2、またステレオタイプ広告の例が70年以上前のアメリカのものであったりと、なんだか色々と雑であるうえにヌルい。

 また、格差の問題に関しても、グリム童話「貧乏人と金持ち」を紹介したうえで、「極端に貧しい人やお金持ちの人がいる格差社会は本来であれば好ましくなく、そのような格差は是正されるべきです。」(p.147)などと書いて、童話のストーリーが読者に「居心地のいい感情」を与えることで貧富の格差を等閑視する内容になっていることを批判している……のだが、現代人が書いた小説や漫画や絵本に対してならともかく、グリム童話にそんなことを言ってどうすんの、と思わされちゃう。また、グリム童話の他にもお金持ちと貧しい人が出てくる童話はたくさんあって、小さい頃からそのような物語に繰り返し触れることで貧富の格差を当たり前のものとして受け入れたり特定の社会集団に対するステレオタイプ形成が促されたりすることなどを著者は批判しているのだが、子どもであっても「お話」と「現実」は分別することができるように思えるし、成長した人の大半はグリム童話の背景にある時代と現代社会とを分別して考えることができるでしょう。

 いちおう本書では「公正世界信念もステレオタイプも社会的な問題を引き起こすことはあるが、わたしたちが生きていくうえで欠かせないものでもある」という点は書かれているのだが、むしろこのポイントを深掘りしてくれたほうが個人的には読みものとして面白くなったと思う。また、ステレオタイプによる差別を批判する本書が、「日本人」に対する典型的なステレオタイプを補強する研究結果を紹介する内容になっていること(「他人の不運に対して同情しない」「長期的な視点で持って物事を考えるのが苦手」「成功を望むよりも失敗を恐れる」など)には難しさを感じた。

 

 余談だが、本書の前半ではミルグラム実験が紹介されており、「あれっミルグラム実験って再現性がなかったってことになったんじゃないの?それについて一切言及せずに紹介するなんてアヤしいなあ」と思っていたのだけれど、いま調べたらミルグラム実験はむしろ再現性が高いことで有名らしい。わたしも含めて、スタンフォード監獄実験の再現性問題とごっちゃにして認識している人が多いようだ(反省しました)。

 本書では各実験の手法について細かく紹介されており、Amazonレビューなどを見ていると一部の読者についてはそれが読みものとしてのテンポや面白さを損ねているらしい。また、第4章では二人の男性のイラストを掲載したうえで「能力が高い男性はどちらだと思いますか」「温かいのはどちらだと思いますか」と読者に尋ねてステレオタイプを問う、という場面があるのだが、「能力の高さ」って言葉の意味が曖昧過ぎてその質問って意味あるの、とは思ってしまった*3。……とはいえ、研究手法や実験の過程を細かく描写するのは、心理学の研究結果だけでなくモデルや考え方も読者に伝えられるという点で教育的であるし、また「その手法によるその研究結果でその主張が言えるって飛躍していておかしくない?」と読者に疑問を抱かせる余地も与えている点でフェアで誠実である。これについては本書の長所であると思った。

*1:

 

 こちらはまだ未読だが、原因帰属に関しては同じくニスベットの『木を見る西洋人 森を見る東洋人』で詳しく扱われているようである。

 

 

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

なお、ジェンダー・ギャップ指数を持ち出すこと自体については、議論の文脈に合ったトピックなら適切であり得るし、それ自体を否定しているわけではない。

*3:スーザン・フィスクらによる「ステレオタイプ内容モデル」の研究を紹介する件なのだが、英語だと「能力の高さ」は competenceとなっているようだ。

「怒り」はよくて「嫌悪感」はダメなのか?(読書メモ:『感情と法』②)

 

 

 前回の記事でも触れたように、『感情と法」の第2章と第3章では、おおむね「嫌悪感は不適切で理に適っていない感情だから法律に組み込んではいけないが、怒りは適切で理に適った(ものになり得る)感情であるから法律に組み込むべきである」という議論が展開される。

 この議論はかなり興味深いものではあるが、わたしとしては、ヌスバウムは「怒り」という感情を過剰に高く評価したり理想化したりしているように思えたし、逆に「嫌悪感」という感情を低く評価し過ぎて貶めているように思えた。

 

 わたしがまず疑わしく思ったのは、嫌悪感(disgust)について、「汚染源を拒否したいという感覚」であるとしているだけでなく「自分の死や有限性を思い起こさせるもの」とか「アニマル・リマインダー(自分が動物であることを思い起こさせるもの)」といった説明が用いられていること。この説明はヌスバウムのオリジナルではなくポール・ロジンという有名な心理学者の理論に基づくものであるし、本書の副読本として個人的に手に取ったレイチェル・ハーツの『あなたはなぜ「嫌悪感」をいだくのか 』でもこの理論は参照されていた*1。しかし、ヌスバウムによる嫌悪感の定義はなんだかずいぶんと「文芸的」な感じがする。たとえばわたしは道で犬の糞を目にしたり匂いを嗅いだりしたら嫌悪感を抱くが、そのときにわたしが無意識レベルでも死や有限性を思い起こしたり自分が動物であることを思い起こしたりしているとは、とても思えない(あと、たとえばわたしのウンコは他人のウンコよりもわたし自身の死や有限性を思い起こさせそうなものだが…なにしろ自分の身体から出たものだから…わたしは他人のウンコを目にしたり匂いを嗅いだりしたときのほうが自分のそれより嫌悪感を抱くし、他の人たちの大半もそうだろう)。

 なお、念のために書いておくと、本書における嫌悪感とは英語でいう disgust であり、日本語の「嫌悪」よりもやや狭く限定的な意味となっている*2。基本的には、吐瀉物や糞尿や血液や経血、ゴキブリやナメクジなどの不快害虫、または人と場合によってはなんらかの性的な物事について目にしたり聞いたり匂いを感じたりしたときに抱くような「うげっ(Yuck)」という感じだ*3。とはいえ、後から紹介するように、本書における…というか、本書でヌスバウムが批判対象として紹介や引用をする論者たちが用いる…「嫌悪感」という言葉には、もっといろんな意味が含まれている。

 

 怒りと嫌悪感の違いについて、ヌスバウムは以下のように書いている。

 

これまでの議論で理解できるように、嫌悪感は危険の恐怖からだけ[で]なく、怒りや憤りからも区別される。嫌悪感の中核にある考えは、自己への汚濁である。つまり、この感情は、汚染源かもしれないものの拒否を表現している。嫌悪感の主な対象は、人間がやがて死に至ることや動物であることを思い起こさせるもの、人間を汚染するものとみなされる。対照的に、憤りには主として不正もしくは危害の概念が含まれている。怒りを抱いている当人に対してなされたか、あるいは、怒りを抱いている当人が重要と考える人や物に向けてなされたかはともかく、怒りの哲学的定義には標準的に不正の概念が含まれている。たとえば、セネカの『怒りについて』で報告され議論された、古代ギリシアにおける標準的定義は、「不正に仕返ししようとする欲求」、「自分に対して不正を働いたと自らが信じる人を罰したいという欲求」、そして「適切な範囲を越え、自分に対して不正を働いたと自らが信じる者に報復したい欲求」というものである(アリストテレスの初期の説明はこれらによく似ている)。「不正を働いた」という言葉に「適切な範囲を越えて」を付け加えている点で、ストア派のものとして最後に挙げた定義には、不正の概念が二度含まれている。不正(であると信じられているもの)の概念が非常に重要だからである。このことに注意を払うことにしよう。西洋の哲学的伝統における、怒りと憤りについての以後の定義のほとんどは、これらの先例に従っており、この点で、心理学はストア派と同様の道筋を辿ってきた。

危害や損害といった概念は、怒りの認知内容の中核に位置する。それゆえ、怒りが公共の場で言明され表現されうる推論に依拠しているのは、明らかである。損害や危害は、あらゆる公共文化や法体系が集中的に対処しなければならないものである。つまり、損害や危害は、公共的な説得と公共的議論の中心的話題である。

 […中略…]

第1章で論じたように、個人の怒り(や怒りの欠如)のもとにある理由は誤っているかもしれないし、何の根拠もないのかもしれない。そして、そのような理由の錯誤は、まったく別々のかたちで生じることがある。ひょっとすると、何の損害も生じなかったのかもしれない。ひょっとすると、損害は生じたかもしれないが、ある人の憤りの現在の対象以外の人物によってなされたのかもしれない。あるいは、損害は生じ、現在対象とされる人物がその損害を与えたのかもしれないが、しかし、それは、怒りを抱いている当人が信じるような不正行為ではなかったかもしれない(たとえば、それは正当防衛の行為だったかもしれない)。さらに細かく言えば、損害を受けた者や他の人に軽視された物は、もしかすると、憤っている人が信じるほど重要なことではない。[…中略…]人々はまた、重要なものを過小評価することもある。すなわち、アリストテレスは、身内が侮辱にさらされ怒りを発すべきなのに、そうしようとしない人々に言及する。私たちは、遠くに住む人々や自分たち自身と異なる人々になされた不正に対して、しばしば怒らずにすませてしまうことも付け加えてもよいかもしれない。私たちは不正を不正として見ないこともある。たとえば、奴隷制を実践する人々の多くはそれを不正とは感じなかった。また、何世紀にもわたって、婚姻における女性のレイプは、男性の所有権の行使としてしか考えられてこなかった。

