トランプ当選とかアイデンティティ・ポリティクスとかに関する適当な備忘録
・ 以下の記事のなかで、会田弘継は以下の発言をしている。
よくトランプ現象は人口が減っていく白人たちの雄叫びというように解釈されますが、それも短絡的な考え方ではないかと私は思っています。たしかに、トランプだけ見ずにサンダースの方も見ながら考えると、まさに白人労働者階級を軸としてマルクス主義的な歴史観で語られるような、大きな時代変革を起こしうる階級闘争が起きている気配はあります。
しかし、そんな単純な話でもない。ここで起きている根源的な変化の一つは経済的なものと文化的なものが絡んできます。まさにリベラルなデモクラシーがずっと普遍的な価値を保ったまま進んできた末に、内在していた問題があらわになってきたわけです。
それはつまり、さまざまなグループごとにアイデンティティーを強調しあう「アイデンティティ・ポリティクス」と呼ばれる現象です。これはリベラルな民主主義の中でしか起こりえません。それが今アメリカ社会を、リベラルデモクラシー自身を、破壊するような形で作用し始めているのです。そうした動きに対して何か大きな反動現象が起きているのではないかというのが私の一つの見立てです。
この文章で私が連想したのが、アメリカの政治思想家のフランシス・フクヤマが今回の大統領選挙について書いた以下の記事 ↓(会田もフクヤマの著作を翻訳しているので、フクヤマから着想を得たのかもしれない)。
US against the world? Trump’s America and the new global order
https://www.ft.com/content/6a43cf54-a75d-11e6-8b69-02899e8bd9d1
前者は大統領選の直後の2016年11月11日に発表された記事、後者は2016年の6月に発表された記事である。内容は重複するところが多い。
フクヤマは、ある時期から左派は経済・階級の問題よりも人種やジェンダーなどの問題を重視したアイデンティティ・ポリティクスに拘泥するようになり、左派や民主党は白人労働者階級が抱える問題をないがしろにするようになったために、トランプ(やバーニー・サンダース)に代表されるようなポピュリズムが台頭した、と分析している。それまでは経済や階級の問題を主な対象としていた左派が1960年代以降はジェンダーや人種の問題に集中するようになった(そのために労働者階級からの支持を失っていった)という議論は、ジョナサン・ハイトも行っている。
・フクヤマは、近年のアメリカの階級問題について注目して警告を発していた学者として、リベラル派のロバート・パットナムとリバタリアン的保守派のチャールズ・マレーの名を挙げている。
パットナムがアメリカの階級問題を分析した著書『Our Kids : American Dream in Crisis』については、私が読みながら Twitterでつぶやいた感想を以前にまとめているので、参考になるかもしれない。
チャールズ・マレーが階級問題を分析した著書『階級「断絶」社会 アメリカ』については翻訳が出ている。私もこの本は昨年に読んでいて、かなり身も蓋もない内容が書いてある分読み物としても面白かった。
また、マレーがトランプ現象について今年の2月に書いたウォールストリートジャーナルの記事は邦訳も公開されている。
マレーは知的エリートな上流階級と労働者層との間の断絶を問題視しており、労働者層に対して冷淡で無関心なエリート層に対して怒っているようだ。
・マレーの記事の以下の箇所についてだが…
夕食会での会話も米国の主流派の人々の集まりで話される会話とは全く違ったものになりそうだ。新上流階級のメンバーは主流派に人気の映画やテレビ番組、音楽にはほとんど興味がない。彼らは食事、健康管理、子どもの育て方、休暇の取り方、読む本、訪れるウェブサイト、ビールの味について独自の文化を持っている。何につけても新上流階級には独自のやり方がある。
この箇所を読んだ時には、村上春樹のエッセイ集『やがて哀しき外国語』を思い出した。『やがて哀しき外国語』は、1990年代初頭に村上がプリンストン大学にて客員研究員をしていた際のアメリカでの生活について書かれたエッセイである。現在は本が手元にないので正確な引用はできないのだが、同僚の大学教員たちがいかに自分たちが文化的で洗練されていて一般大衆とは異なる趣味を持っているかということをお互いに示し合っていたこと、例えばビールは外国産のものじゃなきゃダメでバドワイザーなどのアメリカ製のビールを飲んでいたら馬鹿にされる、といったエピソードが印象的だった。そういえば、最近日本でもにわかに話題になっているポリティカル・コレクトネスという言葉も、私が目にしたのは『やがて哀しき外国語』が最初だったと思う。しかもやや否定的に書かれていたと思う。何しろ現物が手元にないのでアレだが、1990年代前半の時点で「ポリコレ疲れ」についてのエッセイを書けるとは何というかさすがという感じである*1。
