道徳的動物日記

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社会運動の「戦略」の問題を指摘する人について

 

現代思想 2018年7月号 特集 性暴力=セクハラ  ―フェミニズムとMeToo―

現代思想 2018年7月号 特集 性暴力=セクハラ ―フェミニズムとMeToo―

 

 

 ネットでは昔から社会運動が盛んだ。
 数年前までは、在特会などの団体や嫌韓・嫌中の運動に対抗する反レイシズム運動が特に目立っていたように思える。
 2011年の震災からしばらくの間は反原発運動も盛んであった。また、安倍政権に反対する運動も定期的に行われている。
 そして、最近で特に注目を浴びているのは#MeTooやKuTooなどのフェミニズム系の運動であるだろう。

 これらの主張はいずれも社会運動である以上、なんらかの理念や規範に基づいて、なんらかの主張や要求を行っている。
 基本的には、「平等」や「人権」などのすでに社会的に認められている規範を延長させることで新しい規範を提唱して、その新しい規範に基づいて、個々人の行動や社会の慣習や制度を変更させるような要求を行っているといえるだろう。

 ネット上では、これらの社会運動について様々な人が何らかのコメントをしている。
 そして、はてブTwitterなどのSNSにおける個人のコメントにおいては、独特の特徴が存在するように思われる。
 それは、運動の提唱している規範や主張などについて直接取り上げたコメントではなく、運動の「戦略」について云々するコメントの方が目立ち、かつ人気を得やすいという特徴だ。

 

 私が念頭に置いているのは、たとえばMeTooやkutooに関して言えば、以下のような言説である。 

「日本でのMeToo(KuToo)運動は、運動の火付け役だった○○○氏の言動に問題があり、支持者たちもそれを批判できなかったために、大衆の支持を広く得ることができずに失敗してしまった(失敗するであろう)」

 MeTooやKuTooに関する話題のはてブを見てみるといつもこういうタイプのコメントが何個かあって、一定数のスターを稼いでいる。
 同じく、TwitterでもこういうタイプのコメントはRTやFavを稼ぎやすい。
 しかし、そのようなコメントやそれにスターやFavを付けている人を見ると、私はいつも「嫌らしいなあ」という感情を抱いてしまうのである。

 このタイプのコメントが私には嫌らしく思えるのは、運動の主張自体の当否を戦略の当否にすり替えている感じがするからである。
 先述したように、大半の社会運動は、「平等」や「人権」など我々の社会で既に共通理解を得ている規範から出発して、その規範を延長させた新しい規範を主張したり、我々個々人の行動や社会慣習や政治制度などを改善するように具体的な要求を行ったりする。
 もしその要求が不当であると考えたり、主張されている新しい規範を認める理由がないと考えるのであれば、それに対して反論を行えばよい。
 しかし、実際には、反論を行うことは難しい場合が多いだろう。というのも、大概の社会運動はすでに私たちが受け入れている「人権」や「平等」などの規範から出発している以上、その主張は無難なものであり、多くの人にとって妥当に思われるような主張を行っていることが多いからだ。
 たとえばMeToo運動に関しては女性に対する性暴力を表立って擁護する人はなかなかいないし、KuToo運動に関しても、女性にだけヒールを履かせるよう強制することを正当化する議論ができる人はほとんどいないだろう。
 だから、運動の理念や主張に対して直接的に反論が行われることはあまりないし、そのような反論が他の人にウケることもあまりないのである。
(萌え絵反対運動であったり動物の権利運動であったりなど、既存の規範とはやや距離が離れており論証の必要性が増すようなタイプの社会運動に関しては、反論の余地も大きくなる。そして、そのような運動に対しては、実際に理念や主張に対して直接の反論を試みようとする人が増える印象がある。)

 そして、運動の戦略上の問題点や「失敗」を指摘する人であっても、「この運動の理念や主張には賛同するが、だからこそ指摘しておかねばならない…」という風な前置きする人もいる。
 そのような人の中には本心から運動の理念に賛同していて、善意で戦略面の問題を指摘しようとする人もいるだろう。
 しかし、戦略の問題を指摘する人の大半は、運動の理念や主張については実のところ反感を抱いている…と私は邪推する。
 つまり、運動の主張や要求に対して「嫌だなあ」とか「ウザいなあ」などのネガティブな気持ちを抱いていて、なんとかして運動にケチをつけたいが理念や主張面での反論はできないので、戦略上の問題をあげつらっているということだ。
 
 本来は戦略上の正しさと理念面での正しさは別物であり、仮に戦略面では全く成功していない運動であっても、理念が正しいかどうかの判断は別途に行える。
 つまり、周りの誰も賛同しないように見える運動であったとしても、その運動の言っていることが正しいかどうか個々人で考えて判断することができるし、またそうするべきなのだ。
 さらに言えば、運動が戦略的に成功しているかどうかを外部から判断することはかなり難しい。はてブでは否定的な反応ばかりでもネットの別の領域では賛同を得ているかもしれないし、ネットでは批判されてばかりの運動が現実世界では成功を収めているという可能性もあるのだ。
 理念や主張に関する判断は規範の問題なので論理の範囲内で行うことができるが、戦略に関する判断は事実に関する事柄なので、客観的な証拠やデータがないと本来は判断できないものなのである。
 しかし、その指摘の正確さに関係なく、戦略上の問題点を指摘することには、「運動の理念や主張自体に反論が行われた」という誤った印象を与える効果があるようだ。
 ついでに言うと、戦略上の指摘をすることには、指摘している人が運動を行っているよりも賢く客観的に見えて、一段上の立場にいるような印象を与える…そんな効果もあるかもしれない。
 実際、物事について戦略などのメタ的な次元で考えようとすることは、賢い印象を他人に与えたいと思っている人にとっては基本的な仕草であるだろう。
 
 …このようなことをつらつらと考えていると、やっぱり結論としては「嫌らしいなあ」という感想しか私には湧かないのだ。
 もちろん、上記の私の分析はすべて邪推のうがちすぎであって、まったくの的外れかもしれない。私の分析自体がメタ的なものになっていて嫌らしいと言われたら反論の仕様はないし、あるいは自分の心を他人に投影しているだけかもしれない。