道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

メモ・二層功利主義とはなんぞや

 R・M・ヘアが『道徳的に考えること』にて論じている「二層功利主義」という考え方を、『道徳的に考えること』や他のヘアの著作を読み解きながら書かれたゲイリー・ヴァーナーの著作『Pesonhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-level Utilitarianism(人格、倫理学、動物の認識能力:ヘアの二層功利主義で動物を位置付ける)』を参考にしながら、私なりにまとめてみた。

 

 まず、ヘアは道徳言語の分析というメタ倫理的学的な作業を通じて、正しい道徳判断には「普遍化可能性」「指令性」「優越性」という三つの特性がある、と論じている。

 例えば、「汝の欲するところを他人にもせよ」という戒律はキリスト教のみならず(「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」という消極的な形で)儒教ヒンドゥー教などの様々な文化や宗教に伝わるものであり、「黄金律」と呼ばれるものである*1。ヘアによるとこの黄金律には正しい道徳判断の三つの特徴が全て含まれている。ヴァーナーによると、黄金律をヘア的に解釈すれば厳密には以下のように表現される。

 

ある状況で自分が行おうとしていることは道徳的に正しいと判断するためには、自分が道徳的であると判断した行為を行わなかった場合のその状況の関係者全ての経験を体験すること(live through the experience)よりも、自分が道徳的であると判断した行為を行った場合のその状況の関係者全ての経験を体験することの方を自分が心から望むことが要求される。

(Varner, p.13)

 

 

 上述のように道徳判断を行うことは、功利主義者のように道徳判断を行うことにつながる。関係者全員の立場に立って、それぞれの経験をそれぞれの立場から味わうとすれば、全員分に生じるコストやベネフィットを全てひっくるた上で全員の幸福が最大化するような選択を行うはずだからだ。このようにして、「普遍化可能性」「指令性」「優越性」という特徴を持つ道徳判断を正しく行おうとすればそれは功利主義的な道徳判断になるはずである、だから功利主義が正しい道徳理論である、という風に論じられる。

 

 しかし、幸福を最大化する行為を選択しようと望んでも、現実世界に生きる人間には様々な壁が立ちはだかる。人間は、「超人的な思考力と、超人的な知識を持つ…選択可能な行為の帰結も含めて、その状況のすべての特質を直ちに調べることができる」(ヘアの邦訳, p. 67-68)という存在である「大天使」ではないのだ。人間には、現在の状況や自分の選択がもたらす結果などの状況をすべて把握して理解することはできない。また、人間は不完全であり非合理的な存在であるために、手に入れることができた情報についてもデータ処理能力が不足しているために間違った解釈をすることもあれば、自分にとって都合が良いようにデータの解釈や取捨選択を意識的・無意識的に歪めるこという傾向もあるだろう。

 このような人間の不完全な性質のために、いついかなる場でも「幸福を最大化する」というルールに従って行動することはできないし、事態が緊急で計算するヒマがない場面や自己利益が多大に関わっている場面では、「幸福を最大化する」というルールに従おうとしたせいで結果的には幸福を最大化できない非道徳的な選択をしてしまうこともあるだろう。

 そのために、普段の場におけるルールは、「幸福を最大化する」よりも即座で明白な答えを出せる、わかりやすいルールでなければならない。これが直観的なレベルのルールである。直観的なレベルのルールは「人を殺すな」「人のものを盗むな」「人に嘘をつくな」などの義務論的な風味を持つものとなる。一般的には功利主義は"道徳的権利"という概念を認めないが、直観的なルールとしては「功利主義的な計算に対する切り札」としての「権利」を認めることが、二層功利主義では求められるのだ。

 

直観的思考には、個々の状況で大天使のように考えることができない人のために、これに実用的に近いものをもたらすという機能がある。われわれがもし大天使の宣告に最大限一致するよう保証したいと願うなら、そういう効果を持つ傾向性、動機づけ、直観、あるいは一見自明な原則(どのように呼んでもよい)の一式を、自分と自分が影響を与える人々に植えつけようと努めなければならない。時間も能力もないときに大天使のように考えようとするよりは、このようにしたほうが全体として成功の見込みが高い。しかしながら、この一見自明な原則自体は、批判的思考によって選ばれなければならないーーわれわれ自身の批判的思考でないにしても、われわれがそれをできると信頼している人たちの批判的思考によって選ばれなければならない。(ヘア, p. 71)

 

 直観的なルールは大切であり、私たちはほとんどの場面で直観的なルールに従うべきであるし、直観なルールを内面化したほうがいい。ただし、それはあくまで直観的なルールが批判的思考によって選ばれていること、批判的な思考からみてその直観的なルールが妥当であるという前提の上での話だ。また、「幸福を最大化する」ことや黄金律を実践するためには、直観的なレベルのルールでは対処できないために批判的なレベルに移行して思考することが求められる場合がある。

 

 批判的なレベルに移行して功利主義的な思考を行うべき場合を、ヴァーナーは以下のように挙げている。

 

1. 新しい事例(直観レベルのルールはその新しい事例に対処するようにデザインされていないため、直観レベルのルールが私たちの道標となるところが少ないような事例)

