道徳的動物日記

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「我々はいかに道徳的であるべきか?」 (道徳と直感の関係について) by ジェリー・コイン

 

 今回紹介するのは、無神論者で進化生物学者のジェリー・コインが自身のブログで2013年に発表した、道徳と直感の関係について議論している3つの論文と1つの本を取り上げた記事。

 

How should we be moral?: Three papers and a good book « Why Evolution Is True

 

 心理学と哲学の話題である。哲学に関する部分では、訳語の選択に困ったり、うまく翻訳できなかった箇所もある。

 以下は、記事の要点を私なりにまとめたもの。

 「私たちに備わっている道徳感情は、進化の産物であるところが大きい」

 「進化で備わった感情は祖先たちが暮らしていたサバンナの少数集団という限定的な環境に適応したものであって、現在の社会における異なった様々な状況では、感情ではなく理性による判断が求められる」

 「道徳についてのカント的な義務論は、私たちに備わっている直感を合理化・正当化したものに過ぎない。義務論ではなく、理性的な推論が要請される帰結主義こそが、我々が採用すべき道徳理論である」

 

 

「我々はいかに道徳的であるべきか?」 by  ジェリー・コイン

 

 道徳に関心がある人のための課題図書を紹介しよう。無料でダウンロードが可能な3つの論文(リンクは文末に貼ってある)と、1つの本だ。論文は自然的な事柄についても書かれているものであり、道徳だけでなく神学についての私の考え方にも多大な影響を与えてくれた。

 

 3つの論文は、いずれも素人にとっても理解しやすいものだ。内容は明快で、上手に書かれている。グリーンの論文はやや長いが(本文の後には反駁文も含まれている)、道徳の自然的な本質に関する最近の議論について考えを巡らせている人にとっては、読むのが欠かせない文献である。道徳は何に由来しているのか(認識的な由来と、進化的な由来)、道徳はなんらかの意味で客観的で有り得るか、という議論だ。 

 

 まだ、私は道徳性や道徳法則が科学的な意味で「真実」に成り得るとは考えていない。道徳は、なんらかの価値の体系を最初から前提としているからだ。しかし、そのことは置いておこう。以下で紹介する文献は、少なくとも、私たちが自分の道徳的本能を信頼して従うべきか否かについて考えさせてくれるものである。

 

 まず私が言っておきたいことは、多くの妥協派(訳注:科学と宗教は妥協すべきだ、と主張している人たち)が、「道徳律」の存在は進化や社会的合意で説明することはできないから、道徳律は神によって我々に注入されたものである筈だ、と主張していることだ。そのような主張をしている人の中でも最も有名なのは、米国国立保健研究所所長のフランシス・コリンズだ。「道徳律」とは、私たちに備わっている、道徳についての直感的な感情のことである(たとえば、「トロッコ問題と歩道橋問題」で発生させられる感情のことだ)。もちろん、私はこの意見に賛同しない。グリーンや他の著者たちと同じように、直感的な道徳は小さな社会集団における進化が生み出したものである可能性が最も高い、と私は考えている。道徳の大部分は、血縁淘汰や個人淘汰によって進化した、我々の先祖たちが暮らした小さな集団において個人が生き延びるための先天的な感情と行動によって構成されている、ということだ。それほど違いのないシナリオにおいて我々の直感的な道徳がいかにして非常に違った判断を下すかということを知りたいのなら、ジュディス・J・トムソンの見事な本に書かれた「トロッコのジレンマ」と「歩道橋のジレンマ」について読むべきだ。*1

 

 ともかく、論文について話そう。 

 

 論文の要点は、以下の通りだ。

 

・グリーンの論文は、主に、道徳についての主要な2つの理論について論じたものである。2つの理論とは、義務論(カントが主張しているような、人は「道徳的規則と権利」に従わなければならないのであり、それが「福祉」に与える最終的な影響がマイナスになるとしても従わなければならない、という主張)と、社会に特定の種類の結果を与えるものや行為が「道徳的」であるとする帰結主義功利主義など)である。帰結主義は、多くの場合、福祉や幸福などの最大化を求めている。

 

・グリーンは、道徳について義務論的な感情は我々の直感的な道徳判断を具体化したものであり、大部分が進化の産物である、と主張している。義務論が理性的ではなく直感的である理由は、祖先たちが過ごした環境においては判断は素早く下される必要があったために、進化が「大ざっぱで手短な方法(rules of thumb)」を優先したからである。単純に、祖先たちには自分の行動がもたらす結果を測るための時間がなかったのだ。

