道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

読書メモ:『幸福と人生の意味の哲学』(2)

 

幸福と人生の意味の哲学

幸福と人生の意味の哲学

 

 

 この本では「幸福であることの欺瞞性」や「私たちがひとを苦しめながら生きているという事実」が重視されている。

 

例えば、私たちが美味しいものを食べて(日常的な意味で)「幸福だなあ」と言えるのも、その食材を作るために牛馬のようにこき使われたひとの苦しみを想像したりはしないからです。そして、仮に自分に関わる因果の網目の全体へ注意を向けることができたならば、そうした瞬間に幸福感を抱けるひとなどいないはずです。

(p.58)

 

 著者がこういう考え方をしているので、この本では基本的に日常的に定期的に味わうタイプの幸福感というものは軽視されることになる。その代わりに重要視されるのが、人生における特殊な瞬間やふとした瞬間にごく稀に訪れたり、人生全体について長期的な視野から振り返って考えることで得られるような"超越的 "なタイプの幸福感だ。

 この超越的な幸福を語るうえで、著者は「信仰」や「語りえぬもの」という単語を用いながら、直接的に説明することはなく(語りえぬものなのでそもそも理論的にスラスラと説明できるものではない、ということだ)さまざまな文学作品や随筆文から引用しながら間接的に示そうとする。

 その中で、スティーブ・ジョブズが2005年にスタンフォード大学で行なった有名なスピーチや、それについて言及している哲学者の田島正樹の文章を引用しながら、「点を結びつけること(connecting the dots)」について論じられている箇所がある。

 

ジョブズは《人生において何と何が結びついてくるかは、前もっては分からない》と指摘しています。とはいえそれだけではありません。彼は続けて《大事なのは何かを信じることだ》と述べ、明確に語りえない何かへの「信仰」が人生において本質的な役割を担うことを強調します。たとえ周囲から「もっと手堅い道を進みなさい」や「お前のやっていることは意味不明だ」などと言われたとしても、神秘的な何かの声を信じて自らがそのつど本当にやるべきだと思うことに専念することーーこうした「信仰」と呼びうる姿勢に導かれた結果として、離ればなれだった点はあるとき線になり、意味のある何かが生まれることになるのです。

(p.228)

 

田島の言いたいことのひとつは次です。すなわち、神秘的な何かへの信仰に導かれ、ひとつずつ点を打っていく地道な日々を積み重ねていくならば、たとえジョブズのような成功に至らなくても、何かしらの「意味」が形作られる、と。このように考えたうえで彼はジョブズの言葉から引き出しうる真に重要なことを《結果の如何によらず、超越的な声を信じてそれに身を捧げることはそれ自体として裏切りのない価値を持つものなのだ》と捉える。

(p.229)

 

私たちが信じうることは、神秘的な「超越」の声を信じてそれに身を捧げて生きることが、あらかじめ予期しえないような意味を作り出す、という事柄です。逆に、自分を「超えた」何かへの信仰がまったく欠けている場合には、分かりやすい享楽に没頭して振り返れば「虚しさ」しか残らないということがある。たしかに理屈のうえでは、「超越」を信じても結局は何にもならなかった、ということは起こりえます。とはいえ、《信仰の果てには何かがあるのだ》と信じることーーこのことも信仰の一部なのです。

(p.230)

 

 私がこの辺りの文章を読んでいて思ったのは、著者が言わんとするタイプの「幸福」を表現するうえで、にわざわざ「信仰」や「超越」などの大層な言葉を使う必要はないのではないか、ということだ。

 例えば、ジョブズの言っていることを「短期的な目先の成果を追い求めるのではなく、長期的に意義がありそうだと自分が感じられることについて、周りの評価や世間の意見に左右されることなく、全力で打ち込むべきだ」という風に要約できることも可能だろう。そして、短期的な目先の成果に振り回されるのではなく長期的に意義のある目標を重要視することや、周囲の評価に左右されずに自分がやるべきことや自分にとって向いている物事に目を向けること、物事に取り組むときには全力で取り組むこと…それらの各要素が幸福につながるということは、古来からの幸福に関する人生訓でも現代的なポジティブ心理学でも、散々に指摘されていることなのである。

