道徳的動物日記

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「文化相対主義と女子割礼」by ドミニク・ウィルキンソン

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 今回紹介するのは、イギリスの Practical Ethics というサイトに掲載された、倫理学者のドミニク・ウィルキンソン(Dominic Wilkinson)による記事。

 

「文化相対主義と女子割礼」by ドミニク・ウィルキンソン

 

 2014年2月、イギリスの Guardian誌は女子割礼(女性器切除/ female gential mutilation, FGM)を終わらせるためのキャンペーンを開始した*1。 Guardian誌のキャンペーンは、イギリスに暮らすかなりの数の若い女性がイギリスでは違法である女子割礼の慣習を経験しているという証拠に対応したものである*2。世界的に見れば、現在生きている女性のうち1億2500万人以上に何らかの形の女子割礼が行われたことがある*3

 女子割礼は、ある文化では禁止されているが別の文化では許可されているという慣習の古典的な例である。歴史家のヘロドトスは、自分たちの死に関する対照的な慣習を持つ二つの文化について書いている*4古代ギリシャ人たちは死者を火葬していたが、カラティアのインド人たち(Callatian Indians)は病で死んだ父親の死体を食べていた。どちらの文化の人たちも、相手の文化が死者を扱う野蛮なやり方を知った時には戦慄した。 

 上述のインド人とギリシャ人との間におけるような対照的な世界観が存在することは、道徳に関する特定の観点を支持するものだと考えられる場合がある…つまり、文化相対主義である。文化相対主義は、何が正しくて何が間違っているかということについては文化によって様々に違うという点や、物事の基準は時と場所によって様々に違うという点に注目する。そして、普遍的な基準は存在しないのであり、したがって別の文化の慣習を批判することは間違っている、と論じる。文化相対主義によると、女子割礼は正しくもなければ不正でもない。西洋の基準からすれば不正であるが、別の社会の価値観では許可されるものかもしれない。

 文化相対主義に対しては数々の反論が存在する。哲学者のジェームズ・レイチェルズが効果的かつ説得的に論じたように、文化相対主義を支持する基礎的な議論には論理的な欠点がある*5。文化相対主義の結論はその前提から導かれないのだ。更に、相対主義は、ナチスドイツによる反ユダヤ主義を批判することをできなくしてしまうし、社会が時代を通じて道徳的に進歩した(例えば、奴隷制の廃止など)と考える理由も無くしてしまう。それは全く疑わしいことだ。

 しかしながら、女子割礼の議論に関係する、別の種類の文化相対主義も存在している。女子割礼(または、その他の、社会によって多様であって議論を起こす慣習)について議論する時に起こる疑問の一つは、特定の慣習の「文化的な価値」に対して私たちはどれほどの重みを与えるべきか、ということだ。ある文化では、女子割礼は若い女性たちにとって重要な通過儀礼となっている*6。イギリスのキツネ狩りイヌイットによるアザラシ狩り・Metzizah B’Peh(男子割礼の一種で、割礼を行う過程で口を使った吸引を含み、ヘルペスという性病にかかる危険がある)・議会制民主主義に世襲貴族を含むこと、などを支持する議論でも「文化的な価値」が登場する場合がある*7。「文化的な価値」とは、特定の文化は、その文化が長い時代にわたって実行されてきたこと・歴史的な文書や芸術の造形にその文化が含まれていること・その文化は文化的アイデンティティに関連していること、などの理由に基づいた価値を持っている、という考え方だ。私たちが女子割礼やキツネ狩りやMetzizah B’Pehを禁止すれば、何らかの文化的な価値が失われてしまうのである。