日本の大学教員はそこまで大衆から乖離していない…とは思うが、私の学生時代、北米への留学経験がある大学教員の一人は、「海岸沿いのアメリカ人はワインを飲んで(リベラルで外国文化に対して開放的だから)、内陸部のアメリカ人はビールを飲む(保守的で自国文化しか好まないから)」というクリシェをやたらと好んで連発していた。別にクリシェを言うこと自体は構わないが、いかにも内陸部のアメリカ人を馬鹿にするトーンで言っていたので不愉快だった思い出がある。ああいうのがアメリカの大学教員の典型だとすれば嫌われて当たり前だと思う*2。
・先に引用した会田の発言やフクヤマの記事にも含まれている「アイデンティティ・ポリティクス」という言葉については、それこそ「ポリティカル・コレクトネス」と同じくらいに色々な場面で様々に使われている言葉であり、当初は左派や社会運動の立場に含まれているある種の理念を示す言葉であったようだが、最近ではもっぱら批判的な意味合いで使われることが多いようだ*3。
一つの国家の下に暮らす国民同士としてのナショナル・アイデンティの下に国民を統一することを否定して、集団ごとの属性や違いを強調し合って多様性や多文化主義を重視する…ということはアメリカでもヨーロッパでも近年の左派やリベラルのデフォルト的な考えであったのだと思うが、先に引用したハイトの記事や以下の「アイデンティティ・リベラリズムの終焉」という記事など、最近では多文化主義の弊害や問題点が認識されて同化主義を再評価する声も高まっているようである。
http://www.nytimes.com/2016/11/20/opinion/sunday/the-end-of-identity-liberalism.html
10年弱前に私が大学の学部の1年生や2年生だった頃は、アメリカの歴史や文化に関する授業や教科書では、「現在のアメリカでは "人種のるつぼ(同化主義)"という言葉は否定されるようになっていて、多様性を強調した"サラダボウル(多文化主義)"という言葉が使われるようになっている」ということがどこもかしこでも言われたり書かれていたりしたものだが、先のハイトの記事では 「人種のるつぼ」という言葉が肯定的に使われているなど、隔世の感というか、学部生時代の自分なら面食らっていただろうなという感がある。
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Twitterを見ると上記のエマニュエル・トッドのインタビューは一部の左派からの評判がかなり悪くて、特に「トランプ氏が候補になることで、最優先事項が人種や宗教の問題ではなく、経済闘争になったのです。」という箇所が評判悪かったのだが、先のフクヤマやハイトの記事と照らしてみても、トッドの言っていることは特におかしくなさそうである。
左派としては、「人種や宗教の問題」だということにし続けることで人種差別的だったり排外主義的な言動をするトランプが当選したことを「レイシズム」や「排外主義」の表れであるということにして一蹴したいのだろうが、やはり経済や階級の問題は無視できないだろう。優先順位やトレードオフというものは人それぞれであるし、人それぞれの優先順位やトレードオフが反映されるのが民主主義の選挙であるというものなので、一つの軸だけで選挙結果を考えるのはよくないだろう。
・トランプ当選後のアメリカでは人種差別的なヘイトクライムの嵐が巻き起こったという話があったり、むしろトランプ支持者が反トランプ派に攻撃されて暴力を振るわれたという話があったりしたが、こういうのは「一つセンセーショナルな事件が起こったり特定のタイプの事件について社会が注目するようになったら、それに類する事件が起こった際にも立て続けに注目されて報道されるようになるので、実際には例年と変わらない事件発生率であっても、感覚的にはその事件の発生率が増えているように思える」的な現象がありえるし、とはいえ実際にヘイトクライムが増えている可能性も否定できないので、信頼出来る数字や統計が後から出てくるまではどうもこうも言えないと思う。
