道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

「男性のつらさ」論についての雑感

 

 前回の記事の続き…と言いたいところだが、大したことが書けそうにないので箇条書きで。

 

●議論が盛り上がるきっかけとなった「男性のつらさの構造」記事では、男性のつらさの原因の一つを「女性の高望み」と分析していた。そして、それに対する解決策の一つとして「女性の意識改革」を主張したために、あちこちから批判されることになってしまった。

 しかし、いわゆる「女性の上方婚」志向が存在して、それが男性にとっての経済力獲得プレッシャーやそれに伴うストレスや孤立の原因となっていることは、事実だと私も思う。進化心理学や経済学、あるいはジャーナリズムや文学など様々なジャンルのメディアにおいて、「女性の上方婚」の存在の実証やその原因の解説、具体例などを見つけることができる。普通に生きていて友人や知人や見知らぬ人々の会話をしていたり、SNSにおける人々の書き込みを見ていても、「女性の上方婚」志向の存在は感じられるものだろう。…もちろん人それぞれだし、女性全体が上方婚を志向している訳ではなく、個人単位では上方婚を志向しない女性は数多くいるだろう。しかし、全体的な傾向としては間違いなく存在する、と大概の人は答えるものであろう。「存在しない」と答えられる人は、かなり特殊な環境に置かれていたり特殊なものの見方をしているだけだと思う。

 

 とはいえ、「女性の意識改革」という解決策に関しては、やはり肯定するのが難しい。

 第一に、規範的な問題として、「自立心を持ち、経済力の獲得に積極的になり、経済力を持たない男性と支え合う気持ちを持つようになるべきだ」と個々の女性たちに対して主張することを正当化する論理を見つけるのは難しい。女性の上方婚志向が男性を苦しめているとしても、それは不特定多数の女性たちの選択や感情などが合成した結果の集合的な傾向が不特定多数の男性たちを集合的に苦しめているのであって、特定の女性が特定の男性を苦しめているわけではない。個々の女性に「自立心を持たない」「経済力の獲得に積極的でない」という特徴があったとしても、それらの特徴が誰か特定の個人に危害を与えているわけではないのだから、それらの特徴が不道徳的であるとは言えず、「変えるべきだ」と言うこともできない。「自分が誰と付き合うか」も、基本的には個人の選択に委ねざるを得ない問題だ。

 第二に、事実的な問題として、上方婚志向を解消するための「女性の意識改革」は実現することが難しいと思われる。おそらく上方婚志向は進化的・生物学的なレベルで備わっている傾向であり、上辺の意識だけを改革しても、その傾向は残ると考えられる。経済力を身に付けた大半の女性はさらに経済力のある男性を志向するようになるだろうし、経済力のない男性に対しては様々な理由から魅力を感じないことだろう。

 

●「結婚できないこと」「異性の恋人がいないこと」が男性にとってつらいことであり不幸なことである、という主張に対しては、「女性のケアに依存しようという願望に基づく、性差別的で甘えた発想だ」という批判や「恋人や夫婦という関係や異性にこだわるのではなく、男性同士が集まってコミュニケーションして感情を打ち明けあったり孤独感を埋め合ったりする場所を築くべきだ」という提案がされることが多い。よりイデオロギー的な批判としては、「結婚できないこと」を問題視するのは婚姻制度を前提とした発想である、「異性の恋人がいないこと」を問題視するのはヘテロセクシュアル的な発想である、という批判もちらほら見受けられる。

 アカデミズムにおける議論でもネットにおける議論でも、恋愛・性・結婚・家庭という話題となると、現実から乖離したイデオロギー的かつ理想論的な主張が行われがちな傾向がある。そのために、大多数の人々が抱いている一般的な感情や感覚というものが軽視されがちだ。

 たとえば、大多数の男女が「異性の恋人」に求めることの一つとして、「お互いがお互いを特別視して、他の人よりも優先してケアする、排他的な関係」というものがあるだろう。共に暮らしたり、人生のプランを一緒に考えてライフコースを共に歩む相手が欲しい、という願望も一般的なものであるはずだ。性的な願望はもちろんのこと、性的でなくても「特定の相手と身体が触れ合わせてリラックスしたい」などの身体的な願望もあるかもしれない。これらの願望は、男性同士が感情を打ち明け合ったり孤独感を埋め合うコミュニティなどができたとしても満たされるものではない。

 また、「結婚して家庭を持ちたい」「子供が欲しい」などの願望も、かなり普遍的なものである。これらの願望は社会や文化によって形成されている面も多々あるだろうが、進化的・生来的に備わる本質的な願望という面も強い*1。そして、これらの願望が満たされない影響は、漠然とした不幸感や「人生に対する不安や絶望」という実存的な苦悩としてだけでなく、精神的・身体的なストレスや体調不良につながったり、自殺リスクなどにもつながったりする。

 

 規範的な主張としては、「結婚や異性の恋人にこだわるのはヘテロセクシュアル中心主義だ」とか「子供を欲しがるのは反出生主義の観点からすると間違っている」などと主張することはできるかもしれないし、もしかしたらその主張は間違っていないかもしれない。しかし、まずは事実の問題を直視して、異性の恋人や結婚に対する願望の根強さや、それらが身体的・生物学的な性質にも根ざしていること(つまり、社会や文化を変えるだけでは対処できるものではないこと)は理解されるべきだ。前回の記事でも書いたように、問題を解決するためには問題の正確な理解が欠かせないのである。

 

エマ・ワトソン的な「男性も男性性から自分自身を解放するべき」という主張は規範的な主張としては正しいと私も思う。しかし、異性の恋人や家庭に対する願望、その願望を成就するための経済力獲得の必要性などを考えると、事実問題として、そう簡単に男性性から自分自身を解放できる男性は多くないだろう。

 男性性や女性性などのジェンダー規範とは「(大半の)男性の志向や傾向」と「(大半の)女性の志向や傾向」の相互作用として成立するところが大きい。そして、大半の男女のジェンダー規範がまだ変わっていない中で自分だけジェンダー規範を変えようとすることは、規範的には推奨できる行為であったとしても、その人に不利益をもたらす非合理的な行為である可能性は高い。

 

●歴史的視点や進化的視点から見れば、「そもそも大半の男性とはつらくて孤独なものだ」「どんな時代のどんな社会にも多かれ少なかれゆるやかな一夫多妻的な傾向というものは存在してきたのであり、あぶれてしまい孤立する男性が存在することは必然であり解決不能な問題である」などの身も蓋もない結論になってしまう可能性もある。

「男性のつらさ」に対して色々と書いてきたが、「男性の孤独感や結婚願望を解消するために、女性をあてがう」という解決策は規範的にも認められる訳がないし、事実問題としても実現不可能だ。まあ結局は経済をよくしたり労働環境を改善するなどの間接的な解決策で男女双方の幸福感を高めて、孤独感や結婚願望が満たされないことによる男性のつらさを埋め合わせる、くらいしか方策はないのかもしれない。

 

 

 

 

*1:人生における結婚や生殖の重要性や、その進化的な基盤については、ダグラス・ケンリックの『野蛮な進化心理学』で詳しく論じられていた