つまり、これらどの点においても、怒り(や怒りの欠如)は見当違いなものになりうる。しかし、もし怒りに結びついている思考が完全に吟味に耐えるのなら、私たちは友人や同胞市民に対して、それらの思考を共有し、怒りを共有することを期待できる。この点で憤りがロマンティック・ラブとはまったく異なるのは、アダム・スミスが以下のように述べるとおりである。「友人が傷つけられたのなら、私たちはすぐ友人の憤慨に共感し、友人が怒りを向けている人に対して怒りを覚える……しかし、たとえ友人が恋をしていて、その情念が同じ種類のどの情念とも同じ程度理に適う物だったとしても、私たちは、自分たちが同じ種類の情念を心に抱くはずだとは考えていないし、友人がその情念を向けている同じ人に対して、そういった情念を心に抱くはずだとは考えていない」。愛が基づくのは、通常、けっして言葉にすることができず、いわば他の人によって共有されえない特異的反応である。それゆえ、私たちは、友人に対して自らの愛を共有するよう期待することはできないーーただし、スミスが書いたように、もちろん友人たちは、将来に対する恋人たちの不安や希望を共有してくれるかもしれないが。賢明な観察者は、他の人の立場に立って怒りを経験するだろうが、愛についてはその限りでない。スミスはそう論じることによって、自分の判断の理由についての公共的な議論に依拠させようとする社会のなかでは、怒りは公共的行為の基礎となるが、性愛はそうではないと示唆するのである。

嫌悪感は怒りとはまったく異なっており、決定的な点で性愛に似ている。いくつかの嫌悪反応は進化論的基礎を持っており、ゆえに、それらの反応は社会を超えて広く共有されるのかもしれない。そして、媒介されて生じるタイプの嫌悪感が、一つの社会のなかで広く共有されるかもしれない。だが、これらのことが意味しているのは、嫌悪感は、嫌悪感を有している人たちに、公共的説得のために使えるような一連の理由をもたらすということではない。親の強烈な反応や他の形態の心理的影響によって、ある者に対して嫌悪感を持つように幼児に教え込むことはできる。だが、コウモリを嫌悪しない人に、コウモリが本当は嫌悪を催させる者だと説得するところを想像してみよう。対話を通じて相手を実際に説得するだけの、公共的に言語化可能な理由はまったく存在しない。あなたのできることと言えば、コウモリの属性とされているものをかなり細かく描写して、対話者がすでに嫌っているものと何らかの関連性や似ている点を明らかにすること(たとえば、濡れた貪欲な口や、ネズミに似た体)だけだろう。しかし、もし相手がそういったものに嫌悪を感じなかったら、それでおしまいである。

 

(p.126 - 129)

 

 また、嫌悪感は歴史的にさまざまな人種差別や女性憎悪などと関連してきたこと、現在でも同性愛差別などに関連していることを指摘したうえで、差別につながるという点でも嫌悪感を法に組み込むことは非常に危うい、といった議論もヌスバウムは行っている。「同性愛に対する嫌悪感情は情状酌量すべきか」というトピックについても『感情の法』のなかでたびたび触れられているところだ(もちろん「そんなものは認めるべきでない」という結論になっている)。

 おそらく現代の日本人の多くは、嫌悪感を法に取り入れたり、なんらかの公共的な場面や公共的な議論などで持ち出したりすべきでないというヌスバウムの主張には「そりゃそうだ」と納得するだろう。とくに法律のあり方とかリベラリズム理論とかに詳しくない人であっても、嫌悪感が差別につながると認識している人は多々いるだろうし、嫌悪感を法とか公共とかに取り込むことに危うさを感じる人は多いと思う。そういう点ではヌスバウムの議論はかなり常識的なものである。……だからこそ、むしろ、ヌスバウムが批判を行なっている対象である「嫌悪感を法に取り入れるべきだ」という主張のほうが議論としては新鮮で興味深いだろう。

「嫌悪感支持派」として『感情の法』のなかで取り上げられている主な論者はデヴリン卿、レオン・カス、ウィリアム・ミラー、ダン・カハン。彼らは基本的にはリーガル・モラリズムを主張する保守派であったり共同体主義者であったりするようだが、カハンは自身を進歩主義者(リベラル?)と見なしているようだ*4

 

…カハンの見解は、ある殺人は他の殺人より悪いものであり、殺人や特に殺人者の間に序列をつけるために嫌悪の心情を信用することは良い方法だというものに思われる。私たちは、法的に重要な加重要因を特定するために、もしくは、ある殺人者がとりわけ卑劣ないし低劣であると判定するために、嫌悪感に依拠することができる。すると、判決の際、嫌悪感はある役割を果たすことになる。つまり、序列づけを通じて、残酷さに対する否認と反感を強化するのである(この主張の詳細は第3章で検討しよう)。私はカハンのこういった考えを受け入れることはないが、限定的とはいえ、この考えはある種の妥当性を持っている。なぜなら、カハンが嫌悪感の影響を認めたのは、この場合、他のもっとミル主義的な根拠[危害原理]に則して違法とされる行為の文脈のなかだけだからである。

ここまでの議論をまとめることによう。嫌悪感に法的役割を認める立場は実際には多くの立場からなることが、いまや理解される。しかしながら、ここでのどの論者にとっても嫌悪感はともかくも有益な法的基準となる場合があり、ある種の行為の法的規制に関する情報を示すとされる。ここでの一つの重要な区別を強調してもよいだろう。この四人の論者が考えているのは、単に限定された意味での、個々人に対する危害としての嫌悪感ではない。つまり、この論者たちは、一般に生活妨害禁止法[悪臭や騒音などを規制する法律]によって提示される種類の嫌悪感を考えているのではない。生活妨害禁止法は、激しい苦痛を伴う種類の侵害を加える人々に刑罰を科す。そういった侵害はしばしば嫌悪感という形態をとる。たとえば、嫌悪を催させる臭いは、それを発生させた人の隣人に影響を及ぼしたりする。これが、法における嫌悪感の役割の一つである(生活妨害については第3章で議論しよう)。しかし、四人のどの論者にとっても、嫌悪感はずっと幅広い根本的な意義を持っている。個々の論者にとって、嫌悪感はそれ自体規制されるべき危害ではない。むしろ嫌悪感は基準となっている。つまり、何が悪なのか、それどころか何が非常に悪いことなのか、すなわち、(彼らが論じるには)何が規制可能なのか、嫌悪感はこういったことを明らかにするための基準なのである。法によって規制可能な(もしくは規制されるべき)行為を特定するために、私たちは「常識人」の嫌悪感という概念を使用する。その現場に立ち会ったどんな人に対しても苦痛を与える生活妨害になるような嫌悪感を、当該の行為が実際にもたらすかどうかという問題に立ち入ることなく、この概念は使用されている。デヴリンとカスによって考察された事例[同性愛行為など]の多くは、私的になされるがゆえに、生活妨害禁止法によってカバーされるような種類の嫌悪感を実際に呼び起こすことはおそらくないということに注意しよう。そういった事例の行為を嫌う人々がそのそばにいて不快な目に遭うことはまずない。そうではなく、嫌悪感は、ある行為がどの程度悪質なのかを問う場合に私たちが従う道徳的な筋道ないし基準なのである。そして、不道徳さの判断は(それはまた四人の思想家にとっては、社会的危機についての判断なのだが)それ自体、行為の法的規制に関連するもなのである。

この点を除くと、何が最も差し迫った社会的危機なのか、そういった社会的危機に対処するために嫌悪感がどう役立つのかに関して、四人の論者の見解は異なっている。ミラーは規範面での明確な見解を持っていないので、ここからは他の三人に集中するとしよう。カハンの見解はーー少なくとも、嫌悪感について論じたこれらの著作の目的にとってはーーミルが賛同するような種類のはっきりとしたリベラルな見解、つまり、法的規制は第一に他者危害に基づくとする見解であるように思われる。カハンは、きわめて有害な行為との関わりのなかでだけ、嫌悪感への訴えを使用する。しかし、そういった文脈においては、行為がどの程度有害かではなく、もっと別のものを測るため、つまり、その犯人がどれほど卑劣で下等であるのかを測るために嫌悪感は使用されるのである。カハンはここでミルから離れることになる。ただし、デヴリンやカスほど離れているわけではない。

