道徳的地位やパーソン論に関する議論では「限界事例の議論(Argument from Marginal Cases)」がよく出てくる。
「人間はパーソンであるが動物はパーソンではない」と論じるとき、人間がパーソンである理由として「過去・現在・未来に渡って自分が存在するということを理解できる認識能力を持っていること」なり「言語が使えること」なりを挙げるとすると、人間の中でもそれらの能力を持たない人はパーソンではないということになってしまう。「パーソンであるかどうか」を「道徳的地位を持つかどうか」に置き換えても同じで、「人間だけしか持たない特定の能力Xを持つことが、道徳的地位を持つことの条件である」としてしまえば、動物たちだけでなく特定の能力Xを持たない一部の人間にも道徳的地位がないことになってしまう。限界事例の人間の具体例とは、乳幼児や子供、恒久的な昏睡状態(植物状態)の人々、知的障害や精神病を持つ人々だ(どの年齢の子供まではパーソンでないとか、どの程度以上の知的障害や精神病を持つ人は道徳的地位を持たないかなどは、パーソンであることや道徳的地位を持つことの条件とされている能力によって変わってくる)*1。
限界事例の議論は、「人間はパーソンであるが動物はパーソンではない」という議論に対して矛盾を突きつけるために論じられることもあれば、「ある種の動物は人間と共通する能力Xも持っているのでその動物も人間と同じく道徳的地位を持つ」という主張に対する直観的な違和感を指摘するものとして論じられることもある(能力Xを持たない一部の人間も道徳的地位を持たないことになってしまうことについての違和感)。
イヴリン・プラハー(Evelyn Pluhar)の『Beyond Prejudice: The Moral Significance of Human and Nonhuman Animals(偏見を超えて:人間と人間以外の動物の道徳的重要性)』では「限界事例の議論」が「無条件的(categorical)」「双条件的(biconditional)」の2つのバージョンに分けられている*2*3。プラハーを引用している、ゲイリー・ヴァーナー(Gary Varner)の『Pesonhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-level Utilitarianism(人格、倫理学、動物の認識能力:ヘアの二層功利主義で動物を位置付ける)』を引用して紹介しよう。
プラハーが「無条件的なバージョン」と呼んでいるものは、以下のような議論だ:
1.道徳的に重要な関係のある全ての点が同様である存在たちは、同等の道徳的重要性を持つ
2.道徳的に重要な関係のある全ての点において、限界事例の人間と同様である人間以外の存在がいる
3.限界事例の人間は最大限の道徳的重要性を持つ
4.そのため、道徳的に重要な関係のある全ての点において限界事例の人間と同様である人間以外の存在は、最大限の道徳的重要性を持つ
このバージョンの議論では、私たちは限界事例の人間を"最大限の道徳的重要性を持つ"存在として扱う義務があることが前提となっている。プラハーが「双条件的なバージョン」と呼んでいる議論では、それは前提とはなっていない:
1.道徳的に重要な関係のある全ての点が同様である存在たちは、同等の道徳的重要性を持つ
2.道徳的に重要な関係のある全ての点において、限界事例の人間と同様である人間以外の存在がいる
3.そのため、限界事例の人間が最大限の道徳的重要性を持つ場合にのみ、道徳的に重要な関係のある全ての点において限界事例の人間と同様である人間以外の存在は、最大限の道徳的重要性を持つ
しかし、この第二のバージョンの議論は、限界事例の人間と動物との間に異なる"道徳的重要性"を置かせることは、何らかの道徳的に重要な関係のある相違が限界事例の人間と動物との間に特定されない限りは不可能である、という意見を表している。そして、もしあなたが通常の人間と限界事例の人間の両方に最大限の道徳的重要性を見出そうとするのなら、その場合には多くの動物たちにもあなたは最大限の道徳的重要性を見出さなければならない、ということを伴っているのだ。( varner, p.250-251)
ピーター・シンガーは、『動物の解放』にて、「ホモ・サピエンスという生物種の一員であること」だけではその存在を殺すことは常に不正であるという理由にはならない、と論じている。プラハーはシンガーの議論は「双条件的」なバージョンであると見なしているが、ヴァーナーは、シンガーの議論はもっと微妙なものであると見なしている。一部の限界事例の人々の生は通常の人間の生よりは道徳的重要性が低いが動物たちの生よりは道徳的重要性が高いと論じようとしているのではないか、というのがシンガーの主張に対するヴァーナーの見方だ。彼は、シンガーの議論を以下のようにまとめている。
…個人が生きる権利を持つと認めることを正当化する理由としての以下の意見を保ち続けることは、種差別の罪を犯さずとも可能である、とシンガーが言っていることには留意するべきだ。
1.「自己意識をする能力、未来についての計画を行う能力、意義のある関係を他者と結ぶ能力」を持つことが、生きる権利を基礎付けるものである
2.「または、人間は持っているがネズミは一定以上は持たない、家族や他の人々との絆に訴えることもできるかもしれない」
3.「または、(訳注:限界事例の人間を殺すことが)他の人間にもたらす結果、他の人間にも自分自身の命に関する恐怖が与えられることが、(訳注:限界事例の人間を殺すことと動物を殺すこととの)決定的な違いであると考えることができるかもしれない」
(varner. p252)
…要するに、限界事例の人々の生の道徳的重要性は、直接的な理由(認識能力などがもたらす、本人にとっての生の価値)では動物と同等であるとしても、間接的な理由(限界事例の人間の周りにいる人々がその人に対して抱いている愛着や友情など、限界事例の人間の生きる権利を認めないことが社会に与える影響)のために、限界事例の人々の生を動物の生よりも丁重に扱うことは種差別ではない、というのがシンガーが『動物の解放』で行っている議論である、というのがヴァーナーのまとめだ。