「意義のある目標に向かって適切な努力をすることは、その努力が身を結ぶかどうかという結果に関わらず、幸福を与えてくれる」ということは、正直に言って幸福を語るうえではかなり基礎的な事柄なように思える。また、短期的な快楽を求めることよりも長期的な事柄について継続的に打ち込むことの方が結果的により持続的な幸福を得られる、という事実については心理学なり進化生物学なりでその仕組みを客観的に説明しようとする文章も多々あるはずだ…要するに、著者が重視している「超越的っぽい」幸福感は、著者が軽視している卑俗な幸福感と同じように、語りえる対象であるはずなのだ。

 となると、卑俗な幸福感を軽視して超越的っぽい幸福感ばかりを重視する根拠もなくなるような気がする。ついでに言うと、私としては、「私たちがひとを苦しめながら生きているという事実」を考えると卑俗な幸福感は抱けなくなる、という前提にまず賛同できない。食事をするときにその背景にある労働者や動物への搾取を想像したとしても、真面目な人であればメシが不味くなるかもしれないが、「それはそれ、これはこれ」として気にせずに食べて幸福感を抱ける人はやはりいるだろう(私としても、どちらかといえば後者のタイプだ)*1

 この本では森村進伊勢田哲治などが行っている分析哲学的な議論が批判の対象とされるし、科学的な知見はほとんど参照されずに無視されている。代わりに提示されるのが宗教的だったり実存主義的だったりする議論であり、幸福を表現した文学や芸術だ。そして、前者には軽薄であり表面的な物事に左右される的外れなものとして示されるし、後者は深遠であり幸福や人生の本質を捉えるものとして示されている。…しかし、このような二項対立的な論じ方では、卑俗的な幸福感と超越的っぽい幸福感との間にある連続性とか共通性とかが捉えられなくなってしまうし、後者を過剰に高尚なものとして祭り上げてしまうことにもなるので、やはり不適切なように思える。

 

 批判ばっかりなのもよくないのでこの本の良かった点を取り上げると、第七節や第八節で取り上げられる、アイロニーと人生の意味に関する議論は良かった。著者は、トマス・ネーゲルの議論を示しながら、「アイロニカルな生き方」とは"自分の譲れない価値観に対していくらかの距離を保って生きる、といういささか「複雑な」あり方"(p.133)である、と説明する。

 アイロニカルな生き方といっても、虚無的な生き方やに冷笑的な生き方のことではない。例えば、戸田山和久は「アイロニカルなニヤニヤ笑い」という言葉を用いているのだが、著者は戸田山の説明の仕方をアイロニーについて歪んだ理解を形成するものとして批判する。虚無主義や冷笑に逃げ込むのではなく、自分自身の価値観をしっかり持ちながらもそれを相対化する視線も忘れずに、物事について都度に適切な向き合い方や正しい判断をすることを目指す、という感じである。

 また、「結び」の部分にて著者は青山拓央の『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』を取り上げている。この本は私も読んで感想を書いているが、著者は青山の主張のポイントを"快楽・欲求充足・人生の客観的な良さは人間的生においてしばしば偶然的でない仕方で同時実現するので共通の名をもつ"(p.258)と要約している。そして、青山による幸福の「共振」説は幸福のハイブリッド説とは別物であると指摘しながら、"幸福な生に典型的な<豊かさ>を指摘"(p.259)すると論じている。…幸福の共振説については、私が 『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』を読んでいた時には特にどうと思うこともなくスルーしてしまっていたので、その面白さをこの本で示してもらえたのは良かった。

 

 

*1:この本にせよ三谷尚澄の『若者のための<死>の倫理学』にせよ、導入部分で「桐生市小学生いじめ自殺事件」という悲惨な事件を取り上げることで、「この本では小手先の浅薄な議論を行うのではなく本質的で深遠な議論を行う」という宣言をしている。いじめで自殺した少女がいるという残酷な事実に向き合えるほどの耐度を持った議論を構築していく、という抱負の宣言であり、志としては立派である。だが、そのような「気負い」をしてしまうことで、世俗的に幸福や人生の意味を語る議論に対して傲慢な態度を取ってしまったり、また深遠で意味のある主張をしようとするあまり主張が空回りしてしまったりなど、本の全体に悪影響や歪みがが生じてしまっているようにも思える。