道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

人文学は何の役に立つのか?

 

 近年、「学問は役に立つのか?」「人文学を学ぶ意味はあるのか?」「利益を上げない学問に税金を投入する意味はあるのか?」みたいなことが言われることが多くなっているような気がする。大体の場合、やり玉に挙げられるのは人文学や文系の科目全般だったりする。

 私は学生時代に人文系の学問を専攻していたし家族にも人文系の大学教授がいるのでわかるのだが、人文系の大学教授の大半は、「人文学は役に立つのか?」あるいは「お前のやっている学問は何かの役に立つのか?」ということを問われると憮然としたり心外だと言わんばかりに憤ったりする。それで「役に立つかどうかという理由で学問をやっている訳ではない」「何かの役に立つからという不純な動機で学問を始めた訳ではない」ということを言いだすし、「学問に対して役に立つ/役に立たないなんて基準を持ち込む方が非学問的だ」「学問に実利を求める奴は学問の何たるかをわかっていないのだ、けしからん、そういう奴らが日本をダメにしたんだ…」みたいなことを言い出す。

 

「人文学は役に立つのか?」という質問に対して正面から答えようとせずに、「そもそも、"役に立つ"とはどういうことか?」などと言葉の解釈について話をずらして、ウダウダ理屈を連ねてそもそもの問いを誤魔化す、というのもよくある風潮だ。具体例は以下みたいなもの。

 

役に立つ学問とは何か。
    
「役に立つ学問」とは何のことなのだろう。
そもそも学問は役に立つとか立たないとかいう言葉づかいで語れるものなのか。
正直に申し上げて、私はこういう問いにまともに取り合う気になれない。というのは、こういう設問形式で問う人は、一般解を求めているようなふりをしているけれど、実際には「その学問は私の自己利益の増大に役に立つのか?」を問うているからである。
だから、にべもない答えを許してもらえるなら、私の答えは「そんなの知るかよ」である。何を学ぶかは自分で判断して、判断の正否についての全責任は自分で取るしかない。「役に立つ」ということには原理的に一般性がないからである。

役に立つ学問 (内田樹の研究室)

 

 こういうのは、書いている本人にとっては自分が賢いことを言っているような気がして気分がいいのだろうが、「学問は役に立つのか?」という問うている人たちに対して正面から向き合っている文章であるとはとても思えない。

 

 また、よくあるのが「自分は学問が役に立つか立たないかなんて考えたことがない」みたいな回答。

 

…私は「役に立つ学問」というものに興味がない。それを識別することに何か意味があると思っている人にも興味がない。それはたぶん「お前のやっていることは何の役にも立たない」と若い頃から言われ続けてきたせいである。自分でも「そうかもしれない」と思っていたから反論もしなかった。でも、自分にはぜひ研究したいことがあったので、大学の片隅で気配をひそめて「したいこと」をさせてもらってきた。私が30年にわたって「何の役にも立たないこと」を研究するのを放置していてくれた二つの大学(東京都立大学神戸女学院大学)の雅量に私は今も深く感謝している。私が選んだ学問領域は四十年にわたって私に知的高揚をもたら続けてくれた。私はそれ以上のことを学問に望まなかったし、今も望んでいない。

役に立つ学問 (内田樹の研究室)

 

 これも言外には「本当に学問に精通している人間は役に立つか立たないかなんて考えないものだ、そんなことを質問してくる時点で学問のことをわかっていない門外漢の馬鹿だ、自分の学問が何かの役に立つと思って研究している連中も学者としては二流だ…」みたいな気持ちが込められているんだと思う。

 

 私がよくわからないのは、なぜ「自分のやっている学問はこれこれこういう風に役に立ちますよ」とか「人文学はこのような点で社会にとって有益ですよ」ということを素直に示さないのか、ということだ。議論の前提を "問い直して""脱構築"してみたり議論に使われている用語についてグダグダと掘り下げてそもそもの議論を曖昧にして誤魔化そうとする、ということばかりが人文学や哲学の仕事ではないはずである。

 

https://www.nytimes.com/2017/03/30/opinion/president-trump-vs-big-bird.html

 

 たとえば、2017年3月30日のニューヨークタイムス誌に掲載されたニコラス・クリストフ(Nicholas Kristof)の記事では、人文学を軽視するドナルド・トランプが大統領になってしまったアメリカの状況をふまえた上で、歴史上で文学や哲学などの人文学がどのような利益を社会に与えていったか、ということを論じている。

 この記事でクリストフが論じていることの一つは、文学を読む習慣が普及したことは人々を道徳的にさせた、ということだ。例えば、アメリカで奴隷解放運動を支持する人を増やしてやがては運動を成功させた要因の一つは、ハリエット・ビーチャー・ストウの小説『アンクル・トムの小屋』が広く読まれたことであった。最近の心理学実験においても、フィクション作品を読むことが人々の他者に対する共感を強くさせる、ということが示されている。

 読書(文学)が人々を道徳的にさせるということを指摘した人として、クリストフは心理学者のスティーブン・ピンカーの名前を挙げている。ピンカーについては私も何度かこのブログで取り上げてきたが、「なぜ、文学者たちは"文学が役に立つ理由"を尋ねられても文学が人々を道徳的にするということを示さないのか」という点については、ピンカーは以下のように論じている。

 

 