 倫理的な議論において、文化的な価値という要素にはどれ程の重要さが与えられるべきだろうか?文化相対主義によれば、私たちは他の要素と同じくらいに文化的な価値にも重きを置かなければならない。女子割礼という慣習がそこの文化にとって重要であるのなら、女子割礼は正当化されることになる。そこの文化が、例えば女性の権利と比べて、伝統に対してどれほどの重みを与えているのかということだけが問題となるのだ。しかし、文化相対主義は間違っているという点については既に言及した。第二に、より説得力があるのは、私たちは文化的な価値に対して"いくらかの"重みを与えるべきだという考え方だ。この考え方では、ある特定の慣習が認められるかどうかはその慣習がそこの文化にとってどれほど重要であるか、ということに依るかもしれない。場合によっては文化的な価値が倫理的な考慮を上回ることもあるし(アザラシ狩りに関するカナダの法律がそうであるように思えるように)、別の場合には上回らない*8。だが、第三の道も存在する。私は、倫理的な議論において文化的な価値には "一切の" 重みを与えるべきではない、と考えている。キツネ狩りや女子割礼やアザラシ狩りや貴族について賛成するか反対するための様々な道徳的理由の重みを合計する際に、文化的な価値の出番は全くないのだ。なぜこのような考え方をしなければならないか?道徳は相対的ではないとしても、文化は相対的である。文化的な価値は場所や時によって変わる。文化的な価値は不変ではないのだ。ある文化に価値があるかないか、どのような価値を与えられるかということは、まったく偶発的である。更に、文化慣習を意図的に変えることは十分に可能である。私たちを祖先と結びつける文化慣習の一部を残しながら、別の文化慣習を否定することは可能である。Sarah Tenoiは、彼女やその他のマサイ族の女性がこれまでの通過儀礼の代わりとなる通過儀礼を新しく発展させたことをガーディアン誌の記事に書いている*9。その新しい通過儀礼はこれまでの伝統的な儀式の要素を全て含んでいるが、性器は切らない。同様に、男の幼児がヘルペスにかかるリスクを排除するように文化的慣習を調整することも可能なのである*10

 文化は変えられるという点を認めても、議論が終わる訳ではない。キツネ狩りや女子割礼や世襲貴族制を認めるための説得力のある理由は他にも存在するかもしれない(私は疑わしいと思っているが)。しかし、特定の慣習の道徳性について考えるとき、文化的な価値は何ら重要ではないのだ。

 

 

 

 

倫理学に答えはあるか―ポスト・ヒューマニズムの視点から―

倫理学に答えはあるか―ポスト・ヒューマニズムの視点から―

 

 

「トロッコ問題:殺すことと死ぬに任せることとの間に道徳的な違いはあるのか?」 by ジュリアン・サバレスキュ

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 Practical Ethicsに掲載された、倫理学者のジュリアン・サバレスキュ(Julian Savulescu)の記事。レクチャーとして口頭で発表した内容の書き下し文?であるようだ。英語圏の倫理学ではいわゆる「トロッコ問題」についてよく研究されているようで、Trolleyology(トロッコ学)というジャンルも出来ているくらいなのだが、それに関係する話題である。

 

「フランシス・カムのトロッコ問題、殺すことと死ぬに任せることとの間に道徳的な違いはあるのか?」 by ジュリアン・サバレスキュ

 

 哲学者のフランシス・カム(Frances Kamm)は、一連の著作で、5人の無実の人間を救うためには1人の無実の人間を殺さなければならない、という条件がある万華鏡のように多彩な状況を検討した。一部の状況では5人を救うために1人を殺すことは認められるが、別の状況では5人を救うために1人を殺すことは認められない、と彼女は論じた…あるいは、彼女の直感はそう反応している。彼女は、認められる殺しと認められない殺しとを区別する、道徳的に関連性のある考慮要素だと彼女が見なしている物事を指摘している。

 殺しが認められないケースの中でも最もわかりやすく、彼女やその他の多くの人たちが明らかな直感を抱くのは、"臓器移植(Transplant)"のケースだ。

"臓器移植"では、臓器に問題を抱えた5人を救うために、医者が1人の無実の患者を殺してその人の臓器を収集する。これはジョン・ハリス(John Harris)の"臓器くじ"の事例でもある*1

 しかし、これはダーティな事例だ。"臓器移植"は多くの直感を招き呼ぶ。例えば…医者は患者を殺すべきではない、臓器に問題がある人たちは年老いているが殺されて臓器を提供する人は若い、臓器に問題のある人たちは自分の病気に何らかの責任があるだろう、この行為はやがてより幅広い殺人が行われることになる滑り坂へと足を踏み出すことだ、この行為は臓器提供者として選ばれる可能性を人々に想起させて恐怖を撒き散らしてしまう、などなど、その他いろいろ。

 "臓器移植"を改良したケースが、"流行病(Epidemic)"である。

 

