道徳的動物日記

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読書メモ:『もうひとつの声で 心理学の理論とケアの倫理』

 

 

 

 言わずとしれた、「ケアの倫理」を最初に提唱した元祖的な本。このブログの以前の記事でねだったら購入してもらえましたので読みました*1。また、この本を読むために、批判対象であるローレンス・コールバーグの本も事前に読んでいた*2。その後に忙しくなって読むのが遅れたのでGWをきっかけに読んだけれど……残念ながら、なかなか苦痛な読書であった。

 

 以前にファビエンヌ・ブルジェールの『ケアの倫理-ネオリベラリズムへの反論』を読んだ際には、哲学や倫理学の本にあるまじき「政治性」について、以下のような文句を書いた。

 

そして、わたしが思うに、これらの本がつまらない最大の理由は、哲学の議論であるくせにアイデンティティ・ポリティクスに主張を引きづられていることだ。何が是とされて、何が否とされるかという前提は、本が書かれる前から運動論的なアジェンダによって定められている。著者たちはそれに配慮して帳尻を合わせられる範囲でしか、議論を展開できない。だから、哲学の本や学問的な本に本来ならあるはずの、議論や思考が自由に展開されることで生じる面白さや豊かさや意外さみたいなものが、まったく期待できないのである。

davitrice.hatenadiary.jp

 

『もうひとつの声で』は大学院生だったときに旧版を読んでいたが詳細まで覚えていたわけではなく、ブルジェールやその他のギリガン以後のフェミニスト倫理学の本に比べるともうすこし脱政治的であるというか、あくまで心理学に基づく調査結果や事実を尊重した議論がなされていたというイメージを勝手に抱いていた。…だが、改めて本書を手に取ってみると…本文の前にある「本書を読んでくる皆さまへ」や「一九九三年、読者への書簡」などにとくに顕著なのだが…本書自体がかなりフェミニズムありきであったことに気付かされる。

 

 本書のなかでギリガンが行なっているのはコールバーグと同じく、子どもや学生(または中絶を経験した女性たちなど)への聴き取り調査に基づきながら、人々の意見や考え方の背景にある「道徳の発達段階」を示し出そうとすることだ。

 ただし、コールバーグが普遍的な発達段階を示そうとしていたのに対して、彼の調査対象は全員男性だったことを指摘したうえで、女性には男性と異なる発達段階があることをギリガンは示そうとした。

 ギリガンがとくに問題視したのは、コールバーグの指標では女性の発達は男性に比べて「下位」の段階に留まると示されるのが多いこと、つまりコールバーグの研究は「女性は男性に比べて劣っている」ということを示唆しかねないものであったことだろう。だからこそ、コールバーグの基準は実は普遍的でも中立でもなく男性にとって一方的に有利なものであることを批判したうえで、コールバーグのそれと並び立つ女性特有の発達段階を示さなければならないとギリガンは考えたのである。

 この時点で、本書の議論には黄信号が点灯している。ギリガンやコールバーグが行った聴き取り調査とは、道徳に関する問題やジレンマなどを問われたときに子どもや青年はどう答えるか、道徳に関する物事について子どもたちはどう考えているか、ということに関する経験的なデータを集めるために行われるものだ。それらのデータから一般的な傾向などを抽出してモデル化したものが「道徳の発達段階」であるが、それも「一般的には青少年は道徳に関する考えをこのように発展させていく」という経験的な事柄を示すためのものである。

 ……つまり、「道徳の発達段階」がどのようなものになるかは聞き取り調査の結果に左右されるはずであり、逆に言えば「道徳の発達段階がこんなものであったらいいなあ」と研究者がどれだけ思っていても、聞き取り調査の結果次第では不本意な「道徳の発達段階」を提示しなければならなくなるはずだ。経験的な事柄に関する研究は、研究者の願望よりも事実を優先して、研究者の抱いている目的よりも調査結果のほうにしたがって粛々と行わなければならない……というのはごく基本的なポイントだろう。

 この点については、コールバーグの研究も「普遍的な道徳の存在を示したい」という目的からスタートしたものであるし、以前の記事でも書いたとおり彼が示そうとした「道徳の発達段階」も西洋哲学に影響され過ぎている感じがあってその普遍性には疑問符が付く。コールバーグの研究も、純粋に客観的であったり中立的であったりするとは言い難いだろう。