以下の記事は、トランプ当選後に起こったとされるヘイトクライムについての報告の一部は虚偽だった、というもの。しかし、数件が虚偽だったとしても他の報告は事実であるという可能性は否定されないので、まあやっぱり全体的な数字や統計が出るまでは何ともいえない。
・トランプ当選後のアメリカ社会に関する話題についても個人的に特に不愉快だったのは、以下の記事内における以下の引用箇所。
落胆、失望、不安、憤り、怖れーー。学生ばかりか教員たちもまた、トランプ氏の暴言に傷つけられた自身の価値観や存在を改めて再確認し、同じ価値観の人々との連帯を深めることで、この現実をなんとか乗り越えようとしてきた。
そこで行われる議論はだいたいこのようなものだ。
前提として、その場にいる人は、皆「トランプなんか」を支持するわけがなく、アメリカが大切にしてきた「コア・バリュー」を侵された犠牲者である。
そして「家族や友達を信じられなくなったわ」「自分の全てが否定されたよう」と続く。
実際、イスラム教徒やヒスパニックに対するヘイト・クライムは増加しているとニューヨーク・タイムズは報じている。ハラスメントの被害に遭ったという学生が、怖れを吐露することもある。
しかし、そうして「セラピー」の時間や空間が増えれば増えるほど、選挙で勝利したはずのトランプ支持者や投票者たちは、公の場ではどんどん口を閉ざしていくという現象が起こっている。
誰だって、学校で「差別主義者」などと眉をひそめられたりしたくない。だから、トランプ支持だなんて言い出せない。
選挙から1週間、大学を覆ったこの空気感は、異様だった。「多様性」を求めてきたはずの「リベラル」層の 失望と怒りが、対話を拒み、反対側の意見を圧倒し、封じ込める雰囲気を醸し出しているからだ。
要するに、特定の政治的主張や特定の属性を持つ人にとっての「セラピー」の場に大学が成り果てているという話である。しかし、大学がセラピーの場になることの危険性も、大学が特定の政治的主張に偏向することの本末転倒っぷりも、ジョナサン・ハイト等が指摘し続けている。客観的に真実を追求するべき場であるはずの大学が、特定のイデオロギーに偏向したり、事態の分析や事実の確認などよりも個々人の癒やしを優先する場になっているとすれば、トランプ現象について正確に認識して有効な対策を行うことは望むべくもないだろう。
*1:村上春樹の該当のエッセイはポリティカル・コレクトネスに肯定的な結論である、という指摘がコメントであったので、コメント欄も参照してほしい
*2:書いた後に気が付いたが、該当箇所を引用しているブログがあったのでそこから孫引きして掲載する
でも僕の知っているプリンストン大学の関係者は、みんな毎日『NYタイムズ』を取っている。『トレント・タイムズ』を取っているような人はいないし、僕が取っているというと、あれっというような奇妙な顔をする。そして『NYタイムズ』を取っていないというと、もっと変な顔をする。そしてすぐ話題を変えてしまう。ロ-カル・ペーパーを購読するというのは、プリンストン大学村においてはあまり褒められたことではないらしい。とくに『NYタイムズ』を週末だけ取って、毎日『トレント・タイムズ』を読んでいるなどというのは、ここではかなり不思議な生活態度とみなされる。もっと極端に言えば、姿勢としてコレクト(正しきこと)ではないのだ。
これと同じようなことは”ビール”についても言える。僕が見たところでは、プリンストン大学の関係者はだいたいにおいて輸入ビールを好んで飲むようである。ハイネケンか、ギネスか、ベックか、そのあたりを飲んでおけば、「正しきこと」とみなされる。アメリカン・ビールでもボストンの「サミュエル・アダムス」やらサンフランシスコの「アンカー・スティーム」あたりだと、あまり一般的なブランドではないから許される。ボストンやサンフランシスコといったちょっとシックな土地柄も評価の対象になる。学生はやすくてちょっと通っぽいかんじのするローリング・ロックをよく飲んでいる。話によるとかつては東海岸では、クアーズが比較的手に入りにくくて『コレクト』であったようだが、最近はこっちでも手に入りやすくなったので、ずいぶん評価が落ちたらしい。日本製のビールも存在としてはマイナーだからもちろんコレクトだが、実際に飲んでいる人の数はあまり多くない。いずれにせよそのあたりを飲んでいると、まあ問題はない。
