道徳的動物日記

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読書メモ:反省的均衡と基礎付け主義

 

 

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

 

 

 

 第4章では、道徳的な原則を正当化する方法についての議論がされている。

 シジウィックは、私たちが正しい道徳的原則を推論によって導こうとする際には「明白で正確な言葉を用いること」「注意深い反省によって自明さを確認すること」「複数の原則が矛盾する際には、どちらかが間違っていると考えて見直すこと」「自分の判断が間違っている可能性が示された時には、その可能性を受け止めて、自分の判断を疑うこと」などの条件が必要である、と主張しているらしい。そして、これらの条件を満たして推論している二人の判断が矛盾した場合には、少なくともどちらか一人は間違っていると考えるべきであり、どちらの側が間違っているかということを確認することが必要となる。そして、上記の条件を満たした推論は信頼できる道徳的結論へと適切に私たちを導いてくれるはずだ、というのがシジウィックの主張であるようだ。

 著者らは、道徳的な原則の正当化の方法として「基礎付け主義(Foundationalism)」と「反省的均衡(Reflective equilibrium)」との二つを対比して論じている。

 知識に関する基礎付け主義の代表はデカルトであり、全ての知識は自明で疑いようのないものに基礎付けられている、私たちが現在持っている知識を遡っていけば最終的にはそれ自体が疑いようのない知識に辿り着く、という考え方である(「我思う、ゆえに我有り」)。反省的均衡は「整合説」と呼ばれる考え方であり、ある知識が正しいか否かは他の全ての知識と矛盾なく整合するかどうかによって決まる、という考え方である。反省的均衡を有名にしたのはジョン・ロールズであるが、面倒臭いのでロールズの主張した反省的均衡はどのようなものであるかは以下の引用を参照。

 

ごく通俗的な用法では、反省的均衡は次のような手順で行なわれるとされる。
  • われわれが道徳に関して持つさまざまな直観 (considered judgment 熟慮された判断) から、ある抽象的な道徳原理を導き出す。 (たとえば、「妊娠中絶はかまわない」と 「胎児は人格ではない」という直観から 「人格でない生命を殺すのはかまわない」 という抽象的原理を導きだす)
  • その道徳原理とさまざまな直観を照らし合わせた場合、 その原理によってそれらを整合的に説明できるかを考える。 (「植物人間が人格でないとすれば、 植物人間を殺すのはかまわないか」)
  • 当の道徳原理といくつかの直観が衝突する場合は、 新たな道徳原理を作り出すか、 あるいは衝突する直観が不合理なものであるとして その直観を放棄する。

反省的均衡は、このような仕方で抽象的な道徳原理を作り出す一方で、 直観同士の矛盾をなくし、 整合的な集合となることを目指すものである。 

*1

 

 しかし、直観を重視する反省的均衡の理論は、そもそもの直観が間違っていた場合には全く誤った道徳的原則を生み出し続けてしまう、という批判がR.M.ヘアなどによって行われている*2。反省的均衡は循環的な過程であるために、一見すると熟慮された道徳的判断であると思われるものが導かれたとしても、その道徳的判断が本当に正しいのかどうかは反省的均衡の過程の外側から確かめるしかないのだ。それができなければ反省的均衡は文化や個人によって相対的であり、自己利益などに影響されているかもしれない頼りない道徳的判断しか生み出せないものになってしまう。英語と中国語といった異なる言語はそれぞれの独自のルールによってそれぞれに整合しているという言語における整合説は、ある言語のルールについてその言語の観点の外側から批判する必要というものは存在しないので問題がない。しかし、道徳においては、自分たちとは異なるルールによって整合している倫理観に対しても矛盾している/問題があると批判する必要が出てくるのであり、反省的均衡における相対主義の要素は道徳理論としては問題含みなのである。

 著者らによると、ノーマン・ダニエルス(Norman Daniels)による「広い反省的均衡(Wider Reflective equilibrium)」は上述の問題に対応できる *3。広い反省的均衡は規範的な道徳理論に強い役割を持たせることを認めており、理論や原理によって私たちの直観的な道徳的判断を修正することを(ロールズによる反省的均衡よりも強く)認めているようだ。ただし、著者らによればダニエルスの主張する反省的均衡はもはやロールズの反省的均衡とはほぼ別物である。また、規範的な道徳理論に照らし合わせてみると私たちの直観が全て間違っていた場合には、私たちの直観を全て捨てて規範的な道徳理論に従うべきであるということになるが、そうなるとそもそも反省的均衡を採用する意味がなくなってくる。結局、反省的均衡としての特徴を保つためには、直観にある程度以上の役割を持たせる必要があるかもしれない。だが、広い反省的均衡を突き詰めて様々な道徳理論同士を突き合わせていけば、客観的な道徳的真実が理性によって導き出されるかもしれないのだ。

「基礎付け主義」は「強い基礎付け主義」と「弱い基礎付け主義」とに分けることができる。強い基礎付け主義では、基礎となる道徳原理は訂正の余地もなく自明である。弱い基礎付け主義では、基礎となる道徳原理について"なぜ"そのような原理があるのかという理由を省察することが認められるし、間違いや矛盾などを指摘された場合には自分が基礎であると思っている道徳原理について考え直すことも必要とされる。基礎付け主義はドグマティックであるとして批判/否定されることが多いのだが、必ずしもそうではないというのが著者らの主張である。

 シジウィックの主張は反省的均衡であるか基礎付け主義であるかということは分かりづらく、長らく議論の対象となっていたようだが、そもそも「広い反省的均衡」と「弱い基礎付け主義」との間の実質的な違いはほとんどなく、シジウィックは広い反省的均衡支持者でもあり弱い基礎付け主義者でもある、というのが著者らの結論である。道徳理論にも役割を持たせた広い反省的均衡を行い続けて行けば基礎となる道徳的真実が導き出されるかもしれず、そうすると反省的均衡と基礎付け主義は一致するかもしれないのだ。

 シジウィック自身が「道徳的真実は直観によって認識することができる」という考え方をしているのでややこしいのだが、この場合の道徳的真実はロールズの反省的均衡で導き出されるような道徳的原理のように相対的で主観的なものではなく、客観的なものである。また、「直観によって認識する」という営みも言葉のイメージとは裏腹にかなり理性的な営みであるようだ。

 …まあとにかくシジウィックのみならず著者らも客観的な道徳的真実は存在していると主張する側であり、その立場から、世間では評判の良い反省的均衡を批判しているということであるようだ。T.M.スキャンロンは反省的均衡のことを「唯一擁護できる方法である、反省的均衡の代替案に見えるものがあってもそれは幻想だ」(p.98)と批判しているらしいが、そんなことはないという話。

 

 

 

*1:REFLECTIVE EQUILIBRIUM

*2:ヘアによる批判についてはこの記事の後半を参照。

メモ・功利主義と思考実験、功利主義と直観 - 道徳的動物日記

*3:伊勢田哲治による「広い反照的均衡と多元主義的基礎づけ主義」ではダニエルスの考え方やシンガーの主張などが説明されている…わたしはまだこの論文をちゃんと読めていないが。http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/6834/1/WREと基礎づけ主義.pdf