道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

メモ・功利主義と思考実験、功利主義と直観

功利主義に対してよくある批判が、「ある犯罪によって社会不安が起こり暴動が起こりそうになっており、暴動が起こると確実に何人以上かが死ぬ。政府には犯人を特定して捕まえることができないが、無実とわかっている一人の男を犯人だということにして処刑すれば暴動は未然に防ぐことができる」という状況や「心臓に病気を抱える患者と腎臓に病気を抱える患者が二人おり、彼らは臓器移植を受けないと死んでしまうが、たまたま彼らに移植可能な臓器を持った浮浪者一人が病院に迷い込んできたので、医師がその浮浪者を殺して彼の臓器を二人に移植すれば、二人の生命を助けることができる」といった特殊な状況を仮定して、最大多数の最大幸福という結果が持たされることを重視する功利主義ではこれらの状況では無実の男や浮浪者を殺してより多くの人間の生命を救うという選択を推奨する筈だが、そのような選択は道徳について私たちが抱いている考えや感情からはあまりにもかけ離れている、というものである*1

 

 R・M・ヘアは、私たちが日々の生活で一般的に遭遇するような事例に対処するための日常的・直観的レベルでの道徳判断と、直観的レベルでの道徳判断の妥当性を検証したり直観レベルの道徳判断では対処できないような事例に対処するための批判的な思考レベルという、2つのレベルに道徳を分けている。そして、批判レベルにおいては功利主義に基づいて考えるべきだが、直観レベルにおいては「いついかなる場合でも人を殺してはならない」などの非功利主義的で義務論的な道徳判断を採用した方が良い場合が多い、としている。二層理論功利主義と呼ばれるこの考え方に基付いて、ヘアは思考実験に基づいた功利主義批判に対して反論を行う*2

 

『簡潔に言えば、あなたの論敵が批判的レベルについて話しているのなら、どんな空想的な例でも好きなように持ち出すことができる。しかし、このレベルでは、一般に受け入られている直観に訴えることは許されない。なぜなら、直観を受け入れることができるかどうかを判定することが批判的思考の機能であり、したがって批判的思考の前提として直観に頼るなら循環に陥るからである。』(邦訳 p.197)

 

(浮浪者と臓器移植のケースに関して)

『論敵は今度はこう反論するであろうーー人々が(注:殺人はいけないという)こうした直観や感情を持つことは功利主義の見地からよいことであるとしても、いま考えている事例のように、直感に反する行為が仮定により最善である場合には、「人々はその直観を克服してそれに反する行為をすべきである」という判断もまた功利主義から出てくるではないか、と。そこで、その病院の医師たちが功利主義者であるなら、彼らはそのように直感に反する行為をすべきかどうか考えてみよう。問題は、そうすることが最善の行為にいき当る確率の見積もりにかかっている。…(中略)…この種の道徳的ディレンマにおいて最も合理的な行為(功利主義者にとっての最善の選択)を選ぶ方法としての功利主義は、効用(すなわち選好充足)の期待値を最大にすることを要求するからである。そして、見込み違いをしたなら結果は相当破局的なものになるから、医師たちは見込み違いはないという非常に強い確信を持っていなければならない。

 …(中略)…このような高い確率が数多くのーーもしありうるとしてもーー現実的状況において得られるわけでないことは、十分明らかである。…』(邦訳 p.199-200)

 

『他方、あなたの論敵が論理的に可能ならどんな例でも持ち出す権利があると主張するなら、彼は別種の攻撃にさらされることになる。というのは、その場合彼は直観の射程の外に出たのであり、したがって直観に訴えることはできないからである。批判的思考はもちろんこのような事例に対処することができ、しかも功利主義的な答えを出すはずである。彼がその事例を仕立てあげて、功利主義が「殺人が正しい解決だ」と答える形に持って行ったのなら、それが彼の得た答えなのである。あなたが聞き手に対して言うべきことは、「このような事例は現実には起こりえないので、この答えで全く問題はない」ということである。これから、議論にとって重要な2つの帰結がもたらされる。第一に、このような事例で殺人が正当化されることを認めたからといって、われわれが道徳生活をしなければならない現実の世界で殺人の指令を受け入れる必要は全くない、ということである。第二の帰結は、第一のものを一般化する。すなわち、批判的思考を行う人によってこの世界で使用するために選ばれる一見自明な原則もまた、殺人の禁止を含むことができるし、含むはずである。なぜなら、この特別な事例は現実世界では起きないので、一見自明な原則を選択する際には無関係だからである。』(邦訳 p.201)

 