しかしバドワイザー、ミケラブ、ミラー、シュリッツあたりを飲んでいると、やはり怪訝な顔をされることが多いようである。僕も甘ったるいアメリカン・ビールはあまり好まないし、どちらかといえばヨーロッパ系の方が好きなのだけれど、例外的にバド・ドライを好んでよく飲んでいる。もう少しドライでもいいんじゃないかという気はしないでもないが、客観的に言ってけっこうよく出来たビールだし、スシにもまあちゃんとあう。続けて飲んでもあまり飽きないし、なにしろ値段も安い。六本パックで五百円くらいで買える。悪くない。でもある教授と会ったときに世間話のついでに「僕はアメリカン・ビールの中ではバド・ドライが割に好きでよく飲んでいますよ」と言ったら、その人は首を振ってひどく悲しい顔をした。「僕もミルウォーキーの出身だからアメリカのビールを奨めてもらえるのは嬉しいけれど、しかしね・・・・・・」と言って、あとは口を濁してしまった。(中略)
かくかように、新聞からビールの銘柄にいたるまで、ここでは何がコレクトで何がインコレクトかという区分がかなり明確である。
(中略)
でもこの国では(少なくとも東部の有名大学ではということだが)、バドワイザーが好きで、レーガンのファンで、スティーブン・キングは全部読んでいて、客が来るとケニー・ロジャースのレコードをかけるというような先生がいたら(実例がないのであくまで想像するしかないわけだが)たぶんまわりの人間からあまり相手にされないのではないだろうか。
「ブルキニを禁止する?」 by ピーター・シンガー
今回紹介するのは倫理学者のピーター・シンガーが2016年の9月に Project Syndicate に発表した記事。最近はドナルド・トランプ当選に関連してジョナサン・ハイト等による多文化主義について批判的な記事を翻訳していたが、この記事は穏当な多文化主義について考察しているもの。
「ブルキニを禁止する?」 by ピーター・シンガー
ヒトラーがオーストリアを併合した後、私の両親はナチスの追及から逃げるためにオーストラリアにやってきた。彼らが訪れた国は移民を主流派のアングロ-アイリッシュ文化に同化させたがる国だった。両親が電車のなかでドイツ語を喋ると、他の乗客から「ここでは英語を喋るんだ!」と言われたものだ。
だいぶ前からこの種類の同化はオーストラリアの政策から消え去っており、移民が各々の独自な伝統と言語を保持することを推奨する多文化主義という形に代わっている。そして、その多文化主義はあらかた成功しているのだ。ブルキニ…顔は出ているが、頭のてっぺんから足まで身体を覆い隠す水着…は多文化主義の一つの側面だ。ブルキニはシドニーに暮らすイスラム教徒の女性によって発明されたものであり、オーストラリアの夏にとって重要な要素であるビーチでのアクティビティにイスラム教徒の少女たちが学友たちや他の友達と一緒に参加することができるようにするための水着である。
複数のフランスの海岸の町がブルキニを禁止しようとしている理由を理解することは、オーストラリア人にとっては難しい*1。イスラム教の宗教信念に準拠している水着がなければ、少女たちはビーチに行くことを家族から許されないだろう。それは、民族的・宗教的な分断を減少させるのではなく強化することになるのだ。
フランスにおけるブルキニの禁止(その一部は裁判所によって取り消しになった)は、衣装や装飾品に関するフランスの他の規定に続くものである。公立学校に通う学生たちは、人目につくような宗教的シンボルを身に付けることを許されていない。多くの場合、イスラム教徒の女性が被るヘッドカバー(ヒジャブ)、ユダヤ教徒の少年が着用する帽子(ヤムルカ)、キリスト教徒たちが身に付ける大きな十字架などが宗教的シンボルとして解釈される。顔を完全に覆い隠すヴェール…ブルカやニカーブなど…は、公共の場の何処でも着用されることが法律的に認められていない。
フランスには厳格な政教分離の長い歴史があるために、フランスは特別なケースであると思われがちである。しかし、先月のドイツでは、内相のトマス・デメジエールが公共の場でのブルカ着用を禁止することを提案した*2。政府の建物、学校、大学、法廷など、禁止の対象となる場所をフランスよりも拡大させる可能性もデメジエールは示したのだ。彼によるとこれは「統合の問題(an integration issue)」であり、そしてドイツ首相のアンゲラ・メルケルもデメジエールの提案に同意したのだった*3。「私の考えでは、自分を完全にヴェールで覆い隠している女性が統合される可能性はほとんど存在しません」。
つまり、振り子は同化の方へと戻っているのである。鍵となる問題は、振り子をどこまで戻すべきであるか、ということだ。移民を受け入れる国は、移民たちが彼らの文化的・宗教的慣習を全て保持することも認めるべきだろうか?国の核心となる価値観…その国に住む人たちの大半が自分たちの生き方の中心にあると考えている価値観…に、移民たちの慣習が相反しているとしても?
