道徳的動物日記

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「ブルキニを禁止する?」 by ピーター・シンガー

www.project-syndicate.org

 

 

 今回紹介するのは倫理学者のピーター・シンガーが2016年の9月に Project Syndicate に発表した記事。最近はドナルド・トランプ当選に関連してジョナサン・ハイト等による多文化主義について批判的な記事を翻訳していたが、この記事は穏当な多文化主義について考察しているもの。

 

 

「ブルキニを禁止する?」 by ピーター・シンガー

 

 ヒトラーがオーストリアを併合した後、私の両親はナチスの追及から逃げるためにオーストラリアにやってきた。彼らが訪れた国は移民を主流派のアングロ-アイリッシュ文化に同化させたがる国だった。両親が電車のなかでドイツ語を喋ると、他の乗客から「ここでは英語を喋るんだ!」と言われたものだ。

 だいぶ前からこの種類の同化はオーストラリアの政策から消え去っており、移民が各々の独自な伝統と言語を保持することを推奨する多文化主義という形に代わっている。そして、その多文化主義はあらかた成功しているのだ。ブルキニ…顔は出ているが、頭のてっぺんから足まで身体を覆い隠す水着…は多文化主義の一つの側面だ。ブルキニはシドニーに暮らすイスラム教徒の女性によって発明されたものであり、オーストラリアの夏にとって重要な要素であるビーチでのアクティビティにイスラム教徒の少女たちが学友たちや他の友達と一緒に参加することができるようにするための水着である。

 複数のフランスの海岸の町がブルキニを禁止しようとしている理由を理解することは、オーストラリア人にとっては難しい*1イスラム教の宗教信念に準拠している水着がなければ、少女たちはビーチに行くことを家族から許されないだろう。それは、民族的・宗教的な分断を減少させるのではなく強化することになるのだ。

 フランスにおけるブルキニの禁止(その一部は裁判所によって取り消しになった)は、衣装や装飾品に関するフランスの他の規定に続くものである。公立学校に通う学生たちは、人目につくような宗教的シンボルを身に付けることを許されていない。多くの場合、イスラム教徒の女性が被るヘッドカバー(ヒジャブ)、ユダヤ教徒の少年が着用する帽子(ヤムルカ)、キリスト教徒たちが身に付ける大きな十字架などが宗教的シンボルとして解釈される。顔を完全に覆い隠すヴェール…ブルカやニカーブなど…は、公共の場の何処でも着用されることが法律的に認められていない。

 フランスには厳格な政教分離の長い歴史があるために、フランスは特別なケースであると思われがちである。しかし、先月のドイツでは、内相のトマス・デメジエールが公共の場でのブルカ着用を禁止することを提案した*2。政府の建物、学校、大学、法廷など、禁止の対象となる場所をフランスよりも拡大させる可能性もデメジエールは示したのだ。彼によるとこれは「統合の問題(an integration issue)」であり、そしてドイツ首相のアンゲラ・メルケルもデメジエールの提案に同意したのだった*3。「私の考えでは、自分を完全にヴェールで覆い隠している女性が統合される可能性はほとんど存在しません」。 

 つまり、振り子は同化の方へと戻っているのである。鍵となる問題は、振り子をどこまで戻すべきであるか、ということだ。移民を受け入れる国は、移民たちが彼らの文化的・宗教的慣習を全て保持することも認めるべきだろうか?国の核心となる価値観…その国に住む人たちの大半が自分たちの生き方の中心にあると考えている価値観…に、移民たちの慣習が相反しているとしても? 

 文化的・宗教的な慣習を保持する権利は絶対的なものではない。最低でも、それらの慣習が他人を害するときにはその権利は制限される。例えば、子供たちは教育を受ける必要があり、政府が家庭教育を認めていたとしても、子供たちに教えられなければならない知識と技能に関する一定の標準を家庭教育にも設定する権利を政府は持っている。女性の性的快楽を減らすことを目的とした女性器切除(女子割礼)などの極端なケースでは、移民たちが自分たちの慣習を新しい国でも保持することを認める人はほとんど存在しない。

 フランスでは、ビーチでのブルキニ着用を認めることは女性に対する抑圧を暗黙のうちに是認することである、と論じられてきた。頭、腕、脚を覆うことを女性には要求するが男性には同様の要求を行わないことは、一つの差別である。しかし、女性は自分の胸を覆わなければならないという要求は普遍的ではないにせよ広く受け入られている(男性は胸を覆うことを要求されないという点も同様だ)。その要求と、女性は胸よりもさらに多くの範囲で自分の身体を覆わなければならないという…イスラム教を含めた複数の宗教が行っている…要求との間のどこに私たちは線を引くべきなのだろうか?

 公立学校で宗教的な服装を禁止すれば統合は最も効率的に行える、ということも疑わしい。少なくとも、民間の宗教的な学校が認められている限り、イスラム教徒やユダヤ教徒は子供たちを民間の学校に通わせる可能性が高くなるだろう。世俗的で統合された社会を私たちが本当に望んでいるとすれば、全ての子供が公立学校に通うことを要求する議論もあってしかるべきだ。しかし、その議論は大半の西洋社会から失われてしまっている。

 社会とは、共通の領土境界内で共に暮らしてはいるがそれぞれに分離している個人たちや集団たちの単なる集まり以上の何かであるとすれば、人々が混ざり合って協働することを可能にするためにある程度の統合を私たちが望むことは理に適っている。私たちは文化相対主義を拒否するべきだ…全ての文化的慣習が擁護される訳ではないことは、女性器切除の例だけでも十分に示されるだろう。「あなたたちがここに来ることは歓迎するし、あなたたちが自分たちの文化の多くの側面を保持して実践することも私たちは推奨する。しかし、あなたたちは幾つかの核心的な価値観を受け入れなければならない」と社会が移民たちに伝えることは正当化されるのだ。

 ではその核心的な価値とは何であるべきか、ということを決定するのは難しい問題である。最低でも他人を害しないことは含まれるだろうし、人種や性の平等も核心に含まれるべきだろう。しかし、女性たち自身が自分たちの宗教的信念のために自分たちの機会が制限されることを認める場合には、トリッキーな問題になる。彼女たちは抑圧的なイデオロギーの犠牲者かもしれない。だが、人生における女性の役割は男性とは異なるということを少なくとも何らかの形で教える宗教は、イスラム教に限られない。

 19世紀の偉大なリベラル思想家であるジョン・スチュアート・ミルは、社会は他人への危害を予防することにだけ刑法を用いるべきであると考えていたが、政府は様々な異なる文化に対して中立的である必要はないとも考えていた。むしろ、人々が誤った信念に対抗して最も良い生き方を見つけることを促すための様々な教育手段と説得手段を社会は備えているのであり、そして社会はその手段を使用するべきだとミルは考えていたのだ。

 教育の影響を受けたり異なる生き方を近くから知るのに充分な時間を移民たちに与えれば、移民たちは良い選択を行うはずだ、とミルなら論じたであろう。他の選択肢の正しさについて私たちがあまりにも自信を持っていないということを考えれば、ミルが論じたような道のりは未だに試す価値があるのだ。

 

 

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