 流行病。人間を苦しませる、コントロール不可能な流行病を想像してみよう。この流行病は非常に伝染りやすく、やがて全ての人類がこの病気にかかってしまう。この病気にかかった人は意識を失う。6人中5人は意識を回復することもなく数日のうちに死んでしまう。6人中1人には有効な免疫反応が起こる。免疫反応が起こった人たちは数日経つと回復して、その後は正常な生活に復帰する。医者は患者が病気にかかった二日目に検査を行うことができる。二日目にはまだ患者は意識を失っているが、医者は、患者が効果的な抗体反応を起こしているか死ぬ運命にあるかを知ることができる。この病気の治療法はたった一つしか存在しない。免疫反応を起こした6人中1人に対して、その人が病気にかかった二日目…つまり、まだ意識を失っている間に、その人の体から血液を全て採取して抗体を抽出することが医者には可能であるのだ。免疫反応を起こしていない5人を救うのに充分な量の抗体が存在するが、血液を採取された人はその過程で死ぬことになる。抗体を抽入された5人は正常な生活に復帰するし、後の人生でも抗体が流行病から防護してくれる。

 もしあなたが"流行病"の事例に巻き込まれたとすれば、以下の二つの方針のうちどちらを支持するだろうか?第一の方針は"行動しない(Inaction)"であり、何も行動が行われない。世界人口のうち6人に1人が生存する。第二の方針は"抽出(Extraction)"で、1人を殺すが他の5人を救うことになる。誰が抗体の生産者になるか、ということを予測する方法は存在しない。あなたが抗体反応を起こすことのできる6人中1人になるか、抗体反応を起こすことができず抗体血清が無いと死んでしまう6人中5人の内の一人となるかを知ることはできない。

 シンプルに言うと、あなたは自分が生き延びることのできる側になるか治療が無いと死んでしまう側になるかがわからないのだ。あなたが確かに知っているのは、あなたは流行病にかかって意識不明になるということだけだ。あなたは回復するかもしれないし、意識を失っている間に死ぬかもしれない。"行動しない"は、6分の1の確率で生存者になる可能性をあなたに与える。"抽出"ならその確率は6分の5だ。

 帰結主義者にとっては簡単な問題だ。"抽出"は5倍の数の人命を救うことができるのだから、その方針が採用されるべきである。だが、ロールズ式の無知のヴェールの下、自分が免疫適格であるか免疫不全であるかがわからない状況で、あなたはどちらの方針を選ぶだろうか?

 私なら"抽出"を選ぶ。 他の人と同様に私も意識を失うことが決定されているとしても、"抽出"の方針なら6分の5の確率で目が覚めて正常な生活に戻ることができるのだ。この方針はカント主義的な契約論を根拠としてでも採用されるだろう。無知のヴェールの下での合理的な自己利益によって採用されるだけでなく、普遍的な法則として意志されることもできるのだから。

 帰結主義と契約論が収束する。他の道徳理論でも"抽出"が選ばれるだろう、と私は考える。

"流行病"における"抽出"は5人を救うために1人を殺す道徳問題の中でも最もハードなケースであるのだから、"抽出"の方針が認められる(むしろ、"抽出"の方針を採用することが道徳的な義務である)とすれば、少なくとも帰結主義と契約論に基づけば、5人の無実の人間を救うために1人の無実の人間を殺す全てのケースが認められることになるのだ。

 多くの人が持っている直感とは相反しているのにも関わらず、殺すことと放置して死なせることとの間に道徳的な違いは存在しないのである。

 

 

 

太った男を殺しますか? (atプラス叢書11)

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関連記事:

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環境倫理と動物倫理についての論文を雑に紹介

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 昨日に紹介したこの記事に関連して、倫理学者のゲイリー・ヴァーナー(Gary Varner)が The Oxford Handbook of Animal Ethicsに寄稿している記事「環境倫理、狩猟、動物の位置付け(Environmental Ethics, Hunting, and the Place of Animals)」を参考にしながら、環境倫理と動物倫理との関係について軽く紹介したい。私は基本的に環境倫理よりも動物倫理の文献を主に読んできており、今回のブログ記事も前者より後者に対して好意的な紹介になっているし環境倫理に対してフェアであるとは言えないかもしれないが、特に日本で出版されている環境倫理の教科書は動物倫理に対してかなり批判的だったりアンフェアな記述をしているものも多い気がするので、まあカウンターとしてこういう記事があってもいいだろう。