デヴリンやカスにとって、嫌悪感はさらに広い範囲で使用される。嫌悪を催させるものとしてカスが挙げた例のほとんどには、実際には他者への危害が含まれてはいる。それでも、対象が限定されるミルの原理をカスが受け入れないこと、そしてデヴリンとともに無害な行為を規制しようとしていることは、明白である。しかし、規制を擁護するためにカスが使う議論は、デヴリンのものとはまったく異なったものである。そこでは、嫌悪感を信頼に足ると考えるべき理由についてのまったく異なる描像が利用されている。デヴリンにとって、嫌悪感は社会的に発生するものであり、社会に深く根づいた規範を私たちに知らしめる点で、価値があるとされる。カスにとっては、嫌悪感は社会に先立っている、もしくは社会外のものである。そして、堕落した社会は私たちの人間性に迫る危機を覆い隠し、見えなくしてしまったかもしれない。そういった危機への警告を発するという理由で、嫌悪感には価値があるとされる。しかし、嫌悪感がそれなしではもたらされないはずの情報を私たちにもたらすという点では、二人の結論は一致している。また、嫌悪感の表明が合理的な議論の吟味に耐えるかどうかはともかく、嫌悪感が法的規制に関係することについても、彼らは一致した意見を持っている。

 

(p.108 - 110)

 

 この他にも、怒りと嫌悪感との違いとしてヌスバウムが言及している重要なポイントは、前者は犯罪者であってもわたしたち同じ人間として扱ってあくまで公共のなかに包摂することを志向するが、後者は犯罪者を非人間視して犯罪者を公共から排除することを志向する、ということだ。

 怒りは対象に対して行動を起こさせるという点で積極的な感情であり、法とか公共とかの文脈では「罪を憎んで人を憎まず」というか「わたしたちはあなたの行為に怒っているが、然るべき罰を受けて反省して悔い改めたならまたわたしたちの一員と見なす」とった態度につなげられる。しかし、嫌悪感は対象を拒否して対象から遠ざかることを促すという点で根本的に消極的な感情であり、法とか公共とかの文脈では「あなたは犯罪をするようなおぞましい悪人なのだからわたしたちの仲間ではないし、目の前から消えてほしい」といった態度をもたらしてしまうのだ。

 

…嫌悪感とは、嫌悪の対象に共同体の成員あるいは世界の成員ではないというレッテル、すなわち私たちと同種ではないというレッテルを貼り、遠くに押しやるか、その対象との間に境界線を引くことである。これに対して、憤りは別の方向で働く。不正に対する憤りは、不正を行なった人物の行為に着目し、責任を負わせる。憤りは、嫌悪感の場合とは正反対に、そうした人物に人間性と責任性の貴族を仮定している。つまり、ある人物は、共同体内で共有されている善悪の違いを理解していたにもかかわらず不正な行為[を]したわけである。

 

(p.211)

 

…激しい怒りは、嫌悪感よりもはるかに強く法的判断と結びついた道徳的感情であり、それゆえはるかに頼りになるものである。それは公的に共有しうる論拠を持っており、私たちの道徳的な共同体の外側で、虫やナメクジを処理するかのように犯罪者を扱ったりすることはない。代わりに、しっかりと犯罪者を道徳的共同体のなかに含め、道徳的に判断する。このように、激しい怒りは犯罪者を怪物として、つまり私たちの誰一人としてそうあることが不可能な人間として描写するいかなる傾向も回避する。

 

(p.216 - 217)

 

 引用ばっかりしてしまったので、以下ではヌスバウムの議論に対してわたしが感じたことを諸々と書いていこう。

 

 まず、「怒り」についてのヌスバウムの議論を読んでいてずっと思わされるのは、この記事の冒頭でも書いたようにヌスバウムは「怒り」を理想化し過ぎているのではないか、ということだ。

 本文中でも、怒りが不適切な対象に向けられたり見当外れになったり過剰・過小になったりするということには言及されているが、それでも適切で「理に適った」怒りや憤りは不正や危害について正しく反応する、というのがヌスバウムの論旨である。

 この議論には、ある面では納得や共感ができる。だれしもが怒りの感情を抱くのが当然であり、怒りの感情を抱かない人のほうがおかしいような事態とか事件とかは、たしかに存在すると思いたい。わたしだって「こんな事態には怒って当然だ」と思うことはよくあるし、その際に自分の抱く怒りの感情は正しいと思うだけでなく、その事態が社会的なものであったり公共的なものであったりする場合に「別にいいんじゃない」とか「大したことじゃないだろう」とか言う人がいたら、その人に対しても怒ったりドン引きしたりすることがあるだろう。また、個人的な出来事についても、自分が不正をされたり危害を与えられたりしたことを身近な友人や家族に説明したのに、相手が一緒に怒ってくれなかったり自分の怒りに共感してくれなかったりした場合には、かなりがっかりしたり悲しくなったりするはずだ。怒りは客観的になり得るという点や他人に対して伝達し得るという点、だからこそ怒りには公共性が存在するという点について、わたしはヌスバウムに同意したいところがある。

 その一方で、自分や周りの人たちが日々感じている「怒り」について振り返ってみると、ほとんどの場合は見当外れであったり過剰であったりするように思える。そもそも、自分に対してなされた不正や危害、あるいは自分が愛着を抱いている対象や自分がこだわっている物事に関する不正や危害に関する怒りは、オーバーになるのが常だろう。また、ときとして、人は不正や危害とはほとんど関係のないことにすら怒りを抱いてしまう。……数年前、会社からの退勤中、電車のなかでわたしはスマホをいじりながらSNSやニュースサイトなどで犯罪や戦争や差別に関する情報を流し見しながらもほとんど感情を抱かなかったが、電車を降りた後にスーパーに行って惣菜を買おうと思ったら半額シール待ちの老人や主婦が惣菜コーナーの前に立ち塞がっていてシールが貼られた瞬間に惣菜が次々と取られていってわたしのぶんが全く残っていなかったときには、ほんとうに激しい怒りを抱いた。この日、わたしは怒るべき対象に怒りを抱かず、怒らなくていい対象に怒りを抱いてしまったわけだが、怒りという感情は見当外れであるほうが通常だという気もする。

 また、「どんなことに怒りを抱くか(どんなことに怒らないか)」というポイントは、人の個性を構成する重大な要素でもあるだろう。友人や家族と会話していて「そんなことで怒るなんてヘンなやつだなあ」と笑ったり「バカだなあ」と呆れたりすることもあるだろうが、然るべき不正や危害には正しく怒ってそうでない物事には全く怒りを抱かないような「理に適った」人間が友人であっても困るかもしれない。

 もちろん上記のようなポイントはヌスバウムも織り込み済みであり、本書における「怒り」とは、前回の記事で紹介したような「常識人」…平均的かつ理想的な架空人の怒り…の感情である。しかし、危害や不正が発生したら適切に怒って、そうでない状況には怒らない、というほどに「理に適った」感情は、もはや感情とは言い難い。それは単なる理性であるように思える。そして、たとえば「他人に危害を与えるような行為は規制されなければならない」という(ヌスバウムも本書でたびたび持ち出している)「他者危害原則」は、怒りという感情を抜きにしても理解することができるし、同意したり是認したりすることもできるだろう。実際、わたしたちは他人が被っている不正や危害について、(その出来事について具体的な事情を知らなかったり、不正や危害を被っている他人が自分から縁遠い人物であったりするといった理由から)まったく感情を抱かないことが多々あるだろうが、それはそれとして「不正や危害が生じているような状況は是正されたり規制されたりするべきだ」と判断することができるし、そのための法律とか法体系が必要であると認識したり要求したりすることもできるはずだ。……そういったことを考えると、法律や法体系を成り立たせるためには「理に適った怒り」が必要だという主張は、あまり意味がないようにも思えてくる(「理に適った怒り」が「理性」だということであれば、どのみち「法律や法体系を成り立たせるためには理性が必要だ」という当たり前の主張になってしまうからだ)。

 

 次は、「嫌悪感」についてのヌスバウムの議論。これについても、ヌスバウムの議論には賛同できるところもある。というか、「法律や法体系に嫌悪感を組み込むべきでない」とか「公共的な場面において嫌悪感を主張することは排除につながってしまうからダメだ」といった、基本的な主張にまったくもって賛成する。……ヌスバウムの言う通り嫌悪感は差別や排除につながりやすいという点で危険なものである。また、「嫌悪感」はあまりに曖昧で非合理的であるから、法的な権力や制度をもってだれかの自由を制限したりだれかに罰則を与えたりする根拠にはなり得ないだろう。

 一方で、嫌悪感は「何が悪なのか、それどころか何が非常に悪いことなのか」とか「(犯罪者の行った行為による危害ではなく)犯罪者自身の卑劣さや下等さを測る根拠になる」とかいったカハンの主張も、蔑ろにすべきではないと思う。……実際のところわたしは自分と縁もゆかりもない犯罪者の卑劣さや下等さには興味を抱かないし、法律や判決などにおいて犯罪者の人格までをも考慮の対象にすべきだという考えはやはり認めるべきではない。だが、法律から離れてわたしたちの個人的な生活や人間関係について考えたり、なんらかの規模の集団における活動とか、より広い「社会」とかについて考えたりする際には、話は別だ。私的な領域や半公共的な領域においては、わたしたちは自分と他人の行為だけでなく、自分や他人の人格についても注意を払うべきだし、また注意を払わざるをえないだろう。そして、怒りという感情が危害や不正に対して反応し得るのと同じように、嫌悪感はある種の人格的な欠点や悪徳に対して反応し得る。