 ……しかし、『道徳性の発達と道徳教育』と『もうひとつの声で』を読み比べてみると、自分の目的のために調査結果を恣意的に解釈して都合の良い「道徳の発達段階」を描き出そうとする、という傾向はギリガンのほうがさらに強いように思える。

 

『もうひとつの声で』でもとくに有名なのは、2章において、「ハインツのジレンマ」などに関してジェイク(11歳の男の子)とエイミー(11歳の女の子)の回答の違いを対比させながら、男性的な「正義の倫理」と女性的な「ケアの倫理」との違いを示すくだりであるだろう。

 ここでギリガンが言いたいのは「コールバーグの理論ではエイミーの回答はジェイクの回答より劣ったものとされてしまうが、二人は別の発達段階を辿っているに過ぎない」ということだ。

 ……しかし、実際に読んでみればわかるのだが、ハインツのジレンマにせよその他の質問にせよ、エイミーの回答はまわりくどく「ああとも言えるしこうとも言える」の繰り返しであり、ほとんど要領を得ておらず、質問に対して自分の考えをまともに示すことができていない。それに対して、ジェイクはどんな質問に対しても質問のポイントをすぐに理解したうえでハキハキと自分の考えを明瞭に示している。言っちゃ悪いが、コールバーグに限らず大半の人が、ジェイクとエイミーなら前者のほうが優れていて後者のほうが劣っていると判断するだろう*3

 ギリガンは「エイミーの判断には、ケアの倫理(ethic of care)の中核をなす視点がいくつも含まれている」と述べる(p.109)。また、ジェイクが「論争の解決に関しては法に注目」したり「衝突を個人的事情から切り離された権利主張の衝突であると捉え」たりすることについては「勝ち負けの発想が反映されており、勝ち負けには自ずと暴力が生じる可能性が内包される」(p.113)と批判する。しかし、ギリガンはエイミーの回答を好意的に解釈し過ぎであるというか、自分が主張したい「ケアの倫理の中核」とやらを一方的にエイミーの回答に仮託しているようにしか思えない。そして、ジェイクに対する批判も難癖に等しいものだ。……本書のその後の箇所でも、聞き取り調査の内容に関するギリガンの解釈や説明には疑問符が付くところが多い。女子の回答に対する好意的な解釈にせよ、男性の回答に対する否定的な解釈にせよ、「この回答からなんでそんな解釈が生み出せるの?」と思わされてしまうのだ。

 また、ギリガンは自分の解釈を論理や理論によって補強したり解説したりすることをほとんどしてくれないうえに、たまに持ち出される根拠(?)はフロイトをはじめとする精神分析であったりヴァージニア・ウルフなどの女性作者による文学であったりするから、とくに(精神分析や文学がなにかの主張を補強する根拠になるとは見なさない)わたしのような人間にとっては、ギリガンの解釈を支持したり真に受けたりする理由が本書のなかではほとんど与えられないままなのだ。

 精神分析や文学を持ち出してくることを差し引いても、ギリガンの文章自体が悪文であり、論理的ではない。コールバーグが「道徳の発達段階」を六段階に分けて具体的に表現したのに対して、ギリガンの言うところのケア的な道徳がどのような段階で発達していくかは曖昧にしか示されない(いちおう「自己中心的な考え」→「他人に対する自己犠牲的なケアを行う」→「他人をケアする自分のこともケアするようになる」…といった道筋はなんとなく示されているのだが、それを要約してくれることはない)。

 さらに、ギリガンの考える「ケアの倫理」が具体的にどのようなものであるかも曖昧である。「相互依存」とか「つながり」とか、「責任」とか「応答」とか、「傷つきやすさと」か「脆弱性」とか、この分野でおなじみになったキーワードはあちこちに出てくるのだが、それらのキーワードはそれぞれにどのような意味付けや重要性があったりキーワード間にはどのような関係性があったりするのかということが全然わからない。ギリガンが「ケアの倫理」の概要をいつまで経っても示してくれないからだ。……伝統的な哲学を参照しながら自分の考える道徳の理想をはっきりと示していたコールバーグとは、この点でも対照的である。

 

 というわけで、わたしには『もうひとつの声で』が名著とされていたり重要な本だとされていたりする理由がさっぱりわからなくなった。

(1)ギリガンの考える「道徳の発達段階」が具体的にどのようなものであるかよくわからない。

(2)聞き取り調査の内容についてギリガンのように解釈しなければいけない理由が見出せないので、ギリガンの考えるような「道徳の発達段階」の存在を認めなければいけない理由も見出せない。