 

 

The Oxford Handbook of Animal Ethics (Oxford Handbooks)

The Oxford Handbook of Animal Ethics (Oxford Handbooks)

 

 

www.oxfordhandbooks.com

 

 

 一口に「環境倫理学」と言っても、"環境"や"自然"と言われるもののうち何がどんな理由で大切であり、何が道徳的な配慮の対象に値したり本質的な(Instrinsic/内在的な)道徳的価値を持つか、ということについては様々な見解がある。ヴァーナーは、環境倫理学の主な立場を5つに大別している。

 

・人間中心主義(Anthropocentrism):人間だけが本質的な価値を持ち、他の動物や植物や生態系は全て人間にとっての道具的価値しか持たない、という考え方。

 

・感覚中心主義(Sentientism):人間を含んだ感覚のある動物だけが本質的な価値を持ち、植物などの感覚を持たない生き物と、生物種や生態系などは感覚のある動物にとっての道具的価値しか持たない。

 

・生命中心的個体主義(Biocentric Individualism):感覚の有無を問わず生き物は動物も植物も本質的価値を持つが、生態系や生物種は道具的価値しか持たない*1

 

・多元的ホーリズム(Holism, pluralistic):個々としての生き物たちと、その生き物たちが集まった生物種や生態系などの両方が、いずれも本質的価値を持つ。

 

・純粋なホーリズム(Holism, pure):生物種や生態系という"全体"のみが価値を持つのであり、人間も他の動物も植物も個々としては本質的価値を持たない。

 

 学問としての環境倫理学アメリカで始まったようなものであるが、そのアメリカの環境倫理学の元祖的な存在であるアルド・レオポルド(Aldo Leopold)はホーリズムを主張していた。ホーリズム環境倫理学の中でもメジャーな立場であり、後の時代の代表的な環境倫理学者であるJ・ベアード・キャリコット(J Baird Callicott)やホームズ・ロールストン3世(Holms Rolston III)やマーク・サゴフ(Mark Sagoff)も多かれ少なかれホーリズム論者であるようだ*2。人間の利益と比べた上での環境や生態系の価値をどれだけ重く見積もってどれだけの強さで主張するかという点では論者によって差があるだろうが、ともかくこの人たちのみんなが生態系とか生物種とか生物多様性といったものに道徳的な価値を見出していて、人間中心主義・感覚中心主義・生命中心的個体主義を批判している。

 

 感覚中心主義的な生命倫理学はいわゆる「動物の権利論」とか「動物倫理学」であるが、それも、ピーター・シンガー(Peter Singer)のような功利主義者たちの代表されるような「動物の福祉(Animal Welfare)」を重視した論と、トム・リーガン(Tom Regan)のようなカント主義者に代表されるような「動物の権利(Animal Rights)」論とに分別できる。

 なお、世間的な意味においては、「動物の福祉/動物の権利」という二分法には「畜産や動物実験などで動物を利用して殺害することは認めるが、その過程における動物の苦しみを減らそうとする立場/畜産や動物実験などを一切認めずに廃止しようとする立場」という風なイメージがある。ヴァーナーは、現在のアメリカの獣医学や農学などの学問のカリキュラムでは、"動物の福祉主義者"たちは"私たち(獣医学者や農業従事者)"として好意的に扱われる一方で、"動物の権利主義者"は"私たち"と対立する危険で非科学的で狂った"彼ら"だとして扱われていることを指摘している。