小説が人々を道徳的にする、という考えはピンカー以外にも多くの学者たちが論じている考えなのだが、小説というものを最も直接的に研究対象にしているはずの文学研究者は、この考えを好まない。「今日では、歴史学者のリン・ハント、哲学者のマーサ・ヌスバウム、心理学者のレイモンド・マーやキース・オートリーなどが、共感を拡大して人道主義的な進歩を推進するものとして、フィクションを読むことの有効性を支持している。その仲間には文学者も入るだろう、と普通なら思うかもしれない。自分たちの専門分野が学生にも資金にもこぞって敬遠されている時代にあって、これぞ進歩の推進力なのだと示したくてたまらないはずだからと。しかし、『共感と小説』のスザンヌ・キーンを始め、多くの文学研究者は、フィクションを読むことが道徳的によい効果を与えるのではないかという考えに苛立ちを隠さない。彼らからすると、その見方はあまりにも中級知識人的で、セラピー志向で、キッチュで、センチメンタルで、オプラ的に思えるのだ。」(『暴力の人類史』下巻、389ページ)

 

 

www.theguardian.com

 また、ガーディアン誌に掲載された小説家・著述家のレベッカ・ゴールドスティン( Rebecca Goldstein)のインタビュー「科学は私たちにとって最良の答えだ、だがそれを証明するためには哲学的な議論が必要だ」でも、科学が私たちにとってどのように"役に立つ"かということと対比させる形で、哲学が私たちにとってどのように"役に立つ"かということが論じられている*1

 現代では、事実に関する議論("What is?")に関しては科学の専門分野であり、科学は事実を理解する上で最良の答えを与えてくれる(ただし、事実とはそもそもなんぞやということを考えたり科学的議論の正確さなどを担保するためには哲学も必要となる)。だが、価値に関する議論("What matters?")に関しては現代でも哲学が専門分野なのであり、そして哲学が進歩することは私たちの社会全体の道徳を進歩させてきた、というのがゴールドスティンの主張である。

 

社会に起こってきた主要な変化のいずれを見ても、そのきっかけは哲学者たちにさかのぼることができる、とゴールドスティンは言う。それらの変化はまず知的な議論として始まって、そしてかなり時間が経った後にようやく社会の主流派にも変化が受け入れられるようになり、そしてやがてはその変化はあまりにも日常的なものとなり過ぎて見えなくなってしまう。それこそが、哲学の進歩に対して私たちが恩恵を感じない理由である、とゴールドスティンは考えている…常識を変えてしまうことにより、哲学は常に人々に吸収されて標準的なものとなっていくのだ。

 

 例として、奴隷制にまず最初に反対したのは哲学者であることをゴールドスティンは挙げている。物事について考える学問である哲学は、私たちの間で常識となっていたり標準となっている慣習や規範についても考え直すのであり、「現在では奴隷(や女性や外国人や同性愛者など)を虐待したり迫害したり差別したりすることは当たり前となっているが、よくよく考えると、それは誤りかもしれない」という考えを生み出すきっかけとなり、それがやがては社会の慣習や規範を実際に変えてしまうのだ。

 

 クリストフもゴールドスティンも、現在進行形で人文学や哲学が人々の思考・行動を変えさせて社会にも変化をもたらしている例として、ピーター・シンガーの『動物の解放』を挙げている。シンガーの哲学は、工場畜産という制度に対する反対運動を活性化させて多くの人々を菜食主義者にして、家畜が育てられる環境を良くするための法的な規制を実現させて、"動物に対して道徳的に配慮する"ことを一部の変人の行うことではなく社会における規範として広く定着させつつあるのだ*2

 

 

 …文学や哲学が奴隷制を始めとした人間に対する様々な暴力や差別に対抗してそれらを撤廃させる力となってきたのなら、実際に文学や哲学は多くの人々を苦痛から解放してきたということになり、それを「役に立たない」「社会に利益を与えない」ことだと言える人はそうそういないだろう(動物に関してはまだ意見がわれるかもしれないが)。クリストフやゴールドスティンが言及しているのは文学や哲学が主であるが、歴史学などの他の人文学の学問だって様々な形で役に立っているはずである。

 

 私としても、(現在は学生でも研究者でもないのだが)自分が学問をするならそれが何らかの形で人々や社会の役に立つことを望みたいものだし、「あなたのやっている学問は何の役に立つのか?」と問われた時には(問いの前提についてどうこう言うばかりでなく)正面からはっきり答えられるようになりたいし、自分が行っている学問がどういう役に立っているのかについて常に調べたり考えたりしたいと思う。また、例えば大学教授とか研究員の研究に対しては何らかの税金が投入される訳で、そこで自分の研究の社会的意義を問われた時に煙に巻いてごまかそうとしたり役に立つかどうかなんて考えたことないと開き直ったり心外だとばかりに憤慨するとすれば、社会の成員としても道義的にダメだと思うし、大人としても格好悪いだろう。日本でも、クリストフやゴールドスティンの記事のように、「学問が役に立つ理由」を真っ向から魅力的に論じた文章をもっと読みたいものだ。

*1:本筋とは関係ないがゴールドスティンは先述のピンカーとはカップルであり、記事の中ではピンカーの論的であるスティーブン・J・グールドをきっかけとしたピンカーとゴールドスティンとの馴れ初めも書かれている

*2:シンガーの議論の例:

ピーター・シンガー「私たちが肉を食べるのを止めない限り、動物たちへの虐待は終わらない」(2015年2月11日) — 経済学101