(3)ギリガンの考える「ケアの倫理」がどのようなものであるかもよくわからない。

 

さらに;

 

(4)ギリガンの考えるような「道徳の発達段階」の存在自体を認めて、その「道徳の発達段階」から「ケアの倫理」と名付けられるなんらかの思想が抽出できることを認めたとしても、それだけでは「ケアの倫理」が重要であることを認める理由にはならないし、わたしたちが「ケアの倫理」を尊重したり「ケアの倫理」に基づいて道徳的な判断を行わなければならなかったりする理由にもならない。

「一般的な人々(または特定の性別の人々)は道徳についてこういった考えを発達させていく」ということが正しいとしても、「〜である」から「〜べき」を導き出す、[いわゆる]自然主義的誤謬を犯さない限り、その考えが正しいとは限らないからだ。コールバーグは倫理学や正義論を参照することで彼の考える道徳の第五段階や第六段階の発想が哲学・倫理学的にも「正しい」ものであることを論じられているが、ギリガンの議論にはそういった正当化も含められていないのである。

 

 単純に言って『もうひとつの声で』でギリガンが行なっている議論は杜撰なものであると思うし、「女性の道徳の発達段階は男性に劣っていないことを示したい」とか「男性的な正義や権利の論理とは異なる女性的な道徳の存在を示したい」という規範的な目的ありきで聞き取り調査の結果という経験的なデータを恣意的に解釈したものであるように思われる。

 本書を読んで同意できたり共感できたりするのも、本書を読む前からギリガンと目的とか問題意識とかを共有できている人だけだろう。……それか、女性のようなマイノリティからの主流派に対する異議申し立てには(その議論の質やレベルに関わらず)耳を傾けなければならないと考える、マジメな人々か*4

 

 とはいえ、否定してばっかりだと本書を読むのにかけた時間がもったいないので(ほしいものリストで買ってくれた人にも申し訳ないし)、あえて本書のなかから良かったところを探したりなんか積極的なことも書いてみるとすると…エイミーやその他の女子・女性について「自信のなさ」や「成功への恐怖」といった特徴が何度か指摘されているところ、また冒頭で「男子たちはゲームの最中に口論がはじまったら口論を最後まで通したうえでゲームを再開するが、女子たちはゲームの最中に口論がはじまったらゲームそのものをおしまいにする」という違いが表現されていることが示唆的だった。

 本書に収められているエイミーやその他の女子・女性たちの回答は、たしかに、ステレオタイプ的な「女性」のそれである。その特徴を素直に描写するなら、ケアがどうこうというよりも、「カドが立つのを避ける」とか「なあなあに済ませる」、「自分の意見を明言するのを避ける」といったところだ。そして、ジェイクがハキハキ・ズケズケとものを言ったり「これが規則なんだからこうするしかない」と断定したりしてしまうところも、ステレオタイプ的な「男性」のそれであるだろう。

 とくに日本の女子や女性は、現代でもエイミー的な回答をする人は多いだろう……日本の場合は男子でもそういう人が多いだろうけど(わたしにもエイミー的なところはある)。他方で、たとえばアメリカの諸々の映画に出てくるヒロインたちは自分に自信を持っていてジェイクのようにはっきりと物事についての意見を言う人が多いだろうし、現実のアメリカの女性たちにもそういう人は増えていると思う。ここにおける女性と男性の違い、または日本とアメリカの違いは、なによりも「自信」や「自己肯定感」の有無であるだろうし、「目立つこと」や「他人と敵対すること」を恐れるか恐れないか、あるいは「リーダーになること」や「リスクをとること」を恐れるか恐れないかの違いでもあるだろう。

 本書の前半では、ジャネット・リーヴァーという社会学者による、「現代の実業的成功の要求に適しているがゆえに、男性モデルのほうがよい」「おとなの生活の現実をかんがみると、もし女子が男性に依存するままに置かれたくなければ、男子のように遊ぶことを学習しなければならないであろう」といった主張が紹介されている(p.70)。ギリガンはリーヴァーの意見を「歪んだ」ものと見なしているようだが、実際のところ、女性が「自立」したり「活躍」したりするためには、自分の意見をはっきり言うとかカドが立つのをおそれないとかリスクをとるとかリーダシップを発揮するとかいった「男性的」なことをできるようにもならなければいけないというのは、80年代当時でも2023年の現代でも歴然としている。

