道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

「トロッコ問題:殺すことと死ぬに任せることとの間に道徳的な違いはあるのか?」 by ジュリアン・サバレスキュ

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 Practical Ethicsに掲載された、倫理学者のジュリアン・サバレスキュ(Julian Savulescu)の記事。レクチャーとして口頭で発表した内容の書き下し文?であるようだ。英語圏の倫理学ではいわゆる「トロッコ問題」についてよく研究されているようで、Trolleyology(トロッコ学)というジャンルも出来ているくらいなのだが、それに関係する話題である。

 

「フランシス・カムのトロッコ問題、殺すことと死ぬに任せることとの間に道徳的な違いはあるのか?」 by ジュリアン・サバレスキュ

 

 哲学者のフランシス・カム(Frances Kamm)は、一連の著作で、5人の無実の人間を救うためには1人の無実の人間を殺さなければならない、という条件がある万華鏡のように多彩な状況を検討した。一部の状況では5人を救うために1人を殺すことは認められるが、別の状況では5人を救うために1人を殺すことは認められない、と彼女は論じた…あるいは、彼女の直感はそう反応している。彼女は、認められる殺しと認められない殺しとを区別する、道徳的に関連性のある考慮要素だと彼女が見なしている物事を指摘している。

 殺しが認められないケースの中でも最もわかりやすく、彼女やその他の多くの人たちが明らかな直感を抱くのは、"臓器移植(Transplant)"のケースだ。

"臓器移植"では、臓器に問題を抱えた5人を救うために、医者が1人の無実の患者を殺してその人の臓器を収集する。これはジョン・ハリス(John Harris)の"臓器くじ"の事例でもある*1

 しかし、これはダーティな事例だ。"臓器移植"は多くの直感を招き呼ぶ。例えば…医者は患者を殺すべきではない、臓器に問題がある人たちは年老いているが殺されて臓器を提供する人は若い、臓器に問題のある人たちは自分の病気に何らかの責任があるだろう、この行為はやがてより幅広い殺人が行われることになる滑り坂へと足を踏み出すことだ、この行為は臓器提供者として選ばれる可能性を人々に想起させて恐怖を撒き散らしてしまう、などなど、その他いろいろ。

 "臓器移植"を改良したケースが、"流行病(Epidemic)"である。

 

 流行病。人間を苦しませる、コントロール不可能な流行病を想像してみよう。この流行病は非常に伝染りやすく、やがて全ての人類がこの病気にかかってしまう。この病気にかかった人は意識を失う。6人中5人は意識を回復することもなく数日のうちに死んでしまう。6人中1人には有効な免疫反応が起こる。免疫反応が起こった人たちは数日経つと回復して、その後は正常な生活に復帰する。医者は患者が病気にかかった二日目に検査を行うことができる。二日目にはまだ患者は意識を失っているが、医者は、患者が効果的な抗体反応を起こしているか死ぬ運命にあるかを知ることができる。この病気の治療法はたった一つしか存在しない。免疫反応を起こした6人中1人に対して、その人が病気にかかった二日目…つまり、まだ意識を失っている間に、その人の体から血液を全て採取して抗体を抽出することが医者には可能であるのだ。免疫反応を起こしていない5人を救うのに充分な量の抗体が存在するが、血液を採取された人はその過程で死ぬことになる。抗体を抽入された5人は正常な生活に復帰するし、後の人生でも抗体が流行病から防護してくれる。

 もしあなたが"流行病"の事例に巻き込まれたとすれば、以下の二つの方針のうちどちらを支持するだろうか?第一の方針は"行動しない(Inaction)"であり、何も行動が行われない。世界人口のうち6人に1人が生存する。第二の方針は"抽出(Extraction)"で、1人を殺すが他の5人を救うことになる。誰が抗体の生産者になるか、ということを予測する方法は存在しない。あなたが抗体反応を起こすことのできる6人中1人になるか、抗体反応を起こすことができず抗体血清が無いと死んでしまう6人中5人の内の一人となるかを知ることはできない。

 シンプルに言うと、あなたは自分が生き延びることのできる側になるか治療が無いと死んでしまう側になるかがわからないのだ。あなたが確かに知っているのは、あなたは流行病にかかって意識不明になるということだけだ。あなたは回復するかもしれないし、意識を失っている間に死ぬかもしれない。"行動しない"は、6分の1の確率で生存者になる可能性をあなたに与える。"抽出"ならその確率は6分の5だ。

 帰結主義者にとっては簡単な問題だ。"抽出"は5倍の数の人命を救うことができるのだから、その方針が採用されるべきである。だが、ロールズ式の無知のヴェールの下、自分が免疫適格であるか免疫不全であるかがわからない状況で、あなたはどちらの方針を選ぶだろうか?

 私なら"抽出"を選ぶ。 他の人と同様に私も意識を失うことが決定されているとしても、"抽出"の方針なら6分の5の確率で目が覚めて正常な生活に戻ることができるのだ。この方針はカント主義的な契約論を根拠としてでも採用されるだろう。無知のヴェールの下での合理的な自己利益によって採用されるだけでなく、普遍的な法則として意志されることもできるのだから。

 帰結主義と契約論が収束する。他の道徳理論でも"抽出"が選ばれるだろう、と私は考える。

"流行病"における"抽出"は5人を救うために1人を殺す道徳問題の中でも最もハードなケースであるのだから、"抽出"の方針が認められる(むしろ、"抽出"の方針を採用することが道徳的な義務である)とすれば、少なくとも帰結主義と契約論に基づけば、5人の無実の人間を救うために1人の無実の人間を殺す全てのケースが認められることになるのだ。

 多くの人が持っている直感とは相反しているのにも関わらず、殺すことと放置して死なせることとの間に道徳的な違いは存在しないのである。

 

 

 

太った男を殺しますか? (atプラス叢書11)

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