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道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

「誰が動物の福祉に責任を負っているのか?」 by ロバート・ガーナー

動物倫理 動物愛護運動

www.casj.org.uk

 

 

 今回の記事はイギリスのレスター大学の政治学部の教授であるロバート・ガーナー(Robert Garner)によるもの。ガーナーは以前から動物に関する政治学的な著作を書いており、この分野では有名な人。

 先日の記事と同じく、イギリスの「Centre for Animals and Social Justice」に掲載された記事である。

 

 

「誰が動物の福祉に責任を負っているのか?」 by ロバート・ガーナー

 

 誰が動物の福祉に責任を負っているのか?この質問は、今日の英国議会の下院で問われているものだ。また、2014年の7月に行われた、RSPCA(Royal Socity for the Prevention of Cruelty to Animals, 英国動物虐待防止協会)の創設190周年を記念するイベント(1824年に協会が創設されたのと同じ場所で行われた)でも、同じ質問が問われた。二百周年を前にしたRSPCAの活動の目標や中心はどのようなものであるべきか、ということについて考えるための議論を始めるきっかけとなる質問である。

 この質問は、少なくとも初耳の人にとっては、奇妙な質問のように聞こえるかもしれない。たしかに、私たちのみんなが動物の福祉に責任を負っているのだ、と言うことはできるだろう。しかし、それが満足のいく答えであるとは私には思えない。単純化され過ぎていて誤解を招く答えであるし、それどころか意図せずに動物の福祉に危害を与えてしまう答えでもある、と私は考えている。

 私の考えを説明するために、まず、二つの領域をはっきりと区別しておこう。一つ目の領域とは、個人(individuals)と、個人によって占められる市民社会(civil society)と呼ばれるものの領域だ。市民社会は、多くの場合は国家制度に圧力を与えることを目的として(そうではない場合もあるが)個人が参加する非政府組織によって構成されている。現代では国民国家の境界も穴だらけになっているので、グローバルな市民社会という言葉を使うこともできる。

 二つ目の領域は、国家(state)の領域である。公式的な集合的決定を下すことに責任を負っている諸制度によって構成されている領域であり、その集合的決定に従う義務を市民である私たちは負っている。グローバリーゼーションはほぼ間違いなく国民国家の力を減少させたのであり、かつて一つの国民国家が持っていた力も複数国民国家と国際的組織によって共有されるようになった。国際的組織には、欧州連合(EU)のように恒久的で広範囲な協定が結ばれているものもあれば、特定の問題や限定された範囲の問題に集中して取り組むための一時的な条約が結ばれたものもある。

 以上をふまえたうえで本題の「誰が動物の福祉に責任を負っているのか?」という質問に答えると、個人と市民社会に動物の福祉の責任を負わせることもできるし、国家に責任を負わせることもできる。もちろん、実際にはどちらの領域も責任を負っているのだ。動物を保護することを目的として制定された法律は、法律だけでなく個人も動物に配慮することの価値を理解していなければ、機能することはないだろう。同様に、なんらかの形の法的制裁が存在しなければ、動物に対する虐待は蔓延してしまうだろう。

 付け加えると、動物の福祉とは主に個人の道徳的良心の問題である、と見なすことには危険が存在する。実際に、一部の動物保護運動は個人を対象にキャンペーンを行っており、個人の道徳性に関する議論を行っていると見なすことができる。「ビーガン(完全菜食主義者)になろう!」というよく知られた呼びかけが具体例だ。別の例は、動物福祉に配慮した食品や動物実験が行われていない化粧品を買うことを消費者に促すキャンペーンである。動物の福祉は個人の良心の問題に過ぎないとしたらどうなるか、想像してみよう。個人は、自分自身の道徳的信念に従って動物を好きなように取り扱うことができるようになるだろう。国家は動物の問題には関われなくなる。その対象が動物である限りは個人が自分自身の個人的な道徳信念を自由に実行に移すことが可能である環境を作る、ということだけが国家の仕事となるだろう。人々に干渉して、一つの個人的な道徳信念に過ぎないものを全ての人に押し付ける、ということは国家が行うことではないのだ。