 ものすごく単純に説明すると、ジャイアンのび太を殴って危害を加えている後ろでスネ夫がその場面をニヤニヤしながら眺めているとき、わたしたちはジャイアンだけでなくスネ夫も問題だと思うはずだ。そして、のび太に対して直接的な危害を加えているジャイアンに対して抱く感情…怒りや憤り…とは異なる感情をスネ夫に対して抱くはずである。それはやはり嫌悪感であったり軽蔑の感情であったりするだろう(カハンらの議論についても、嫌悪感が軽蔑とイコールで括れる場合は多いように思える)。この場合、ジャイアンの行動については罪に問うて制裁を科したり具体的な責任を云々できるだろうが、スネ夫がニヤニヤしている件については罪を問うたり具体的な責任を指摘することはできない。「スネ夫の振る舞いがジャイアンを助長させてのび太に対する危害を増させた」と言えることは多いだろうし(というか大半の場合はそうであるかもしれない)、そこから間接的にスネ夫の罪や責任を問うことができる場合もあるかもしれないが、ここですべてを「危害」に還元させようとすること自体が的外れである。世の中には危害とは別の領域に位置する悪徳といったものが存在するのであり、法律は危害に関してしか問うべきでないかもしれないが、それとは別の領域…道徳など…においてわたしたちは悪徳についても考えるべきなのである。

 長々と書いてきたが「法と道徳は別である」という単純な話に終始するかもしれないし、『感情と法』は道徳についての具体的な議論は棚上げにしつつリーガル・モラリズムに反対する議論を行なっているだけということかもしれない。しかし、これは功利主義についていろいろ主張してきたわたし自身の自戒を込めて言うが、「他者に危害を与える行為だけが規制されるべきだ」という危害原則を唱える人ほど、「危害」を拡大解釈して、他の種類の悪徳まで「危害」に含めて自分の議論に巻き込もうとする傾向がある。『感情と法』にもその傾向は見受けられるし、とくにポルノグラフィについて論じている第3章第3節にてその傾向は顕著になっている。この節でヌスバウムはキャサリン・マッキノンやアンドレア・ドゥオーキンの主張を肯定しながら、嫌悪感に基づく主張を警戒しつつも「危害」の因果関係に関して要求される証拠や論証の水準を下げることでポルノグラフィ規制を支持する議論をしているのだが、この議論には辻褄合わせな感じを抱かされる(いっそリベラリズムから離れて、危害とは別の理由…「尊厳」でも「侮辱」でも「嫌悪感」でもよいけど…からポルノグラフィの問題を指摘する議論のほうが筋は通りそうなものだ)。また、『ハスラー』誌がドゥオーキンを性的かつ侮辱的に描いた件に関する裁判についても、ヌスバウムは裁判官が「嫌悪感」を持ち出したことを批判して「『ハスラー』誌はドゥオーキンに対して名誉毀損という危害を与えているのだから、この場合の適切な感情は嫌悪感ではなく怒りである」という議論を行なっている*5。しかし、わたしは、そのような表現を掲載した『ハスラー』誌の編集者なり責任者なりに対して軽蔑や嫌悪の感情を抱くし、このような問題についても「危害」だけを云々することのほうがナンセンスであるように思える。

 この先もさらに「嫌悪感は具体的にどのような悪徳をすべきか」「どのような人間は嫌悪に値するか」といったことを論じれるかもしれないが、もう文字数がだいぶ長くなっているし、具体的に述べれば述べるほど「そういうお前の〇〇な性質も嫌悪に値するじゃないか」という反論をされて傷付いちゃう可能性も高いと思うので、このへんで留めておこう。

 

 最後に、「怒りは相手を人間扱いしたうえで罪を問い、更生してくれることを望んだうえで、改めて公共に包摂することを望む感情である」「嫌悪感は相手を非人間扱いして、公共から排除することを望む感情である」という議論について。これについても、同意できるところもあるが素直に賛同したくない気持ちもある。

 たしかに、誰かに対して「わたしはあなたに対して怒っている」とわざわざ表明するときには、その怒りが相手に伝わって相手が反省してくれたり、今後の相手の態度や行動が変わったりすることを期待しているものだろう。一方で、「わたしはあなたを嫌悪している」と表明することは、「お前とはもう関わりたくない」という最後通告を伝えることである。また、嫌悪されていると言われた人は傷付いたりショックを受けたりするだろうが、わざわざ自分のことを嫌悪していると言ってきた人のために行動や態度を改めようとは思わないはずだし、言われた側も言ってきた人を嫌いになるのが通常だろう。

 法律は原則として全ての市民を人間扱いして包摂すべきだろうから、そういう面では、嫌悪感を法律に持ち込むべきでないというヌスバウムの議論は正しい。また、法律ほどではないが公共性の高い諸々の集団やその代表者なども、公の場で他人に対する嫌悪感を表明するべきではないだろう。……とはいえ、それは、公共においては「建前」が重要であるから、という面もある。

 そして、個人としてのわたしたちや公共性の低い私的な集団などでは、ときとしてだれかに足して嫌悪感を表明すべき場合もあるように思える。たとえば、いくら注意したり怒ったりしても問題のある行動や態度を改めない人に対して怒りの感情を抱き続けるのは、それこそ理に適っていない。ある時点では相手が変わることを諦めて、問題のある行動や態度は相手の人格上の根本的な問題であると見なして、嫌悪感や軽蔑の念をもってその相手から遠ざかることも、わたしたちが生きていくうえでは必要になる。

 さらに、前回にも書いたように、そもそも感情に怒りや嫌悪感という名前を与えながら綺麗に区別すること自体が検討外れなところがある。わたしたちがだれかについてネガティブな「感じ」を経験しているときには、相手に対する怒りや嫌悪感を同時に抱いているかもしれない。そして、本気で怒っている相手に対しては「消えてほしい」や「死んでほしい」などの排除を望む気持ちも抱くことがあるだろう。

 ……そう考えていくと、繰り返しになるが、ヌスバウムの議論はやっぱり「怒り」を理想化し過ぎていて「嫌悪感」を軽視し過ぎているし、せいぜいが「建前」の話でしかないように思えてしまう。法律において感情が果たす役割に関する彼女の議論は「それって感情の話じゃなくて理性や思考の話になっていない?」と思わされてしまう。個々人が実際に経験する感情や、個々人の道徳的生活や私的〜反公共的な集団の間に存在する道徳的な秩序において感情が果たす役割を考えるためには、ヌスバウムの「感情」論はほとんど頼りにならない。

 

*1:

 

(そもそもハーツはロジンのセミナーに参加したことをきっかけに嫌悪感というテーマに興味を抱いたらしいし、また『あなたはなぜ「嫌悪感」をいだくのか 』の謝辞にはヌスバウムの名前も挙げられている。とはいえ、わたしは本書の議論にも感心しなかった。実はこの本は10年前以上に購入していて、本棚の肥やしになっていたのをようやく手に取って読んだという経緯があるのだが、実験心理学に基づく諸々の知見…「気持ち悪い映画を見た後に手洗いをした大学院生はそうでない大学院生に比べて気分がすっきりして嫌悪感が解消されたので道徳的な問題に対する寛容さも増しました」など…は、いまとなっては再現性があるかどうかも疑問だし、実験室で得られた結果を拡大解釈して社会や政治の問題に関する議論に安直に転用したり、また人間の合理性を過小評価したりする傾向が目立つ。振り返ってみると、同時期に出版されてわたしが当時に読んでいろいろと衝撃を受けたり影響を与えられたりしたジョナサン・ハイトの『社会はなぜ左と右にわかれるのか』にも、同様の傾向はある(前回の記事でも触れた「感情という尾という合理的な犬を振り回す」の箴言をはじめとして、ハイトの議論は印象的であるし重要であるとも思うが、いまになって振り返るとやはりオーバーで扇情的な面も多々あるように思えるのだ)。他にもこの時代の(ポピュラー)心理学の本には特有のオーバーさがあるかもしれないので、現在の読者は、読むにしても眉に唾をつけるべきかもしれない。

*2:

kimini.online

*3:

 

 

*4:

www.amazon.jp

カハンの論文は『法と感情の哲学』に収められているようであり、この本に収められている他の論文も興味あるので、ほしいものリストからだれか買ってくれることを強くキボンヌします。

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

なお、フェミニスト活動家が男性向けの雑誌メディアで性的/侮辱的に扱われるという問題については、「からかいの政治学」のなかでも1970年代のウーマンリブ活動に関連してほとんど同じような問題が存在していたことが書かれていた。

法律に「感情」が必要である理由(読書メモ:『感情と法』①)

 

 

 

 本書の序章や第1章などでまず強調されるのは、「感情はともかく非合理的であり、法的なルールを作るうえで感情に配慮することは常に間違いだ」(p.6)とする世間に広く普及した考え方や、刑罰というものは「犯罪を抑止する効果という観点」からでのみ考えるべきでありそこに被害者や加害者の感情を考慮する余地はないとする(功利主義に代表されるような)見方などの「非感情主義」は誤っており、この社会に法が存在することに感情は大きく関わっている、という主張だ。

 

…反感情主義的な立場のさらに大きな問題点は、それが、実際には、己の目的を達成できないことにある。その立場は、一方で、犯罪者の心情を判断しないという点においては感情を排除するが、他方のより根本的な点、すなわち、なぜ犯罪への罰則が存在するのかを説明する点においては感情に言及している(たとえば、ミルは功利主義者ではあるが、やはり感情によって法の根本を説明する必要があると考えていた)。懲罰の抑止的な役割は、ある種の行為がなぜ悪いのかについての理由なしには説明できない。そうした説明は、人間の脆弱性と私たちの成長繁栄への関心に必ず言及せざるをえない。しかし、そうした時には、すでに感情を扱い、それを評価してしまっているのである。もしある犯罪者が人間の命や成長繁栄に深刻な暴行を行なったならば、まさにそのように判断すること自体が、その暴行が恐るべきものであり、怒りの適切な対象であることを意味している。

第1章で詳しく論じるが、そうした感情の内容そのものが評価的な判断を含んでいる。また、人は、評価判断に対応する感情を持たないことには、そうした判断を矛盾なく行うことはできない(死が自分にとってきわめて悪しきことだと判断しながら、その人が死を恐れないなどということがありうるだろうか。どんなに人が自分は死に対する単なる恐怖心は克服していると思い込んでいたとしても、そんなことは実際にはありえない。そう私は思う)。したがって、反感情主義的な功利主義の犯罪抑止論は、本当のところでは、感情に依拠せずにはすまないのである。それは、犯罪者の心理状態という、たった一つの分野で感情に依拠するのをやめただけである。そして、このように感情を否定することは奇妙なことであり、不公平に思われる。というのも、私たちは死を恐れるのは道理に適ったことだと判断するのだし、そうであるからこそ、殺人を罰する法を正当化するのに恐怖心を根拠とするからだ。そうだとすれば、なぜ、ある人が行なった推定有罪の行為を評価するのに、その人の恐怖が理に適っていること reasonableness〔その恐怖が生まれて当然であること〕が評価に関係してはならないということになるのだろうか。

そうした考察は以下のことを示唆している。すなわち、ある種の感情とその感情が理に適っているということに実質的な規範的役割を与えない法体系などは、想像困難なのである。そうしたものがあるとしても、少なくとも、現行の法体系とは完全に異なったものとなるだろう。この点が、反感情主義の提案の最大の問題点である。さらに、その提案は、あらゆる感情に「非合理的」という烙印を押してしまうが、それは不明確で説得力がない。「非合理的」とは、ごまかされやすい言葉である。私たちが魚や人間の乳幼児が「非合理的」だという時には、「思考に欠けた」ということを意味するだろう。第1章で論じるが、その意味では、すべての感情は「非合理的」だとすることには、まったく説得力がない。実際に、感情はじつにしばしば思考ーー世界のなかで私たちにとって重要なことについての思考を含めてーーと結びついている。私たちは、まったく思考しない生物、たとえばエビを想像したときに、そうした生物に、悲嘆や恐怖や怒りが本当にあると思えるだろうか。私たち自身の感情は、時に非常に複雑な、私たちが案じている人々や事物についての思考を内包している。たとえば、悲嘆とは、単なる「体が苦しい感じ」などでは、ほとんどありえない。その悲痛な性格は、自分の生活のなかで日頃から大切であった故人への思いを抜きにしては、説明がつかない。同じように、たとえば、怒りや恐怖のような、法において最も頻繁に引き合いに出される感情には、明らかに思考が結びついている。もし私が恐怖から脅迫に屈してしまうならば、その恐怖は、私の体中にショックを与える単なる電気パルスではない。苦痛を伴ったその恐怖の特徴は、私が被るだろうダメージについての予測から来るものである。

 

(p.10- 12)

 

  上記の引用部分でも強調されているように、感情とは「思考」が伴うものであること、また感情とは理に適っている場合があり得るものであるということが、本書の議論における重要なポイントだ*1

 なんらかの感情が「理に適っている」というのは、簡単に言えば「そんなことをされたら怒っても仕方ないな」とか「そういう事情があるなら恐怖心を抱くのももっともなことだ」とかいった判断がなされるような場合だ。また、感情は「信念」…事実がどうであるかは別にして、なんらかの対象や物事や状況などについてその人が抱いている知識や認識や把握など…にも関連している。つまり、相手に関して持っている信念はその相手に対して怒りを抱くかどうかを左右するし、自分が置かれている状況について抱いている信念は恐怖心を抱くかどうかを左右するだろう。

 実際の法律や裁判などにおいても、当事者が抱いている信念は、事件や事故に関する事実とは別に考慮されている。たとえばある犯罪行為について「故意」が問われるかどうかには、行為したときの状況や行為の対象に対して行為者が抱いていた信念が関わってくるだろう(非俗な例を挙げると、未成年と性行為をしても相手が未成年であると知らなかった場合は罪にならない可能性があるが、「もしかしたら未成年かもしれない」程度の認識を持っていたなら「未必の故意」が問われる可能性もある)。また、以下の引用部分は、DVの恐怖から夫を殺害したジュディ・ノーマンという女性の裁判に関するものだ。

 

彼女の恐怖は、彼女が自分の置かれた境遇を見る仕方に基づいていた。彼女の場合は、自分の生命と安全が夫によって脅かされているものとして自分の境遇を見ていたのである。この事件をめぐる裁判の両陣営は、夫が自分に深刻な身体的危害を与えそうだという彼女の信念が理に適っているかどうかについて意見が対立している。双方とも、それが真実かどうかの問題は持ち出していない。きっと、彼女の信念が未来についてのものであり、そうであるかぎり、真実かどうかは確かめようがないからだろう。問われていたのは、彼女の過去の経験や彼女が手にすることのできた証拠に基づいて、自分の生命や身体の安全が脅かされていると信じることが理に適っているかどうかということにある。

 

(p.32 - 33)

 

 本書における「感情」はかなり合理的なものとして記述されている。感情のなかに含まれている信念が強調される一方で、わたしたちの多くが感情と聞いたときにまずイメージするであろう、「感じ」という要素はかなり軽視されている。ここでいう「感じ」とは、人が経験する身体的な感覚や反応のことだ。たとえばわたしたちは自分がイヤだと思っているものやムカついている相手を目にしたときに、身体のなかにネガティブで不快な「感じ」が生じるだろうが、その感じは単純に「怒り」や「嫌悪感」と定義できるものではないかもしれない。……イヤさにはいろんな種類があるし、ムカついている相手には怒りと同時に嫌悪感やその他の感情に連なる感覚を抱くものだろう。また、「怒り」や「嫌悪感」と表現できればそれがどういったものであるかは他人にも多かれ少なかれ伝わるだろうが、「感じ」そのものは通訳不可能であり、他人に伝えることはできない。

 こういった「感じ」については、法律に関する議論には含めるべきでない、とヌスバウムは(アリストテレスを参照しながら)論じている。

 

…信念は、感情そのものの一部となっていると思われるのである。言い方を換えれば、もし、私たちが怒りのような感情を定義して、怒りにとって絶対的に不可欠なこと、他の苦しい感情から怒りを区別させるようなことすべてに言及しようとするなら、怒りがどんなふうに感じられるかということを挙げただけではうまくいかないことがわかるだろう。そうアリストテレスは示唆している。否定的感情の多くが、かなりよく似た苦痛の感じを伴う。恐怖心、哀れみ、ねたみ、そねみ、怒りなど、私たちはこれらの感情を、それぞれに特徴的なタイプの感じに結びつけ、信頼できるやり方で区別することなど本当にできるのだろうか。それらを区別しようとすれば、それぞれに特徴的な信念を持ち出してくる必要もあると思われる。恐怖心は、未来に差し迫った良くない可能性についての信念を含む。怒りは、不当になされた被害についての信念を含んでいる。憐れみは、他人がひどく苦しんでいることに関する信念を含む、などなど。同じことが、いわゆる肯定的感情についても言える。それらはすべて何らかの快い感じと結びつけられるかもしれないが、愛、喜び、感謝の念や希望をこうした良い感じだけと関連づけ、それぞれに特徴的な一連の信念に言及しないで区別しようとするのは、実際難しいだろうし、まず無理だろう。

いやそれどころか、アリストテレスよりさらに歩を進めて、感じは感情を定義する際に本当は大して役に立たないのだと指摘しても良いだろう。というのは、あるタイプの感情に結びつけられる感じは、人によっても、また同じ人でもその時々によって、大きく変わるからである。ジュディ・ノーマンの恐怖心を考えてみるとよい。彼女が自分の生活を恐れている間、たぶん、万華鏡のように移ろいゆく一連の感じを抱いただろう。それらを想像することだけでも難しい。ときには、おそらく、震えもしたろうし、動機もしただろう。また、呆然としたり、脱力感を感じたりするときがあったかもしれない。そして、もし、このことが比較的単純な感情である恐怖心について言えるならば、悲嘆や怒りを経験している人についてはなおさらあてはまる。それに、人は十人十色である。ある人は、煮えくり返るような感じと結びついた怒りを経験するだろう。別の人は鈍いうずきを経験するかもしれない。では、愛はどうだろう。友人であろうと、子どもであろうと、またパートナーであろうとも、誰かを愛するという経験は、確かにたくさんの感じを伴う。しかし、愛にはいつもある特定の感じが含まれているに違いないというのであれば、あまりに限られすぎた話である。

事実、時おり感情は、それと結びつけられるような特定の感じがなくても現れることがある。私たちの信念の多くが、ずっと意識されないまま働いて、行動を動機づけているということを認めるのに、何も感情の抑圧というややこしい説明を必要とするわけではない。落としたものは地面にぶつかるという信念、私の演台は堅い物体で手が通り抜けることはないという信念、もし私が演台を動かしたいならばそれを持ち上げて押さなければならないという信念、これらの信念や、他にも数えきれないくらい多くの信念が、たとえ意識されていなくても、講義の間、私の行為に影響を及ぼしている。感情についても同じことが言えるのである。親を亡くしたことの悲嘆、自分の死に対する恐怖心、子どもへの愛、それぞれが私の生活という織物に染みついていて、たとえ四六時中それを意識していなくても、ということは、それに結びつけられる特有の感じの状態に気づいていなくても、多くのさまざまな行為を説明してくれる。

だとすれば、感情に関わる思考を、単なる随伴物や因果的な先行条件とみなすわけにはいかない。感情を同定するなり定義するなりして感情同士を互いに区別するために思考が必要とされるならば、思考は、これこそ感情であると言えるものの一部をなしているのであって、まさに感情本体を構成しているということを意味する。さらに、思考は、感情の構成要素である感じが変化、変動しやすいのに比して、より安定していて分析しやすいと思われる部分でもある。そこで、私たちはこう結論すべきであろう。アリストテレスと法の伝統が、感情に含まれる思考に焦点をあて、その思考が理に適っているかどうかについての問題を問いかけるとき、正しい方向を向いていたのだ、と。

 

(p.34 - 36)

 

 さて、「感じ」について云々することはやめて「信念」や「思考」に関わるもの(のみ)として「感情」を扱おうとするヌスバウムの方針には、いろいろと限界もあれば危ういところがあるように思えるし、『感情と法』を読んでいてもずっとわたしには納得できないところがある。上述の引用部分についても、結局のところは、議論を行いやすくするという都合のために「感情」を定義して、議論の対象にしづらい「感じ」という要素を排除しているだけなのでは、という気もする。

 たしかに、法律や法体系に関する議論の文脈で「感じ」を持ち出すことは困難だし、逆に信念や思考に関わるものという限界を定めておけば「感情」という要素について有意義に論じることができる、というのは『感情と法』のその後の章でも実践的に示されていることだ。そして、『感情と法』は基本的には法律や法体系に関する本なのだから、それでいいとも言えるだろう。……とはいえ、わたしたちの個人的な生活や人生、私的な集団、あるいは政治や社会といった法律よりも曖昧で広い領域などに関わる場面での「感情」について考える際には、ヌスバウム(やアリストテレス)の定義ではかなり多くのものを取りこぼすことになるようにはずだ(そしておそらくヌスバウムは法律や法体系に関わる場面以外についてもアリストテレス的な定義によって感情を論じようとしている)。

 たとえば、腹の底から生じる「感じ」は、怒りであるか嫌悪感であるか(あるいは悦びであるか愛情であるかなど)が未分化であってもわたしたちの気分状態を左右したり行動を突き動かしたりするパワーを持つし、その「感じ」を「これは怒りだ」「これは嫌悪感だ」と同定するなり定義するなりしても、定義すること自体はわたしの気分状態や行動にさほど影響を与えるわけでもない。また、自分の抱いている「感じ」に名前を与えて、信念や思考に関わるものとして合理化しようとする行為自体に、ジョナサン・ハイトが「感情という尾が合理性という犬を振り回す」と表現している人間心理の傾向に陥る危険が潜んでいるように思える。つまり、自分の感情について「わたしは嫌悪感を抱いている」「わたしは怒りを抱いている」と自ら定義を行うこと(またはそれを他者に向かってパフォーマンス的に主張すること)自体に自己正当化の側面があり、自分に生じた「感じ」を美化したり自分にとって都合の良い側面しか見なかったりする事態をもたらす可能性があるように思えるのだ。

 

 感情が「理に適っている」かどうかということについて、(アメリカの?)法律や法体系において重要になるのが、「常識人」についての想定だ。

 

……法は、被告の感情が実際に常識人の感情であると示すことを被告に要請していないが(それは絶望的なくらい主観的で不確実な探求となろう)、被告の状況が、常識人であったとしても極端に激しい怒りやそれに関連する感情が引き起こされただろう、と言えるような状況だったと示すことを要請している(さらに、被告が何らかの強い感情のもとにあったと示すことを要請している)。理に適った挑発であることを示すには、被害者によって被告に対して何らかの攻撃的行為もしくは加害行為がなされ、その行為があるレベルの深刻さに達していることが常に必要とされている。その内幕はおそらくこういうことだろう。私たちは、理不尽な殺人を助長するような社会規範を掲げたくない。そして、概して、私たちは、正当防衛のためになされたのではない殺人を容赦しない。常識人なら、挑発された状況でも、けっして実際に私刑を加えるようなことはしないだろう、と私たちは考えている。しかし、自分自身や愛する者たちへ一定のタイプの被害が与えられたときは、常識人でも憤るという事実を一般の人々や法に認知してもらいたいのであって、だから、法理のなかに、そのような状況で暴力行為に及んだ人のための軽減措置を組み込みたいのである。殺人行為が正当化されるわけではないが、それに対してより軽い罰を与えるという意味で部分的には弁明される。その理由は、単に、その人の感情が理解できるからというわけではない。感情の影響下に選択される行為ではなく、当の感情自体が適切だということである。

気をつけなければならないが、[セックスしていたレズビアンを殺した男性である、スティーブン・]カーは嫌悪感を抱いていなかったとか、彼の嫌悪感は極端に強くはなかったとか、あるいは、この嫌悪感は殺人を誘発しなかったなどと、カー事件の判事は言っているわけではない。判事が言っているのは、そうではなくて、これらは常識人の反応ではない、ということである。道理をわきまえた常識人ならば、嫌悪していようとしていまいと、暴力を振るってしまいそうになるほど感情に圧倒されなかっただろう。法には、こんなふうにして、何が道理をわきまえた人を極端な感情へと駆り立て、何が駆り立てないのかについてのモデルが含まれている。

 

(p.49 - 50)

 

 また、「常識」とはなんであるか、どんな感情なら「理に適っている」と言えるのか、ということは時代や社会によって変わることもヌスバウムは指摘している。たとえば「不倫をした妻を夫が怒りのあまりに殺害することは仕方がない」として情状酌量するという判断は、過去(のアメリカ)なら認められていたが、現代では「妻は夫の所有物であるという差別的な発想が含まれている」として、そんな判断をした裁判所は大いに批判されるだろう。逆に、ドメスティック・バイオレンスという問題の深刻さに関する世間の理解が深まるにつれて、重度のDVを受けていた妻が夫を殺害することに関する裁判所の判断にも情状酌量は含まれやすくなると考えられる。……要するに法とは社会の「規範」を反映するのであり、そういう点でも、人々の感情や価値観とは無縁の法律を作るというのは考えられないということだ。

 

 ここまでは刑事裁判の被告人に象徴されるような「裁かれる側」である個人の感情を法律はどう扱うか、というトピックが主になっているが、『感情と法』では「裁く側」である人々……裁判における陪審員から、なんらか法体系を成り立たせる社会の一員としてのわたしたちみんなまで……の感情というトピックも大いに取り上げられている。たとえば第一章の後半では、(「つめたいもの」としての法律というイメージからはある意味でいちばん縁が遠そうな)「同情」という感情が判決手続きなどを通じて法律に組み込まれていることが指摘されている。また、第2章と第3章で主に展開されるのは、「嫌悪感は不適切で理に適っていない感情だから法律に組み込んではいけないが、怒りは適切で理に適った(ものになり得る)感情であるから法律に組み込むべきである」という議論がなされる。ここでの議論については今回紹介したもの以上にいろいろと(良くも悪くも)考えさせられて、コメントしたいことがあるのだが、それについては次回の記事で。

 