 だが、少なくとも哲学的な議論における「動物の福祉/動物の権利」論は、どちらも伝統的な倫理学理論に連なる考え方として扱われているし、私たちの社会に共有されている道徳から引き出すことのできる考え方であるとも扱われている。実際のところ、倫理学的な意味での「動物の福祉」も「動物の権利」論も主張の内容は共通しているところが多くて、たとえば「動物の福祉」論者もその大半は畜産という習慣は殆どの場合には倫理的に不当であって撤廃すべきだと主張していたりする。では「動物の福祉/動物の権利」論の主な違いは何かというと、功利主義としての「動物の福祉論」では個々の動物の生命や道徳的地位を絶対的なものとして扱わず、最大多数の最大幸福のために個々の動物の生命や幸福を犠牲にすることを認める場合がある。他方で、「動物の権利」論では功利主義的な計算の元でも犠牲にならない"切り札"としての"権利"を動物に認めている。具体例を挙げれば、動物の福祉論者はごく少数の動物が実験動物として犠牲になれば大多数の人間と動物の生命が助かったり病から解放される、という場合には(実験において不要な苦痛を引き起こさないことを前提として)動物実験を認めるが、動物の権利論者はそれも認めない、といった感じである*3

 

「感覚中心主義者」としての「動物の福祉/動物の権利」論はホーリズム的な環境倫理学とは相性が悪く、ホーリズム論者は人間中心主義者と一緒になって感覚中心主義を批判したりする。ホーリズム論者による感覚中心主義に対する主な批判とは、個々の動物に道徳的地位を認めていたら生態系や生物多様性が守れずに破壊されてしまう、というものだ。マーク・サゴフは、動物倫理の考え方を実践するとなると、人間は捕食動物に傷付けられる被捕食動物を苦しみから救うために自然界に大規模な介入をしなければいけなくなる、と批判した。自然界の全てを人間の管理する農場にしてしまい、肉食動物たちに大豆で作った肉を与えることを是とする考え方が動物倫理なのだ、とサゴフは主張する。自然や生態系の秩序のためには動物が犠牲になることを認めるべきなのだ、とうのがホーリズムを唱えるサゴフの主張である。

 サゴフと同様に、ベアード・キャリコットも動物倫理を強く批判する。シンガーの有名な著作の題名は「動物の解放」であるが、現在人間たちに飼われている家畜を本当に解放するとなると自然界は滅茶苦茶になるし、生物多様性は大いに乱れて、家畜たち自身を含めた多数の生物種が絶滅するであろう、というのがキャリコットの主張である。屠殺を禁止して家畜を飼い続けるとしても家畜は増えすぎて環境に与える負荷が膨大なものになるだろうし、家畜の繁殖を止めさせて徐々に絶滅させることを道徳的な行為だというのならそれはいかにも皮肉である、とキャリコットは動物倫理を批判する。動物の道徳的地位はその動物の属している生物種によって変わる(絶滅危惧種の動物の道徳的地位は高いし、家畜の道徳的地位は低い)、人間は生態系を維持するために自然界への適切な介入を行って絶滅危惧種を守るべきだ、というのがキャリコットやその他のホーリズム論者の主張だ*4

 上述のような議論に対して、キャリコットの主張する未来予想図は個体としての動物の道徳的地位を重視する感覚中心主義者の主張を誤解している、とヴァーナーは批判している。感覚中心主義者たちは「種」としての家畜の存続を気にしているのではなく「個体」としての家畜たちそれぞれの幸福に配慮をするのだから、家畜に苦痛や死をもたらすような行為や政策は本末転倒となるので実行しないのだ。

「感覚中心主義は、捕食動物に傷付けられる被捕食動物を苦しみから救うという行為を実行することを要求するはずだ」という批判に対しては、ピーター・シンガーなどは「自然に対するそのような介入は、(感覚中心主義の)原理からすれば一見すると倫理的な行為に見えても、実行した際にはより多くの危害を生じてしまう可能性が高い。だから、感覚中心主義者であっても、そのような行為は実行しない」という風に反論している。

 

  キャリコットや環境倫理学者たちによる動物倫理に対する批判でも特に主となるのが、動物倫理を認めると動物を殺害する狩猟が行えなくなり、増え過ぎた草食動物の頭数管理や絶滅危惧種を狙う捕食動物の排除なども行えなくなるので、自然保全が行えなくなり生態系が破壊される、というものだ。ヴァーナーも、特にこの論点に対して細かく反論を行なっている。