2.直観レベルのルール同士が衝突する場合

3.新しい情報や経験に照らし合わせて、時間をかけて直観的なルールを選択して修正する時

4.ある行為は、ある人が内面化した直観的なルールによって禁止の対象となるが、(a)直観的なルールを侵害することが幸福を最大化することが明白であるように思われ、かつ(b)前述の判断をその人自身が信頼できる時

(Varner, p.15-16)

 

 

 では直観的なルールとは具体的にはどんなものであるかというと、ヴァーナーは直観的なルールを「共通道徳」「個人道徳」「職業倫理」「法律」の4つに分けている(「法律」が直観的なルールであるという考えは、ヘアではなくヴァーナー独自のものであるらしい)。

 

 

共通道徳 Common Morality:ある社会においては、そこに含まれるメンバーたちが基本的に同意するような道徳ルールが存在する。それぞれの社会は環境や技術や経済などに関する状況や背景がそれぞれに違っているから、その違いに応じて共通道徳も社会によって変わるところがある。しかし、文化間の倫理観の違いというものはとかく強調されがちだが、「乳幼児をケアすること」「真実を重んじること」「カニバリズムの禁止」など、かなり多くの共通道徳が複数かほとんどすべての社会や文化に存在していることも重要である(そもそもこれらの共通道徳が存在しないような社会は存続できないから)。

 

個人道徳 Personal Morality:それぞれの人々が個人的に抱く道徳であり、家庭の教育や文化・宗教によって教えられた道徳観を、自分自身の経験や反省を通じて調節や修正をしたものであることが多い。人はそれぞれに気質や能力が違うので、それに合わせて直観レベルのルールを個人ごとに多少調節したほうがよい。「自分はいつ直観レベルに従うべきで、いつ批判レベルに移行するべきか」ということや「どのような道徳的な行為なら自分にとって過剰な負担なく行えて、どのような道徳的な行為は自分にとって負担であったり自分の手には負えないことであるか」といったことも、人それぞれに自分をわきまえながら考えた上で直観レベルのルールを設定したほうがうまくいく。

 

職業倫理 Proffesional Ethics:それぞれの職業は、通常の生活では直面しないような倫理的問題に直面する場合がある。また、直観レベルのルールは基本的には「異常でない、よく直面する事例(normal and commonly encountered case)」に対処するために設定されるものだが、職業倫理は「異常ではないが、稀にしか直面しない事例(normal but uncommonly encountered case)」を想定して設定されるものも含まれる。例えば、現代の兵士の多くは軍人生活の大半を戦場以外の場所で過ごすが、それでも、戦場に行くことが兵士の仕事として含まれている以上は戦場は兵士にとって「異常」な場所ではなく、兵士を教育する際には戦場における職業倫理を直観的なルールとして内面化させることが期待される。

 異なる職業同士の職業倫理が似ている場合が多いことも特徴(仕事上で直面する倫理的問題というものは、業種が違っても似ている場合が多いから)。また、既存の職業倫理には成分化されていないような特殊な状況でも、「この状況と関係ある、成文化されている他の職業倫理を内面化しているなら、この場面ではこうするだろう」ということが期待される場合もある(医者には医者らしさが、警察には警察らしさが求められるということ)。

 

法律 Laws:ヴァーナーによると、法律とは直観レベルの道徳ルールの一部を成文化したものである。ただし、法律が制限する範囲は共通道徳よりも狭くあるべきである。功利主義的な観点からすれば非道徳的な物事であっても、それを法規制の対象とすることによる副作用のほうが大きい場合があるからだ。また、個人の生き方も基本的には法律でどうこうするべきではない(どのような生き方が自分にとって好ましいかは人それぞれに学んでいくものであり、権威によって強制しても良い効果はでない)。「このような道徳的な行為をするべきだ」ということも法律が押し付けるものではなく、共通道徳や私的領域の範疇である。しかし、他者に危害を与えないことなど、司法や警察による規制・強制力を持ってしてでも人に課されるべき根本的で重大な義務も存在する。そして、制裁のための暴力装置というものは警察・司法が独占していることをふまえると、警察や司法が強制するルール(法律)が成文化されて公開されていることは重要である。

 

 繰り返しになるが、上述の4種類のルールはいずれもあくまで直観的なレベルのルールなのであり、批判レベルの思考による精査や修正の対象となるものである。ある社会の共通道徳はある時代には妥当であったかもしれないが、時代の変化や新しく人々が手にした知識・経験などに照らし合わせればもはや幸福を最大化するものでないことが明白であるとすれば、その共通道徳は変わるべきなのだ。同様のことは個人道徳・職業倫理・法律にも当てはまる。ヴァーナーの著作も、動物について現代の私たちが手にしている知識に基づきながら、直観的なルールは動物をどのように扱うように設定されるべきか、ということを批判レベルの思考によって論じているものである。

 ただし、功利主義はルールを変える際のコストも計算する。直観的なレベルのルールをあまりに急速にラディカルにルールを変えることが最大多数の幸福をむしろ減らすとすれば、直観的なレベルのルールを緩やかに変えたりルールを変えないことも考慮される。功利主義は長期的には革新的だが短期的には保守的である、とヴァーナーは論じている。

 

 …ヘアやヴァーナーによる二層功利主義の細かい部分の説明はまだまだあるのだが、とりあえず今日はこんなところで。

 

 

 

道徳的に考えること―レベル・方法・要点

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Personhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-Level Utilitarianism

Personhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-Level Utilitarianism