*1:ちなみに本書の序章などでヌスバウム古代ギリシャやローマのストア哲学を感情をできる限り人生から排除することを目指すものとして否定しているが、ジュリア・アナスによるとむしろストア派こそが「感情それ自体が、人がそれに基づいて行為を決定するある種の理性なのである」と主張していたようだ。とはいえヌスバウムの解釈のほうが一般的なストア派のイメージには近いだろう。

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読書メモ:『フェミニズムズ:グローバル・ヒストリー』(+『はじめてのフェミニズム』補足)

 

 

 本書の目的や、本書における「フェミニスト」や「フェミニズム」の定義は下記の通り。

 

本書ではフェミニストおよび活動家の女性たちとナショナリズム、宗教教義、帝国主義ユートピア主義、および人種に基づく思考との関係を明らかにしていくが、そのなかでフェミニズム的なひらめきがどんなものかを、異なるフェミニズムの世代や時代の間に予想外の結びつきや共鳴が立ち現れることを通じて示していきたい。ひらめきは紛争や緊張関係といった別の物語とも合わせて考えることが必要である。フェミニズムの名のもとの連合には長きにわたって限界が伴い、過去におけるフェミニズム的観点からの関心がジェンダーによる傷を可視化し、根絶するための今日の取り組みと簡単に合致するとは限らないのも事実だ。

フェミニズムは、人類の半分以上に及ぶ人々の連合を目指す。これほど意欲的な運動は人類史上かつてなかったと思われる。しかしフェミニストは何を求めているのか?フェミニストに共通するのは、女であることは男よりも不利な立場にあるという認識であり、闘いを通してそれを改善できるという考えである。だが、その闘いにおいてなされる政治的主張は時代によって大きく変わり、その名称もさまざまだ。フェミニズムとは、十八世紀(あるいはそれより前)以降に形成された、相互に重なり合う一連の行動や問い、要求の複合体として理解するのが最良だろう。フェミニズムの関心は時とともに変化する。

 

(p.9 - 10)

 

「グローバル・ヒストリー」という副題の通り、本書では世界の各地におけるさまざまな時代のフェミニストフェミニズム運動と、それらに関わる出来事などが紹介される。そして本書の最大の特徴は、歴史の本としてはめずらしいような、抽象的なテーマによって章立てがなされているところだろう。

 

  • 第1章:夢
  • 第2章:アイディア - 考え・概念・思想
  • 第3章:空間
  • 第4章:物
  • 第5章:ルック - 装い・外見
  • 第6章:感情
  • 第7章:行動
  • 第8章:歌

 

 本書では取り上げられる時代も場所も章ごとに行ったり来たりする。これ自体はグローバル・ヒストリーの本としてはたまにある構成だが、本書におけるフェミニストフェミニズムの定義がかなり広いこと…訳者あとがきでも指摘されている通り、著者はこれらを定義すること自体に消極的であるから意図的に定義を曖昧にしているようだが…も相まって、正直に言うと「とっ散らかっている」という感じは強い。

 表紙の画像(1982年にアフガニスタンフェミニストのミーナ・ケシュワール・カマルが演説している写真)から想像が付くようにイスラム諸国のフェミニストフェミニズム運動が取り上げられているほか、明治時代の岸田俊子(中島湘煙)や昭和時代の田中美津など日本のフェミニストが詳しく取り上げられる箇所もあり、たしかになかなかグローバルな内容になっている(田中美津が山岳ベース事件に関して「永田洋子はあたしだ」と連帯を示したことや1974年の『モナ・リザ』スプレー事件なども取り上げられている)。また、本書では第二章を除けばフェミニズムの理論についてはあまり取り上げられていないが、メアリ・ウルストンクラフトやシャーロット・パーキンス・ギルマンからメアリー・デイリーやシュラミス・ファイアストーンにサラ・アーメッドなど、過去から現代の諸々の(西洋の)フェミニズム思想家たちの考えは断片的に紹介されている。そして人種差別や植民地主義女性差別との交差(インターセクショナリティ)やレズビアンフェミニズムトランスジェンダーといったトピックも含まれており、全体的には2020年の本(原著)らしいインクルーシブな内容となっている。

 訳者あとがきで解説されている通り、書名や章名が複数形になっているところにも、フェミニストフェミニズムの多様さや複雑さや幅の広さをできるだけ丸ごと伝えたい、という著者の意図が込められているのだろう*1

 

…ある地域、ある時代に育まれたフェミニズムと、別の地域や時代に芽生えたフェミニズムとの関係性は、多様で複雑である。共鳴するところもあれば、軋轢を起こすこともある。文脈次第で達成すべきミッションも異なり、それが互いに矛盾することもありうる。フェミニズムが抱える問題意識も議題も多様、だからフェミニズム、なのである。

 

(p.388)

 

 しかし、複雑さや多様さをそのまま伝えるというのは、裏を返せば知識や情報を体系的に整理するのを放棄するということでもある。本書を読んでいる間は「こんなことがあったんだな」とか「こんな人がいたんだな」ということが知れるが、読み終わった後には「いろんなことがあっていろんな人がいたんだな」という印象以上のものは残らなかった。

 また、定義を広く曖昧にして、世界の各地域や各時代の人々や運動をフェミニストフェミニズム運動という言葉で括って紹介することも、歴史の本としてはやはり無理があるように思える。イギリス近現代史が専門であるらしい著者が本書のような構成の本を書いた背景には、最近ではアメリカやヨーロッパを中心にしたり軸にしたりした歴史叙述をするだけでもフェミニストを含む左派から批判される対象になってしまうから「周辺」の国々も取り上げて同じ傘の下に入れておいた、という面もあるかもしれない。

 …とはいえ、読んだ後の感想が「いろんなことがあったんだな」で済んでしまうのは、わたしが男性でかつフェミニストでもないというところも影響しているだろう。わたしは多くの出来事や人物(やそれ以上に思想や理論)に興味や関心を抱いており、それらについての知識を(できれば体系的かつ芯を食った感じに)得たいと思っていて、それらの興味や関心の対象にフェミニズム運動やフェミニスト(そしてフェミニズム理論やフェミニズム哲学)が含まれている、というだけである。

 なので本書はわたしの期待にはあまり応えられなかったが、フェミニストの読者や多くの女性の読者にとっては、世界の各地域・各時代に自分と同じような問題に直面して戦っている女性がいたということや自分と似たようなことを考えていたり自分にも通じるような気持ちや感情を抱いていたりした女性がいるということを知れるというだけでも、本書にはエンパワメント的な効能があるかもしれない。また、本書がフェミニズムの多様さや複雑さを紹介しつつも、それでもフェミニムズという複数形によってまとめていることには、フェミニズムの「矛盾」や「分裂」をあげつらう人たちに対する反論や拒否という側面もあるかもしれないし、フェミニズムの一部の側面は受け入れられないけれど別の側面については共感している人がフェミニズムを肯定したりフェミニストと自称したりしやすくなる、といった効能もあるかもしれない。

 

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 先日に紹介した『はじめてのフェミニズム』も、歴史や人物を紹介する本ではなく思想や理論を紹介する本であるという違いはあるが、フェミニズムの多様さや複雑さを読者に伝えること、だからといって対立や分裂を強調するのではなく多様さや複雑さのなかにも共通する芯があるという点も読者に伝えることを重視しているという点では、『フェミニズムズ』と共通している。フェミニストである著者たちが入門書や一般書を通じて読者にとくに伝えたいのは、そういうことなのだろう。

 なお、『はじめてのフェミニズム』の記事に関してはタイトルが嫌味っぽくなったり後半部分では批判的なことも書いたりしたが(この批判自体は妥当だといまでも思っているけれど)、その後にTwitterミソジニー色が強いアカウントが『はじめてのフェミニズム』に対してかなり粘着的な(そして的外れな感が強い)批判をし続けているのを目にしてイヤな気持ちになったし、人のフリ見て我がフリ直す的な感じで反省してしまった。読書メーターなどに掲載されている感想を見ても、多くの人にとって『はじめてのフェミニズム』は入門書として充分に優れた役割を担えるように思われるし、そんなに悪い本ではない。

 

 近頃は思うところもあってフェミニズムの勉強を何度かぶりに再開しており*2、その一環としてfont-daの過去のブログ記事もいくつか読んでいるのだけれど、そのなかでも以下の文章には考えさせられるところがあった。

 

ネット上で一部のフェミニストが「ツイフェミ」「ネットフェミ」「ミサンドリスト」などと呼ばれて批判されている。私はかれらとほとんど思想的に接点はなく、主張も重なるところはない。だが、かれらがフェミニストを名乗る限り、自分と切り離すつもりはない。かれらもまた、私と同じフェミニストである。