 ……そして、『もうひとつの声で』のなかでは、女性は[当時における]社会状況や社会的な規範、家族や親密にしていた個々の男性が原因で自分に自信や自己肯定感が持てなくなっている、ということがたびたび示されている。すると、ここで必要なのは、女性から自信や自己肯定感を奪わせて受け身で臆病な「女性的」な態度を取ることしかできなくさせている諸々の障壁を取り除いて、女性も男性と同じように市場での競争に参加したり集団内でリーダシップを取れるようにしたり公的な場での活躍を目指したりできるようにすることであるはずだ。このような考え方には「ネオリベフェミニズム」とか「メリトクラシー的発想」とかいった批判が投げかけられることもあるが、実際にはオーソドックスなリベラル・フェミニズムの発想であり、これまでに社会に反映されて続けて現在にも多くの女性が歓迎している考え方である。

 他方で、本書ではジョージア・サッセンという人による「競争を通して獲得した成功のために支払う大きな感情的代償」(p.80)に関する記述も参照されている。この文章を読んで思い出したのが、わたしがよく参照するトマス・ジョイナーの著書『Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success(てっぺんで一人ぼっち:男性の成功の高い代償)』だ*5。たしかに、「男性的」な特徴は市場での競争に勝ったり公的な場で成功したりするうえではプラスになるが、それが本人を幸福にするとは限らない……ジョイナーが指摘するのは男性のセルフケア不足や同性間でのケア不足であるが、ほかにも、たとえば「カドが立つことをおそれない」とか「目立ちたがる」「リーダーシップを取りたがる」といった特徴は、本人に対して不利益をもたらす可能性も高いだろう(友達を無くしたり家族から嫌われたりコミュニティ内での居心地が悪くなったりするなど)。『もうひとつの声で』のなかでは男性の「暴力性」や「敵対的発想」がやたらと強調されており、偏向がかかっていると思うのだが、「男性的な特徴には問題も含まれてる」という程度の意見にはわたしだって同意する。

 ……要するに、なんだってそうであるように、すべてはバランスだ。女性が「女性的」であることを強いられているために自立や成功に向かうモチベーションが奪われているとすれば、それは本人にとって不利益であるし、男性が「男性的」であることを強いられているために他人と一緒に穏やかに過ごせなくなったりコミュニケーションを疎かにしてしまったりするとすれば、それも本人にとって不利益である。女性であろうが男性であろうが、「男性的」な特徴と「女性的」な特徴のどちらも適度に備えられるようになったほうが本人が幸せになる。だから、可能であるなら、現在の社会とかの問題を改善していき、そういった状況を実現すべきだ。……これはごくオーソドックスなジェンダー論の意見であるが、正論であることには違いない。

 さらに、個人レベルではなく集団レベルや社会レベルで見ても、ルールや原則に基づいてはっきりと成否をつけるジェイクのような「男性的な道徳」と、カドが立つことを回避して事態をなあなあにして済ませるエイミーのような「女性的な道徳」の両方が適度なバランスで必要になる、ということにも同意する。ハインツのジレンマのような深刻な事態に対処する際や、法律や条例に就業規則や社内規定といった社会・集団を維持するための規則を制定する際には「男性的な道徳」の観点が不可欠であるだろうが、日常で起こる些細なルール違反やちょっとしたトラブルなら「女性的な道徳」のほうがうまく解決できる可能性は高いだろう。……これもまたごく当たり前の発想であるが正論であるはずだ。

 というわけで、「ケアの倫理」云々はいっそ無視して、ジェイクとエイミーの回答が対比されているところや聞き取り調査の内容が記されているところを読みつつ虚心坦懐に思考してみれば、『もうひとつの声で』からも得られるところはあるかもしれない。

*1:

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いまThe Cambridge Companion to Liberalism (Cambridge Companions to Philosophy)がとくにほしいです。

*2:

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*3:とはいえ、11歳のころのわたしが同じ回答を聞かれたらエイミーよりもさらにひどい回答をしていたと思うし、ジェイクの回答は11歳と思えないくらいに大人びていて一般的な男子とは隔たりがあるようにも感じる

*4:訳者あとがきでは「1986年当時、第一版の翻訳を書店で見かけてすぐに購入して、ワクワクしながら読了した」と書かれていて、「この本のどこにワクワクする要素があるんだよ」と思ってしまったが、まあ、まだフェミニズムが新鮮だった時代的な問題とかがあるのかもしれない。

 

davitrice.hatenadiary.jp

*5:

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