 上述でヘアが言及しているのは浮浪者と臓器移植のケースに関してだが、同様の反論は暴動と無実の男のケースにも当てはまる。要するに、このタイプの思考実験には、「浮浪者や無実の男を殺害することのみが事態を解決する方法であり、他の方法は存在しない」という状況の不自然さや、医師や政府が「浮浪者や無実の男を殺すと確実に事態が解決すること」「他に事態を解決する方法が存在しないこと」に100%の確信が抱けることの不自然さ、殺害を行なった場合の副作用やリスク(犠牲となる浮浪者の類縁者や浮浪者の殺害に携わる医療関係者らに発生する負の感情、政府が無実の男を処刑したことが明るみに出た場合に更に酷い暴動が発生する可能性)がないことにされているなど、根本的な問題点が数多く存在している。日常的・現実的な問題に対処するための直観レベルの道徳を組み立てる際にここまで非現実的なケースを考慮する必要は全くないし、非現実的なケースで功利主義が導き出す答えが直観レベルの道徳に反していても問題はないのである。

 また、批判的思考を行う場合にも、思考実験はともかく現実世界においては「無実の男を殺害するのみが暴動を解決する方法であり、他に暴動を解決する方法は存在しない」という仮定に基づいて思考するべきではない、とヴァーナーは論じている(p.94)。実際に「無実の男を殺害するのみが暴動を解決する方法であり、他に暴動を解決する方法は存在しない」と確信を持って断言できるほどの情報や予測を現実世界で得られる可能性はほぼないのであり、疑わしい・誤った前提に基づいて思考を行うべきではないのだ。

 

功利主義に対する反論として、ヴァーナーは上述のものよりももう少し現実的な思考実験に基付いたものも取り上げている。取り上げられている事例の一つがバーナード・ウィリアムズによる「ジムとペドロの事例」であり、この事例は現実の世界にも存在するような「多数の生命を救うために少数を殺害する」という選択に似ている。

 

南米の軍事政権国家を訪ずれたジムはたまたま20人のインディアンの 処刑の場に立ち会う。彼らは囚人ではなく、 民衆のデモ活動を抑制するために適当に選ばれた無実の人々である。 悪人の長官ペドロは、ジムに名誉を与えると言って、次のような提案をする。 もしジムがインディアンの一人を自らの手によって射殺するなら、 長官はあとの19人を解放することを約束する。 しかし、もしジムがこの提案を拒むならば、 20人全員が兵隊によって射殺される。 また、ジムには他に行動のしようがなく、たとえば 銃を手にして長官ペドロ以下全員を射殺するという ような可能性は閉ざされているものとする。  *3

 

 既に乗り込んでいる兵士たちを助けるために乗り遅れた兵士を見捨てる戦場の護衛艦の艦長、9.11の同時多発テロ事件の際にハイジャックされた飛行機を墜落させるように命じられたパイロット、戦争が続いて双方の国により多くの犠牲が出ることを防ぐために原子爆弾を投下することを命じられたパイロットなど、(特に戦争に関係した)特殊な状況では「多数の生命を救うために少数を(間接的・直接的に)殺害する」という選択に直面する場合はある。

 このような事例における判断については、功利主義者ではない人たちの間でも評価は分かれるのであり、原爆投下を正当だと見なす人も多ければジムが一人のインディアンを射殺することを正当だと見なす人も多い。なので、このような事例における功利主義判断は、人々が道徳について抱く考え方や感情から極端に離れている訳ではない。

 また、直観レベルと批判レベルの区別だけでなく、日常生活で一般人として過ごす際の直観レベルの道徳となんらかの職業や立場のプロフェッショナルとして活動する時における直観レベルの道徳とを区別することも、二層理論功利主義が求めるところである。戦争では兵士である人も、戦争がないところでは一般人である。兵士や政治家には、普段自分が過ごしている一般社会の一般的な状況では妥当である「殺人はいけない」という道徳を内面化しつつ、戦場や非常における特殊な状況では功利主義的判断を行うというプロ倫理も身に付ける必要がある。プロとしての功利主義判断を行う際にも、内面化された「殺人はいけない」という一般道徳が顔を出して良心の呵責となったりする場合もあるかもしれないが、そのことが功利主義に対する否定になる訳ではない。

 

・アメリカでは対テロ戦争における拷問がよく問題になる。これも功利主義からすると「多数の生命を救うために少数を拷問することは許される」となってしまいそうであり、それが批判の対象になるが、拷問を行うことの副作用(自国の兵士も拷問の対象となりやすくなる、拷問によって得られた情報はどのみち信用できない、など)を考慮すれば功利主義的にも拷問は止めるべきであると判断される場合もある。しかし、事例によってはやっぱり拷問が認められる場合も有るだろう(多数の人間を犠牲にするであろう時限爆弾が設置されたが、一人のテロリストを拷問することは時限爆弾を解除して多数の人間の生命を救う可能性が高い場合など)。このような現実世界における問題では功利主義的に考えることも複雑で難しいことであると認めつつ、このような「ダーティハンドの問題(Problem of Dirty Hand)」について、ヴァーナーはシジウィックの「Aが特定の行為をして、同時にBとCとDがAの行為を責めるということこそが、最大の幸福を生み出す場合があるかもしれない」という文章を引用している*4