プラハーによると、「最大限の道徳的重要性」という言葉は「生きる権利を含めた基礎的な道徳的権利か、その人を殺すことに対する反対が強く前提されていることか、どちらかの意味を含む(pluhar p.63-64 孫引き)」。だが、「最大限の道徳的重要性」という言葉や「基礎的な権利」という言葉の解釈によっては、現行の一般的な社会ルールにおいても限界事例の人々には最大限の道徳的重要性が認められている訳ではない、とヴァーナーは論じる*4。一般的な社会ルールにおいては、子供や一定以上の知的障害の人々は通常の人間よりもパターナリスティックに取り扱われている。例えば、医療に関する決定を自分自身で行う権利・法廷に立って被告人答弁を行う権利・一人で独立して生きる権利などは、一般の人にとっては「基礎的な権利」であっても限界事例の人々には認められない場合がある。また、QOLが著しく低い生を過ごすであろう重度の障害を持った新生児に対する医療停止や、著しい苦痛に満ちており認識能力も損なわれた生を過ごしている末期患者への医療幇助自殺など、特定の場合における限界事例の人々の殺害(に間接的につながる行為)も、一般的な社会ルールにおいては認められることが多い(認められる程度は国や社会によって違うが)。
とはいえ、食料やその他の用途に用いるために限界事例の人々を育てて殺すことを認める社会ルールは例外なく存在しない。結局のところ、現行の社会ルールでは、限界事例の人々の生と動物の生は異なる道徳的重要性を持つものとして扱われていることは確かである。
以下では、ヴァーナー自身は限界事例の人々についてどのように論じているかをまとめよう。
ヴァーナー自身のパーソン論では、限界事例の人々は「準-パーソン」か「感覚だけの存在」のカテゴリに入る場合がある*5。「しかし、通常の場合は、若い子供たちはやがてパーソンになる。そのことは、子供たちと同程度に認識能力が優れている動物よりも、子供の方をよりパーソンに近く取り扱うことについての正当な理由を与える」(varner, p 180)。恒久的な昏睡状態の人々については、多くの場合には、そもそもその人の昏睡状態が本当に"恒久的"に続くのかどうかということについて不確かさが付きまとうのであり、医療倫理においてはその不確かさを考慮に入れるべきである。知的障害や精神病についても、それらの障害や病の程度というものは連続的なものであること、何らかの利害関係者や団体が病の程度を大袈裟に見積もろうとする可能性、現在では健常者である人もいつ知的障害や精神病を持つことになるかはわからないということから、慎重な予防原則として、重度の知的障害者や精神病者にもパーソンに近い扱いや法的保護を与える十分な理由がある。
重複になるが、先に挙げられた「限界事例の人間の周りにいる人々がその人に対して懐いている愛着や友情」や「社会に対して与える間接的な影響」なども、限界事例の人々を動物よりも丁重に扱う理由として大きい。限界事例の人間の家族は、自分の大切な家族が動物と同じ扱いを受けるということを拒むだろう。また、どんな人にでも自分が限界事例の人間になるという可能性は潜在しているのだから、限界事例の人間の生命を軽んじる政策に対して人々は大いに恐怖を抱くだろう。
…しかし、限界事例の人間の生を重んじる理由として挙げられているこれらの理由は、いずれも「間接的」で「付随的」である。例えば、ある限界事例の人間が自分の家族から愛されなかったら、その人間の生の道徳的重要性が低くなるとすれば、それは非常に不穏に思える。直観的に考えれば、ヴァーナーの議論は受け入れ難い。
だが、ヴァーナーのパーソン論では、認識能力や言語能力の欠如のために限界事例の人間の生の直接的な道徳的重要性が低いことは誤魔化せない。しかし、直観的なレベルのルールを設定するうえでは、限界事例の人間の生をパーソンの生と同等の道徳的重要性を持つ生として見なす十分な理由がある。そして、現実の社会における道徳や法律も、例外があるとはいえ多くの面では限界事例の人間の生をパーソンの生と同等の道徳的重要性を持つ生として見なしている。私たちの多くは既に現行の社会に存在している直観的なレベルのルールを内面化しているのであり、限界事例の人間をパーソンとして取り扱うことの理由を間接的で付随的なものとする批判的な思考に対して直観的な違和感を抱くのは当たり前なのである。それは二層功利主義の理論の内に収まることなのだ。そして、改めて直観的なレベルのルールを設定したりルールの妥当性を検証するための批判的な思考を行う場合には、現在の自分が抱いている直観も棚に上げなければいけない…。
以上がヴァーナーの議論である。私は筋が通った正論であると思うしヴァーナーの議論を受け入れるが、まあ狡い感じや歪んでいる感じも確かにするし、受け入れられない人も多いだろう。
Personhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-Level Utilitarianism
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*1:この記事では、"marginal person"を「限界事例の人間」として訳している。直訳すれば「限界状態にある人間」「限界の人間」であるし、「限界事例の人間」を英語にすれば"person in marginal case"になるだろうが、わかりやすさを優先してこの訳にした。
*2:残念ながら私はこの本を持っていないので確認できないのだが。
Beyond Prejudice: The Moral Significance of Human and Nonhuman Animals
- 作者: Evelyn B. Pluhar
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*3:「道徳的重要性 Moral Significance」という言葉の意味は誤解されがちだが、この記事で解説している。
*4:一般的な社会ルールとは、この記事で論じられている「直観的なレベルのルール」のこと。
*5: