道徳的動物日記

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「私が功利主義者ではない理由」 by ジュリアン・サバレスキュ

 

blog.practicalethics.ox.ac.uk

 

 昨日に引き続き、Practical Ethics からジュリアン・サバレスキュ(Julian Savulescu)の記事を紹介。

 

「私が功利主義者ではない理由」 by ジュリアン・サバレスキュ

 

 

 功利主義は多くの人々に嫌われていて、中傷されていて、誤解されている道徳理論である。

 あのカントも、功利主義とはイギリスの小売商人の道徳でしかないと論じていた(カントは、自分自身が考えた"物自体"の世界に踏み入れるというずっと高尚な野望を抱いていたのだ)。

"功利主義的な"という形容詞は、いまでは"マキャベリ主義的な"のようなネガティブな意味合いを含んでいる。"目的は手段を正当化する"ということや人々を単なる手段として扱うことや人間の尊厳を尊重しないこと、などなどと関連付けられているのだ。

 たとえば、以下の文章における"功利主義者"という言葉のネガティブな使われ方について考えてみよう。

 

「そんなに功利主義者になるなよ(Don't be so utilitarian.)」

 「その考え方はまるで功利主義者みたいね(That is a really utilitarian way to think about it.)」

 

 誰かが功利主義者のように振舞っていると言うことは、その行動に対して軽蔑的なことを言うことであるのだ。

 1700年代にジェレミーベンサムJeremy Bentham)が功利主義を取り入れた時には、それはラディカルで野心的で、そして歓迎された道徳理論であった。功利主義の核心とは人間の平等であった:1人は1人として数えられ、誰もがそれ以上にもそれ以下にも数えられない。それまでは、王子は貧乏人よりも大きな数として数えられていた。だが、ベンサムのような功利主義者は、全ての人々の幸福(well-being)と生命は平等に数えられると主張したのだ。正しい行為とは、公平に配慮したうえで幸福を最大化する行為である。功利主義の基本的な考え方ははっきりしている…倫理における共通通貨とは人間の幸福である、ということだ。私たちのそれぞれにとって重要であるのは、私たちの生活がどうなるか、ということである。道徳とは全ての人々を平等に扱うことであり、即ち、全ての人々の幸福に平等な配慮をすることであるのだ。

 およそ50年前から、全盛期を迎えていた功利主義は新カント主義やフェミニスト倫理・徳倫理によって追い出されていった。だが、10年ほど前から、ジョシュア・グリーン(Joshua Greene)による先駆的な研究に従って功利主義の復活が始まっている。グリーンの研究は、功利主義者は道徳について合理的で熟慮された決断を下している、ということを示唆するものであった*1。人々が功利主義者であるか否かを検証するために、グリーンはフィリッパ・フット(Philippa Foot)が"トロリーのジレンマ"と呼んだ昔ながらのジレンマを用いた。トロリーのジレンマ(トロッコ問題)はそれ自体が小規模な産業となっているほどだ(デイヴィッド・エドモンズ David Edmondsの最近の著書『太った男を殺しますか?』を参照してほしい)*2。グリーン(と、最近研究を行った他の研究者たち)が行った主要なテストによると、あなたが功利主義者であるかどうかは、暴走するトロリーの前に太った男を突き落として線路の先にいる5人の作業員の生命を助けることは正しいとあなたが考えているかどうかで判定できる。

 2014年の11月に発表された論文で、Guy Kahane、Jim Everett、Brian Earp、 Miguel Farias と私は、太った男を突き落とすという決断そのものは必ずしも功利主義的な心理を反映している訳ではなく、むしろサイコパス的な傾向やエゴイスト的な傾向を反映している可能性がある、ということを示唆するデータを示した*3。太った男を突き落とすこととサイコパス傾向との関係は以前にも他の研究者によって報告されていたが、私たちは既存の研究に更に研究結果を付け加えたのだ。また、相関関係は相当に強いとはいえ、太った男を突き落とすべきだと主張する人の全てが高いサイコパス傾向を持っているという訳では勿論ない…それは一つの要素に過ぎない。

 反対に、そしてより重要なことに…トロリーのジレンマより身近で現実的(familiar)な事例では、5人の生命を救うために太った男は突き落とされて殺されるべきだと考える傾向が高い人々であっても、全体にとってのより多くの幸福についての利他的な配慮を他の人より多く示す訳ではないし、遠く離れた他人に対するより大きな危害を予防するために犠牲を払うことについて他の人より意欲的である訳でもない、ということを私たちは発見した。以下は、初期の原稿で行われていた議論から抜粋したものである。

 

近年の研究の大部分では、より多くの数の人々の生命を救うためには一人の生命が犠牲にならなければならない、という架空の道徳ジレンマに焦点が当てられてきた。このような、犠牲に関する不自然な(far-fetched)シナリオは、倫理に関する功利主義的なアプローチと非功利主義的なアプローチとの間の根本的な対立に新しい光を投げかけることができる、と多くの研究者が想定している。

しかしながら、上記のような犠牲に関する(sacrificial)ジレンマは、功利主義的な考慮が他の対立する道徳的観点と衝突することになる様々な文脈の内の一つでしかない。犠牲に関するジレンマにおける"功利主義的な"判断に置いて、より多くの幸福(good)が考慮されている限り…つまり、功利主義の目的とは、分け隔てなく合計した幸福(welfare)の量を最大化することであるのだから…より多くの幸福を考慮する判断や姿勢を他の道徳的な文脈においても明確にすることと、犠牲に関するジレンマにおける功利主義的な判断とは結び付いている筈だと予測される。

この論文で示されている一連の研究は、犠牲に関する古典的なジレンマにおけるいわゆる"功利主義的な"決断と、より多くの幸福についての純粋に公平な配慮との間の関係とを調査することで、上記の予測を直接的に検証したものである。4つの実験を通じて、姿勢・行動・道徳判断に関する幅広い測定と調査を行うことにより、上記の予測が立証されないことを私たちは繰り返し確認した。より多くの数の人を救うために1人を暴力的に犠牲にすることを支持する傾向は、より多くの幸福に対する功利主義的な配慮の模範的な標識とは関連していない(または、むしろ負の相関がある)のだ。その標識には、人類全体への帰属意識、他の国の人を助けるためにチャリティに寄付すること、発展途上国で助けを必要としている子供を助けるという道徳的義務についての判断、動物の苦痛を防ぐこと、未来の世代の人々への危害を予防すること、自分自身・自分の家族・自分の国の利益を全体のより多くの幸福よりも優先しないという公平な道徳アプローチ、などが含まれている。道徳ジレンマにおいて多数のために少数を犠牲にする判断の功利主義的な正当化がはっきりと言明された時でさえも、その判断とこれらの標識との関連性の欠如は持続していた。対照的に、より多くの幸福に対する配慮を示す数々の標識は、(全てではないが)その多くが互いに相関していたのだ。

実際には、既存の研究において"功利主義的"であると示されてきた反応の多くが、サイコパス傾向・合理的エゴイズム・道徳的な罪を甘目に見る態度において主要である特徴・姿勢・道徳判断と強く結び付いているのであり、それは功利主義の倫理の核心であるより大きな幸福への公平な配慮と劇的に反対しているのだ。

 

 私たちが論じているように、功利主義は広範囲に影響を与える包括的な道徳ドクトリンである。実のところ、功利主義は非常に要求が多い。完璧な功利主義者と呼べる存在になれたことのある人は、存在するとしてもごく僅かであろう。功利主義は、全く知らない他人に対して腎臓の片方を提供することを要求する。他人たちの幸福を最大化するために、自分の人生や家族や睡眠時間を可能な限度まで犠牲にすることを要求する。やろうと思えば、多くの人々の人生…あまりにも多くの人々の人生を改善することがあなたには可能であるのだから、功利主義は実に膨大な犠牲を要求する。人々が自分の財産の大部分と片方の腎臓さえも寄付したとしても、功利主義が要求するレベルの犠牲にはまだ達していないのだ。

 そのため、功利主義に対する批判の一つは、功利主義はあまりにも多くを要求するという点に向けられている。

 功利主義の批判者として有名なバーナード・ウィリアムズ(Bernard Williams)は、TVインタビューにて、現代功利主義の父であるR.M.ヘア(原文ではDick Hare)を激昂させたことがある。ウィリアムズはこう質問したのだ。

 

あなたの乗っている飛行機がクラッシュして、自分の子供1人か他人の子供2人のどちらかしか救えないとしたら、あなたはどちらを救います?

 

 功利主義者なら、自分の子供1人よりも2人の他人を救うべきだ。

 私は功利主義者であると思われがちだが、私は功利主義者ではない。他のほとんど全ての人にとってと同じように、私にとっても功利主義はあまりに要求が多い。

 私は"簡単に行えるレスキュー・帰結主義(easy rescue consequentialism)"と自分で呼ぶ基準に従って人生を過ごそうとしている。自分にとっては小さなコストで他人に対して大きな利益を与えられる行為があるなら、その行為は行うべきである、という主義だ。実のところ、現代の最も偉大な功利主義者であるピーター・シンガー(Peter Singer)も、この"簡単に行えるレスキュー・帰結主義"に訴えることで人々の感情を掴んでいるのだ。シンガーの主張の中でも最も有名なのは、池で溺れている小さな子供の例えである。あなたは、自分の靴を濡らすという被害しか受けずに子供の生命を助けることができる。この場合、道徳は子供を救うことを要求する、とシンガーは主張する*4。しかし、これは簡単なレスキューに過ぎない。功利主義は、7人か8人の生命を救うために自分の生命を犠牲にして臓器を提供することをあなたに要求するのだ。