 

・ヴァーナーもヘアもピーター・シンガーも、ジョン・ロールズによる「反省的均衡」の考え方を批判している。

 

  1. われわれが道徳に関して持つさまざまな直観 (considered judgment 熟慮された判断) から、ある抽象的な道徳原理を導き出す。 (たとえば、「妊娠中絶はかまわない」と 「胎児は人格ではない」という直観から 「人格でない生命を殺すのはかまわない」 という抽象的原理を導きだす)
  2. その道徳原理とさまざまな直観を照らし合わせた場合、 その原理によってそれらを整合的に説明できるかを考える。 (「植物人間が人格でないとすれば、 植物人間を殺すのはかまわないか」)
  3. 当の道徳原理といくつかの直観が衝突する場合は、 新たな道徳原理を作り出すか、 あるいは衝突する直観が不合理なものであるとして その直観を放棄する。

反省的均衡は、このような仕方で抽象的な道徳原理を作り出す一方で、 直観同士の矛盾をなくし、 整合的な集合となることを目指すものである。

REFLECTIVE EQUILIBRIUM

 

 

 ヴァーナーによると、ヘアはロールズの本のレビューにて、我々が持っている道徳に関する直観の多くはそもそも教育や文化によって植え付けられたものである可能性が高く、二層理論功利主義では批判レベルの道徳が直観レベルの道徳よりも優先されており批判レベルの道徳によって直観レベルの道徳を修正・改善することができるが、原理よりも先に道徳に関する直観を前提として置いている反省的均衡ではそもそもの直観が間違っていた場合にそれが修正されるという保証がない、批判的に見れば道徳的には妥当ではない直観に基づいて誤った道徳原理が導き出される可能性がある、といったような批判をしているようだ(ヴァーナー、P11-12 を参照)。

 シンガーは「倫理と直観」という論文において、我々が道徳に関して持つ直観には文化や教育だけではなく進化心理学的な影響があることも指摘しながら、道徳的直観はあてにならないということを指摘して、反省的均衡を批判している*5。要するに、私たちに身に付けている道徳的直観とは、たまたま私たちが生まれ落ちた国や地域の文化や伝統や宗教に影響されたものであるかもしれないし、人類の進化の歴史における過程で遺伝によって受け継がれたものであるかもしれず、それらが正しいものであるという保証はない。文化や伝統や宗教に影響された道徳的直観は、過去の人たちによる事実についての誤った判断や過去から存在していた差別・不公平に影響されたものであるかもしれない。進化によって備え付けられた状況も、人類が歴史の大半を過ごしてきた状況(サバンナに暮らす狩猟採集民の少数集団の部族的な社会)に適応したものではあるかもしれないが現代の状況に適応している保証はないし、そもそも特定の状況に進化的に適応していることが道徳的正しさを保証するわけではない。結局のところ直観の正しさは批判的思考によって判断するしかないし、正しくなければ批判的思考によってその直観を修正するべきなのだ。

 

 

 

道徳的に考えること―レベル・方法・要点

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関連記事:

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*1:浮浪者と臓器移植の事例と似たようなものとして、「臓器移植を待つ5人の患者」の事例がある

ハーバード白熱教室 第1回 「殺人に正義はあるか」 Lecture1 犠牲になる命を選べるか - id:gule

*2:ゲイリー・ヴァーナーは、以下のヘアの反論を「非現実的なテストケースに対するヘアのテンプレート的反論」と呼んでいる

*3:

UTILITARIANISM

功利主義は個人の道徳的一貫性(integrity)を傷つける、というウィリアムズの批判に対しても、ヴァーナーは別の節で反論している。ある個人が自分の道徳的一貫性や人生にとっての中心的な計画を保ちたいと望んでいても、結局のところ自分と他人たちの利益について公平に普遍的に配慮することが道徳の要求するものなのであり、道徳的一貫性や人生にとっての中心的な計画を保ちたいという望みを犠牲にしてでも他人の生命を救うなどの場合が求められることがあるのは仕方がない、という感じの反論である。

*4:「ダーティハンドの問題」に関する日本語論文

www.eonet.ne.jp/~seiyuh/dirtyhand-problem-esp.Walzer.pdf

*5:www.utilitarian.net/singer/by/200510--.pdf