そのことは、私がかれらを批判しないことを意味しない。私はトランスフォビア、セックスワーカー差別に反対するし、表現規制には慎重な態度を取る。必要な場合は、かれらを批判する。ただし、私の批判はフェミニストとして、フェミニストに向けて行うものである。私は、被差別の当事者以外が、フェミニストの肩書を引き受けずに、フェミニズム批判する場合、それに同調しない。なぜなら、フェミニストとして社会を変えていく意欲のない者の「批判のための批判」には私は関心がない。私は「フェミニズムをよくする」ためではなく、「被差別者の告発に連帯する」ために、フェミニズムを批判する。

 

ネット上のフェミニズムについて - キリンが逆立ちしたピアス(ブログ版)

 

 わたしがこのブログや著作、Web記事などで書いている文章…フェミニズムジェンダー論に関する文章や、その他の思想やイデオロギーや学問などに関する文章…のうちの多くも、かなりの数の人からは「批判のための批判」または単なる非難や当てこすりのように思われているかもしれないし、一部の文章については自分で振り返っても「批判のための批判」になっているなと思うことはある。そういう自分のことを棚上げして書くと、ネット上でのフェミニズム批判は以前にも増して「批判のための批判」や非難や当てこすりに終始している傾向が強くなっているように思えるし、そのようなフェミニズム批判をしている人たちの大半からは社会を良い方向に変えていこうとする意欲も感じられない。まあだからもって他山の石として、フェミニズム(やその他の思想やイデオロギーや学問など)を批判する際にも、社会を良い方向に変えるという意欲は忘れないようにしたいものだと思った。

*1:過去のフェミニストフェミニズム運動に存在した「問題」…人種差別や帝国主義などへの接近、レズビアントランスジェンダーの排除など…についても触れているという点では、『むずかしい女性が変えてきた』に通じるところもある(トランスジェンダー問題に関する著者たちの姿勢は異なるようだけど)。

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*2:なので『不正義とは何か』とか買ってください。

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読書メモ:『なぜ美を気にかけるのか :感性的生活からの哲学入門』&『近代美学入門』

 

 

『なぜ美を気にかけるのか』は美学の入門書でもあるが、そのなかでも「美的価値」や「美的感性」「美的生活」の問題を扱っており、「優れた芸術の定義とは何か」といったトピックではなくタイトル通り「なぜ美を気にかけるのか」という問題……なぜわたしたちは服や髪型のお洒落さ/ダサさや食事の美味しさ/不味さを気にしたり、聴く音楽や視聴する動画について自分なりの選択を行おうとしたりしているか、といったトピックを扱っている。ここでいう「美」はかなり広い範囲の物事を指していること……「 "美"といえるのは素晴らしい芸術のみである」といったエリート主義を排して、どんな人でも日常的に様々なタイミングで様々な領域の「美」を気にかけている、というスタンスで各人が論じていることがポイントだ。

 具体的には、イントロダクションのあとに、3人の論者が三者三様の主張をしている。ベンス・ナナイは「わたしたちは美的判断よりも美的経験のほうを重要視している」という議論を展開したのちに「美的経験が大切のは、その経験は各人が自分自身で達成したものであり、自分で何かを成し遂げたという感覚を与えるからである」という「達成説」を主張する。ニック・リグルは、美的価値はわたしたちの個性とか自由とかに関わるということを指摘しつつ、最終的には「共同体」にとって美的価値がもたらす物事を重要視する主張を行う。ドミニク・マカイヴァー・ロペスは、わたしたちは「違い」を賛美するという前提に基づいて、美的コミットメントはわたしたちを未知なるものに向かわせることで人生を向上させるという「冒険説」を主張したり「多様性」を重視した議論を行ったりしている。

 本書のいいところは、「芸術」などのハイカルチャーではなくどんな人の生活にも存在するような経験や行為……服装や髪型、食事に自然鑑賞など……について議論しているために、ほとんどの読者にとって「自分ごと」として読める内容になっていところだ。たとえば、彫刻芸術の良し悪しについての議論をされたとしてもわたしは彫刻芸術に詳しくもないし関心もないから、三者の議論について妥当かどうかの判断をすることができない。しかし、本書の議論は、たとえば「美味しいものを食べる」「自然美を鑑賞する」ということに関するわたしの経験や意識やスタンスや記憶と照らせ合わせながらピンとくるかどうか確かめることができるので、芸術や美学の素人であるわたし(そして他の読者たち全般)にも妥当であるかどうかの判断ができるようになっている。

 結果的には、どの論者の議論についても「たしかにそう言える側面もあるな」とは思えるが「でもそれだけでは説明できないよな」とか「自分の説や主張を押し出すためにいろんな側面を無視しているな」とか思わされた、という感じ。納得度の順番はナナイ→ロペス→ニグル。また、最初に登場するナナイの議論は文章や構成が洗練されていて内容を理解しやすかったが、ニグルの文章や議論はまあまあで、ロペスの文章や議論はやや理解しづらかった。

 ちなみに、この本を読んでいるあいだわたしは一人旅をしており、ひとりで旅行先の美味しい食事やお酒を味わったり自然美を鑑賞するなどの「美的経験」をしていた。この経験について家族にLINEで伝えることはしたが、SNSでシェアするといったことは行っていないし、基本的に「美味しいな」「綺麗だな」とわたしの胸の内で完結する経験であったが、それでも普段の東京における食事や自然鑑賞よりも鮮明で優れている経験であった。この体験に照らし合わせると、美的経験の「社会的側面」や「協働性」「他者との関係」といったポイントを重要視しているニグルの議論(とおそらくロペスの議論)はかなりズレているように思える。そりゃ美学者たちは美的経験や美的判断についてお仲間と語り合ったり美的な物事に関する共同事業に関わったりした経験が多いだろうから美の社会性や協働性を強く意識する機会が多いだろうけれど、一般庶民にとってはそんなことは稀なのであって(ネットばかりしていると忘れがちであるが、マンガやアニメの感想をSNSに投稿する程度の社会性を発揮すること人ですらどちらかというと少数派であることには留意すべきだ)、結局のところ自分たちの経験を特権化することになっていてある種のエリート主義から逃れていないのではないか、と思えてしまった。

 また、ニグルの議論で食事に関する「文化の盗用」を云々しているところはかなりしょーもなく思えたし、文化的アイデンティティエスニシティを必要以上に強調して個々人の経験を蔑ろにしようとするという点で……そして「メシの旨さ」に代表されるようなコンテンツの質の良し悪しよりも規範やコードを重視しているという点で、悪い意味で「アメリカ的」で「ポリコレ的」な議論であるように思えた。ついでにいうと巻末の対談(「ブレイクアウト」)で「西洋中心主義」や「美の神話」について三者が語っているくだりもなんだか言い訳がましく、読んでいて白けてしまった。

 

 

 

 

『近代美学入門』もかなり評判が良い本であるようだし、実際に読みやすいし章の構成も洗練されてはいるのだけれど、わたしとしては全体的な「行儀の良さ」や規範意識が気に触って苦手な類の本だった。

 本著は美学の本としても「思想史」が重視されており、また「私たちには知らず知らずのうちに、近代美学の考え方が刷り込まれているのです」と前提したうえで「無意識のうちに内面化している価値観を客観視して相対化するために、近代美学を学ぶことは非常に重要です」(p.017)とされるのだけれど、この問題設定の時点で、「刷り込み」以前の客観的で普遍的な「美」の存在を主張する議論……たとえば進化心理学に基づいた美学論は多かれ少なかれ蔑ろにされてしまう(もちろん本書のなかでは思想史の文脈で古代ギリシャなどの「客観主義」は紹介されるのだけれど、最初の問題設定の時点で現代に客観主義を主張している人を不利な立場に立たせている、ということだ)*1

 そして、「現代には白人を美の理想とするルッキズムが存在しているので社会規範を無意識に内面化しないように気をつけましょう」とか「芸術家は政治に関わらなくてもいいみたいな風潮があるけれどナチスに協力したレニ・リーフェンシュタールとかの例もあるから美や芸術に関わる人も社会的責任を考えましょうね」とかいった、間違ってはいないけれどもう百万回は聞かされてきたような凡庸な「お説教」がたびたび顔を出すところにうんざりさせられた。先日に同じくちくま(プリマー)新書の『悪口ってなんだろう』を読んだときにも思ったけれど、道徳や規範について知ったり考えたりしたいときには倫理学や政治哲学に基づくガチの議論を読むから、言語哲学や美学の本で道徳の話はしなくてもいいのだ(それか、道徳や規範の話をするなら「お説教」で済まさずに倫理学などを引用しながらガチで論じてほしい)*2。もちろんこれらの本の対象読者はわたしのような人間ではなく、もっと若くて素直な人たちなんだろうけれど、どの本でも同じようなお説教が続くなら彼や彼女だってそろそろうんざりすると思う。あと『シンドラーのリスト』と『ショア』を対比させながら「戦後に生きるわたしたちはもう、これまでの芸術のように世界を美しいと寿ぐことはできません」(p.241)と書いているくだりなどで強く感じたが、本書は「近代美学」を客観視して相対化することはできているかもしれないが、現代の(とくに西洋の人文学界で形成されてきたような)「お約束」の客観視と相対化はぜんぜんできていないように思える。