 対照的に、簡単なレスキュー・帰結主義は緩くて便利な道徳ドクトリンである。

 トロリーのジレンマについて妻と議論したことがある。妻は、自分自身がトロリーの前へと身を投げて5人の生命を救うことが正しい行為である、と言った*5

 妻の言ったことはまさしく功利主義者が行うであろう行為であり、サイコパスやエゴイストが行う行為ではない。

 普通の人たちについてはどうだろう? 彼らも、ある範囲までは功利主義的な傾向を備えいていたのだが、多くの場合にその傾向は一貫しなかった。例えば、私たちの研究では、自己犠牲を含んだジレンマも用いられていた(補足資料にて報告されている)。普通の人たちの大半は、(実行するかどうかには関わらず)自分自身を犠牲にするべきであると答えたが、太った男を突き落とすことは間違っていると考えていた。

 トロリーのジレンマの正解とは自分自身を犠牲にすることだと妻が言った時、それはあまりにも要求が大きいと私は反対した。多大であるが一時的な苦痛を経験することで5人を救えるならそうするべきであるし、指を一本失うくらいならいいだろうが、5人を救うために自分の生命そのものを犠牲にする必要はない。それは行うのが難しくて、簡単なレスキューではないのだ。

 妻の返事は私の道徳観を揺らがせるものであった。「だけど、5人の他人の生命のために自分の生命を犠牲にすることが正しいに決まっているじゃないの」。

 結局のところ、道徳とは公平であることを意味するのであれば、正しいこととは功利主義者であることなのだ。私たちはあまりにワガママであり自分が可愛すぎる、というだけのことだ。

 そして、もし道徳とは公平であるのなら、私や他の人たちは正当化するのが困難な直感を持っていることになる。私は5人を救うために1人を犠牲にすることが正しい行為であると論じたことがある*6。だが、簡単なレスキュー・帰結主義は、5人を救うために自分の生命を犠牲にするべきではないと示す。したがって、道徳とは公平であるとすれば、5人のために自分以外の1人を犠牲にすることも間違っていると判断するべきだ。

 他の人たちは、自分自身の生命を犠牲にすることは正しいが太った男を犠牲にすることは間違っていると考えている。繰り返しになるが、もし道徳とは公平であるのなら、犠牲の重さは釣り合うべきだ。自分自身を犠牲にすることと太った男を犠牲にすることは、両方が正しいか両方が間違っているかのどちらかであるべきなのだ。道徳は、道徳ジレンマに巻き込まれているのは誰であるかということには目を向けないのである。

 もう一人の偉大な功利主義思想家であるヘンリー・シジウィック(Henry Sidgwick)は、一見するとジレンマに見えるこの状況の解答を知っている。行為には二つの理由があり、それらの理由は衝突する可能性がある、とシジウィックは論じた。その二つの理由とは、思慮分別(Prudence)と道徳である。思慮分別とは自分にとって何が良いか(自己利益)についてのことであり、道徳とは公平に考慮したうえで全員にとって何が良いかについてのことである。この二つを釣り合わせることができる明白な方法は存在しない、とシジウィックは論じている。

 私の場合では、どうやら私は道徳よりも思慮分別の方により重きを置いているようだ。他方で、他の人たちは…彼らは非・帰結主義的な道徳観を持っているのかもしれないが…道徳の方により重きを置いているようである。

 何にせよ、私は線路の上に立っている5人のために自分自身の生命を犠牲にはしないだろう。しかし、もしかしたら私は自分がなろうと思えればなれる筈の程には道徳的になっていないだけかもしれない。かつてピーター・シンガーが言ったように、道徳は常に簡単であるという訳ではないのだ。あるいは、私たちは道徳が要求する行為をいつもいつも行い損ねているのかもしれない。

 もしかしたら、私が功利主義者ではない理由とは、私が充分に善人でないからというだけのことなのかもしれないのだ。

 

 

 

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*1:訳注:グリーンの研究の詳細に関する記事

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

 

太った男を殺しますか? (atプラス叢書11)

太った男を殺しますか? (atプラス叢書11)

 

 

*3:‘Utilitarian’ judgments in sacrificial moral dilemmas do not reflect impartial concern for the greater good

*4:訳注:池で溺れている子供を救うことが道徳的に求められるなら、飢えのために死にそうになっている外国の子供を同程度の労力で救える場合にもその子供を救うことが道徳的に求められる、子供が目の前にいるか外国にいるかは道徳的には関係ないのだから…という風にシンガーの主張は続く

*5:訳注:実際には、太った男が登場するジレンマ(歩道橋問題)では、ジレンマに答える人はトロリーを止められるほど太っておらず、太った男を突き落とす以外にトロリーを止める手段はない、という設定である

*6:

davitrice.hatenadiary.jp