道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

メモ:死がもたらす危害の「時間的利益相対説」

 ジェフ・マクマーン(Jeff McMhan)が著書『Ethics of Killing(殺すことの倫理学)』で主張している「時間的利益相対説(Time-Relative Interest Account)」についてのメモ。とはいえ、『Ethics of Killing』は現在手元にないので、デビッド・ドゥグラツィア(David Degrazia)による論文に基づいてメモ。

 

philpapers.org

 

 「ある人が死ぬことによってその人にもたらされる危害」「死が当人にとって悪い理由」や「(他の条件が全て等しければ)人間を殺すことが犬を殺すことよりも悪い理由」を説明する方法は様々だが、代表的なものとして、以下の二つが挙げられる。

 一つ目は、「死は、"生き続けていたい"という欲求を奪うから危害である」というもの。犬は人間のようには生や死の概念を持っていないから、"生きたい"という欲求も人間のようには明確には持っていないので、人間にとっての死の危害は犬にとっての死の危害よりも大きい、という説明ができる。しかし、生や死の概念を明確に持たないために"生き続けてたい"という欲求も明確に持たないという点では、人間の乳幼児も一緒である。だが、"生き続けていたい"という欲求を持たないとしても、人間の乳幼児にとって死は危害であるように思われる。「"生き続けていたい"という欲求を奪うから悪である」という説明によれば、犬や乳幼児を(苦痛を与えることなく)殺すことは何も悪くないということになってしまうが、やはり、"生き続けていたい"という欲求を持たないとしても、死は犬や乳幼児から何かを奪っているように思われる。

 二つ目は、「死は、未来に残っていたはずの生を奪うから危害である」というもの。この説によれば、乳幼児の死が危害であることは十分に説明できる。乳幼児には(通常の場合は)この先何十年にも渡って生き続けるという将来が待っているのだから、死によってその未来が奪われるのは危害である。同じように、10歳や25歳の人間にもまだ何十年分もの未来があり、中年以降にもまだ未来は残り続けているのだから、死によってそれが奪われるのは危害である。しかし、この説の問題点は、「若ければ若いほど、死によって与えられる危害の量が増える(若ければ若いほど未来に残っている人生の年数が増えるから、奪われる年数も増えるので)」ということになることだ。25歳の死よりも10歳の死の方が、10歳の死よりも乳幼児の死の方が、乳幼児の死よりも胎児の死の方が危害が大きい、ということになる。だが、25歳の死や10歳の死が本人にとって危害であり悲劇的な出来事であるということを疑う人はほぼいない一方で、胎児や乳幼児の死の危害や悲劇性については意見が分かれる。少なくとも、他の全てが等しければ25歳の死や10歳の死は乳幼児の死よりも危害や悲劇性が大きいし、乳幼児の死は胎児の死よりも危害や悲劇性が大きい、という判断の方がほとんどの人にとって妥当であると思われる。

 また、奪われる死の年数のみで判断すると、平均寿命が数百年の亀が20歳で死ぬことは人間が20歳で死ぬことよりも死の危害が大きいということになるし、80歳の老人が死ぬことよりも1歳の犬が死ぬことの方が死の危害が大きいということになりそうである。だが、これはどうにも妥当に思われない。人間は動物よりも知的能力が高いために、同じ期間の年数で得られる幸福の量や質が動物よりも大きい(だから死によって奪われる幸福も大きくなるので危害も大きくなる)、と論じることはできる。だが、人間が持たない能力によって動物が得られる幸福(たとえば犬は嗅覚が人間よりも鋭いために、人間には嗅げない良い匂いを嗅ぐことで幸福を得ているかもしれない)のことを考慮すれば人間の方がより多くの量の幸福を得ているとは限らない。幸福の質を論じるとしても、人間による一方的な基準という恣意性の問題がつきまとう。

 

 マクマーンの「時間的利益相対説」によると、死がもたらす危害の大きさは、「残っている将来の人生に対して、死ぬ時点の当人が持っている心理的な繋がり」によって変わってくる。死ななかった場合の未来に生きる自分と、死ぬ時点の自分とを結びつける心理的な繋がりが低い場合には、死がもたらす危害は小さくなる。たとえば、将来に対する計画を行わなかったり未来という概念を持たない動物にとっては、死ななかった場合に生き続ける自分というものを死ぬ当人が想像できないので、死によってもたらされる危害は小さい。一方で、ある程度成長して自分の人生というものに対する意識を持つようになった人間は、死ななかった場合に生き続けていた自分の人生というものを想像でき、それに対する心理的な繋がりが強い。心理的な繋がりが強ければ強くなるほど、死ななかった場合の自分の人生に対する"stake"…訳しにくい単語だが、賭け金・関心・利害などの意味を含む単語…が強くなるので、死によってもたらされる危害が大きくなるのである。

 自己意識能力や言語能力が高ければ高くなるほど、死ななかった場合の自分の人生に対する心理的な繋がりも強くなる。これが、人間の死が当人に与える危害が、大半の動物の死が当人に与える危害よりも大きい理由である。また、猿の死が当人に与える危害が亀の死が当人に与える危害よりも(おそらく)大きい理由も、これによって説明できる(自己意識能力は猿の方が亀より高いと思われるので)。また、このことは、人間の生に含まれている幸福は動物の生に含まれている幸福よりも質や量が大きい、ということを意味しないという点も特徴である。

 この「時間的利益相対説」は、10歳や25歳の人間の死が当人にもたらす危害が、乳幼児や胎児の死が当人にもたらす危害よりも大きい理由を説明する。乳幼児や胎児は十分に自己意識能力などを発達させていないので、死ななかった場合に生き続けていた自分の人生というものに対する心理的な繋がりが弱いからである(妊娠初期の胎児に至っては心理的な繋がりはほとんど存在しない)。

 …ドゥグラツィアの論文を読んでいても「死によって奪われる生の年数」という量的な要素が「時間的利益相対説」でも考慮されているのかどうかは、ちょっと分かりにくい。死がもたらす危害は「死によって奪われる生の年数」を「残っている将来の人生に対して、死ぬ時点の当人が持っている心理的な繋がりの強さ」に掛け合わせて求められるということ、たとえば健常な10歳や25歳の人間が「残っている将来の人生に対して、死ぬ時点の当人が持っている心理的な繋がりの強さ」は「1」であるが乳幼児は「0.1」で胎児は「0.001」なので、「死によって奪われる生の年数」が多いとしても死がもたらす危害は乳幼児や胎児にとっては小さくなる、ということだろうか。この論文の後半では、「時間的利益相対説」と同じくマクマーンが行っている主張である「体に埋め込まれた心(emboddied mind)」が取り上げられているが、これもドゥグラツィアの短い説明だけを読んでいてもちょっとよくわからないので、やっぱりマクマーンの本を読み直す必要がありそう。

 

 

The Ethics of Killing: Problems at the Margins of Life (Oxford Ethics Series)

The Ethics of Killing: Problems at the Margins of Life (Oxford Ethics Series)