文化的・宗教的な慣習を保持する権利は絶対的なものではない。最低でも、それらの慣習が他人を害するときにはその権利は制限される。例えば、子供たちは教育を受ける必要があり、政府が家庭教育を認めていたとしても、子供たちに教えられなければならない知識と技能に関する一定の標準を家庭教育にも設定する権利を政府は持っている。女性の性的快楽を減らすことを目的とした女性器切除(女子割礼)などの極端なケースでは、移民たちが自分たちの慣習を新しい国でも保持することを認める人はほとんど存在しない。
フランスでは、ビーチでのブルキニ着用を認めることは女性に対する抑圧を暗黙のうちに是認することである、と論じられてきた。頭、腕、脚を覆うことを女性には要求するが男性には同様の要求を行わないことは、一つの差別である。しかし、女性は自分の胸を覆わなければならないという要求は普遍的ではないにせよ広く受け入られている(男性は胸を覆うことを要求されないという点も同様だ)。その要求と、女性は胸よりもさらに多くの範囲で自分の身体を覆わなければならないという…イスラム教を含めた複数の宗教が行っている…要求との間のどこに私たちは線を引くべきなのだろうか?
公立学校で宗教的な服装を禁止すれば統合は最も効率的に行える、ということも疑わしい。少なくとも、民間の宗教的な学校が認められている限り、イスラム教徒やユダヤ教徒は子供たちを民間の学校に通わせる可能性が高くなるだろう。世俗的で統合された社会を私たちが本当に望んでいるとすれば、全ての子供が公立学校に通うことを要求する議論もあってしかるべきだ。しかし、その議論は大半の西洋社会から失われてしまっている。
社会とは、共通の領土境界内で共に暮らしてはいるがそれぞれに分離している個人たちや集団たちの単なる集まり以上の何かであるとすれば、人々が混ざり合って協働することを可能にするためにある程度の統合を私たちが望むことは理に適っている。私たちは文化相対主義を拒否するべきだ…全ての文化的慣習が擁護される訳ではないことは、女性器切除の例だけでも十分に示されるだろう。「あなたたちがここに来ることは歓迎するし、あなたたちが自分たちの文化の多くの側面を保持して実践することも私たちは推奨する。しかし、あなたたちは幾つかの核心的な価値観を受け入れなければならない」と社会が移民たちに伝えることは正当化されるのだ。
ではその核心的な価値とは何であるべきか、ということを決定するのは難しい問題である。最低でも他人を害しないことは含まれるだろうし、人種や性の平等も核心に含まれるべきだろう。しかし、女性たち自身が自分たちの宗教的信念のために自分たちの機会が制限されることを認める場合には、トリッキーな問題になる。彼女たちは抑圧的なイデオロギーの犠牲者かもしれない。だが、人生における女性の役割は男性とは異なるということを少なくとも何らかの形で教える宗教は、イスラム教に限られない。
19世紀の偉大なリベラル思想家であるジョン・スチュアート・ミルは、社会は他人への危害を予防することにだけ刑法を用いるべきであると考えていたが、政府は様々な異なる文化に対して中立的である必要はないとも考えていた。むしろ、人々が誤った信念に対抗して最も良い生き方を見つけることを促すための様々な教育手段と説得手段を社会は備えているのであり、そして社会はその手段を使用するべきだとミルは考えていたのだ。
教育の影響を受けたり異なる生き方を近くから知るのに充分な時間を移民たちに与えれば、移民たちは良い選択を行うはずだ、とミルなら論じたであろう。他の選択肢の正しさについて私たちがあまりにも自信を持っていないということを考えれば、ミルが論じたような道のりは未だに試す価値があるのだ。
関連記事:
*1:
The Battle of the Burkini by Ian Buruma - Project Syndicate
なぜフランス人は「イスラム水着」を嫌うのか | グローバルアイ | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
*2:
ドイツ内相、イスラム教徒女性の「ブルカ」一部禁止を求める 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
*3:訳注:ドイツにおける「統合 intergration」という言葉の使われ方について解説した記事