 上述したような道徳についての多元主義的な考えは、私たちが暮らすリベラルな社会にとっては極めて神聖なものである。道徳多元主義を重んじるリベラルな社会では、道徳についての競合し合い互いに矛盾し合う様々な見解が許されていて展開されている。ただし、他人に危害を与えるような道徳的見解は許されず、そのような場合には国家が干渉することになる。私たちが動物をどのように取り扱うかということは個人的道徳の領域に属する問題であると主張する限り、動物の問題がリベラルな道徳多元主義の範囲内に収まってしまうことは避けられない。動物の取り扱いは、人々が従うべき道徳的義務に関する問題ではなく個人の選好の問題に過ぎないと見なされてしまうのだ。

 もちろん、動物のために行われてきた運動のなかでも個人の道徳を対象にした運動がいくつかの望ましい結果を生み出してきたことには疑いがない。現代には過去よりも多くのベジタリアンやビーガンが増えており、その結果として、ベジタリアンやビーガンの消費者にとっては商品の選択肢が増えている。また、工場畜産ではなく放牧されて育てられた動物による畜産品が過去よりも市場に増えている。更に言うと、人々の道徳的見解には避けられない違いがあるということをふまえれば、個人の選択を重視するというリベラルな方法は開明的で礼儀正しい方法のように思える。更に、動物を良く取り扱うことについて人々が積極的になり個人の道徳的選好としても普及したならば、世論を変えることができるかもしれないし、それにより政策決定者たちにも影響を与えることができるかもしれない。

 それでも、動物の取り扱いを個人的な道徳の問題であると見なすことには非常な欠点がある。結局のところ、ある人が自分の生活習慣を改めるかどうかはその人の個人的選択の問題のままであり続け、行動を変えることを国家が個人に強制するのは禁じられている。さらに重要なのは、個人の道徳を強調することは、動物を保護するための措置を実施することから逃れるための言い訳を政策決定者たちに与えるということだ。

 動物が感じている苦しみに道徳的に配慮している人のための選択肢が用意されていることと、動物の福祉を守るための制定法が比較的に不足しているということに関連性があるかどうかは証明できない。だが、膨大な選択肢が存在しているという事実が、動物に苦しみを与えるといういまだに許されている行為を更に口当たり良くして受け入れやすくしていることには疑いがない。動物の福祉を守る法制度が不足していることや現存する法制度の効力が弱いことを国家に対して批判した時にも、動物の福祉は個人の選好の問題だと国家に言われれば、それで済んでしまう。つまり、ビーガンになることや工場畜産ではなく放牧された動物から生産された畜産品を食べることが大多数の人から選択されない限り、国家は動物の福祉のために行動する義務を見出さないのだ。

 結果的には、動物を搾取する行為を私もあなたも止めるかもしれないし、私の道徳的な選択は他人から尊重されるか、少なくとも否定はされずに認めてもらえるかもしれない。私はビーガンかベジタリアンになるかもしれないし、畜産品は放牧された動物から生産されたものしか食べなくなるかもしれない。しかし、大多数の人々は、国による強制がない限りは私たちと同じ選択をしないだろう。動物の福祉が道徳的な選択の問題なら、他の人々は私たちとは反対の選好をする権利を持っている。私もあなたも他人の選好を尊重しなければならないし、誰かと根本的に考えが合わないとしても、その人が自分自身の選好を追求するのを邪魔してはいけないのだ。そして、放牧された動物による畜産品も存在しているが工場畜産で生産された畜産品も存在しているのであり、動物実験が行われていない化粧品も存在しているが動物実験が行われている化粧品も存在しているのだ。

 上述したような事情こそが、動物の福祉とは個人の道徳的良心に委ねれば済む問題ではない理由だ。個人の道徳を対象とした運動を行うことによってのみ動物を保護しようとすることは、動物の問題を政治的な領域から排除してしまい、全ての人に対して強制力のある法規制を成立させる可能性も潰してしまう。個人の道徳を対象にした運動には、意図していないとはいえ、これまでの進歩を無かったことにしてしまう可能性がある。動物の利益を保護する直接的な義務を国家も法制度も見出しておらず、人間に対する危害につながらない限りは動物の虐待に対して国家による行動がとられることがなかった時代へと後戻りしてしまう可能性だ。

 動物の扱いについては社会が集合的な責任を負うべきであり、つまり国家が責任を負うべきなのだ。その理由は、私たちが動物に対して何を行うかということは慈善事業やボランティアの問題ではなく正義の問題であるからだ。私たちが動物に行うことは動物に危害を与える可能性があるから、私たちが行うことは動物にとって問題となるのであり、動物には道徳的地位がある。だからこそ、動物は正義の対象であるべきだ。

 

 

A Theory of Justice for Animals: Animal Rights in a Nonideal World

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