 ヴァーナーは、狩猟という行為を「セラピー的狩猟(Therapeutic Hunting)」「生存のための狩猟(Subsistence Hunting)」「スポーツ・ハンティング」の三つのカテゴリに大別する。セラピー的狩猟とは、対象となる生物種の個体たちの世代を超えて合計した福祉を守るための狩猟か、生態系の健康や秩序を守るための狩猟のことである(前者と後者を同時に兼ねる場合もある)。「生存のための狩猟」は食料確保など生きるために不可欠な狩猟である。「スポーツ・ハンティング」のカテゴリには、宗教的儀式や文化的慣習などのための狩猟も含まれている。ただし、現実には狩猟という行為も複雑であり、ある場面での狩猟は必ずこの三つのカテゴリの内のいずれか一つに当てはまるという訳ではない。例えば、スポーツとしての狩猟を楽しむハンター達の行為がセラピー的狩猟の役割を兼ねている場合も多い。

 動物倫理は必ずしも狩猟を否定しない、ということがヴァーナーの主張だ。特に、功利主義的な動物倫理がセラピー的狩猟を原理的に否定しないという点は明白だ。例えば、ある地域で鹿が増え過ぎて、その結果として鹿たちの生息地から食料となる草木が壊滅して大量の頭数の鹿たちが飢えに苦しむという状況を、セラピー的狩猟は未然に防ぐ場合がある。自然に介入して動物を殺害することが、結果的にはより多くの動物たちの不幸を減らすことになるのであれば、功利主義や「動物の福祉」論は狩猟を否定しない。ただし、一口に草食動物たちと言っても種によって繁殖能力や食べる量が違うという点、同じ生物種であっても生息している地域によって事情は全く異なるという点など、現実には様々な変数が存在しており、最終的に動物たちの不幸を増やすことになるか減らすことになるかを判断するのも非常に複雑で難しい。

 他方で、「動物の権利」論を主張するトム・リーガンはそもそも反功利主義的な議論を行っており、動物たち全体の幸福を結果的に増やすか否かを問わず、動物の殺害を否定する。なので、リーガンの議論ではセラピー的な狩猟も否定されることになる。

 生物多様性を守ったり絶滅危惧種を守るための狩猟も、その行為が長期的な観点から見て人間と動物たちを含めた全体の幸福の量を増やすのなら、功利主義からは認められる。ただし、生物多様性絶滅危惧種そのものに本質的な価値はない、という点は変わらない。

 

 環境倫理学者は物事の「本質的な価値」についての直感主義的な見方を採用することが多いが、倫理学の議論において道徳的な直感にアピールするのは不適切だ、というのもヴァーナーの主張である。また、ホーリズムこそが適切な環境倫理学であると主張する環境倫理学者の多くは、「自然保全にとって重要な物事」と「道徳的な観点からして最終的に重要な物事」とを混同している場合が多い、というのがヴァーナーの見方だ。

 

 

 以上、ヴァーナーの議論をかなり大雑把にまとめてしまった。尚、ヴァーナーは他にも『動物の権利活動家は環境主義者になれるか?(Can Animal Rights Activists Be Environmentalists?)』という論文を発表しており、同じ題名の章が含まれた単著も出版している。

 最近では、動物園反対論で有名なデール・ジェイミソン(Dale Jamieson)がCambridge Applied Ethicsシリーズで環境倫理学の入門書を担当していたりと、環境倫理学内における動物倫理学の扱いも良くなっているような気がする。

 

 

In Nature's Interests?: Interests, Animal Rights, and Environmental Ethics (Environmental Ethics and Science Policy Series)

In Nature's Interests?: Interests, Animal Rights, and Environmental Ethics (Environmental Ethics and Science Policy Series)

 

 

 

Ethics and the Environment: An Introduction (Cambridge Applied Ethics)

Ethics and the Environment: An Introduction (Cambridge Applied Ethics)

 

 

 

 

*1:生命中心的個体主義は環境倫理学のなかでも特にマイナーな立場であるらしい

*2:私はだいぶ前にレオポルドの本を読んだりキャリコットとロールストンの論文を読んだくらいで、その内容もあまり覚えていない

*3:ただし、ヴァーナーによると、トム・リーガンは別として、倫理学的な動物の権利論者の多くも"動物を犠牲にする制度の完全な撤廃"を必ずしも求めているようではなく、狩猟なども認めているらしい。

*4:ほかにも、菜食主義は肉食よりも効率が良いために人間の数が増えすぎて結果として自然破壊につながる、などともキャリコットは主張している