 

 ・グリーンとシンガーの二人とも、私たちはもはや祖先たちが暮らしたような環境には暮らしていないのだから、私たちが道徳について直感的に下す判断も最適なものではなくなっている、ということを指摘している。(同じように、私もこのことを最近指摘した。私は哲学の初心者なので、他の人たちがこのことについて完璧に論じていた、ということを知らなかったのだが)。グリーンとシンガーの両方が参照している事例には、トロッコと歩道橋の問題が含まれている。暴走しているトロッコが5人を轢き殺そうとしている時にスイッチを切り替えて1人しかいない線路にトロッコを誘導することは、道徳的に問題がない、と私たちは直感的に思う。しかし、5人を轢き殺そうとしている電車を止めるために、横にいる太った男を歩道橋から線路に突き落とすことは(あなた自身はトラックを止めるには痩せ過ぎている、ということが前提だ)、不道徳であると本能的に感じられるのだ。だが、どのように理性的に考えても、二つの事例の結果は一緒なのである。これが、義務論と帰結主義の間の違いだ。

 

 シンガーは、太った男を線路に突き落とすことは不道徳ではないかもしれないが、そのことを公表することは賢明ではない、という点を指摘している。道徳的に行為することとそれを公表することの間には違いがあり、後者はあなたが望んでいない結果をもたらすかもしれない。しかし、歩道橋問題とトロッコ問題との間で、なぜ私たちが抱く感情に違いがあるのだろうか? 私たちの道徳感情は、私たちの祖先が他人との距離が近い小さな社会集団で暮らしていた時期に進化したために、太った男を突き落とすことについて私たちは道徳的な嫌悪を抱くのだ、とグリーンは主張する。サバンナにはトロッコが存在しなかったのであり、トロッコ問題のように行為の結果を受ける人が遠くにいる場合には、私たちには本能的な反応が起こらない。私たちが本能的に感じたり行動したりしない場合には、私たちは結果について考えることが可能となる…そして、これが帰結主義である(もちろん、グリーンとシンガーの二人とも帰結主義者だ)。

 

 今日の社会では帰結主義は義務論よりも道徳の根拠として適したものである、とグリーン、シンガー、ハイトは考えている。帰結主義は本能的な判断ではなく、理性的な思考を行うものであるからだ(3人とも、少なくとも彼らが論文を書いた時点では、帰結主義が道徳の客観的な体系であるとは主張していない。…帰結主義は他よりも社会的に良い結果をもたらす、と主張しているのだ)。

 

・多くの人は道徳判断を下す時に義務論的に振る舞う、ということについてハイトは数多くの証拠を挙げている。たとえば、多くの人は、予防的な罰・加害者の更生・悪人を社会から隔離することよりも、報復的な罰を与えることを好んでいる。具体例は以下の通りだ。

 

「1993年のある研究では、バロンとリトヴォは、企業に罰金を払わせることが可能である架空の企業責任についての事例を、被験者に提示した。ある事例集は、一人の子供がインフルエンザワクチンを接種した結果死亡したために、ワクチンを製造した会社が起訴された、というものだ。この事例には様々なケースがある。ある例では、罰金がポジティブな抑止効果をもたらすように設定されていた。罰金によって、会社はより安全なワクチンを製造するようになる、というものだ。別の例では、罰金が「逆向き」の効果をもたらすように設定されていた。この場合、会社は安全なワクチンを製造するのではなく、ワクチンを製造することを一切止めてしまう。また、他の会社も同様のワクチンを製造することはできない。問題となっているワクチンが危害よりも利益の方を多くもたらすものであるという設定をふまえると、会社がワクチンの製造を中止することは、悪い結果である。被験者たちは、二つのケースそれぞれについて罰金を与えることが適切であるかどうか、二つのケースで与えられる罰金額は違ったものべきであるか、ということについての意見を質問された。被験者の多数派は、罰金の金額はどちらのケースにおいても等しくあるべきだ、と答えた。」

 

 報復的な罰は、帰結主義的ではなく義務論的なものだ。報復を好む人たちは、それが社会にもたらす結果を気にしない。社会的な結果に関わらず、間違いを犯した人に罰を与えることは自分たちが従うべきルールである、という先天的な感情を持っているのだ。

 

  グリーンとシンガーは、社会に有害な影響を与える訳ではないにも関わらず、不道徳だという直感のために拒否される物事の事例を挙げている。食料品店で買った鶏肉を料理して食べる前に自慰に使用する男性、家のトイレを掃除するのにアメリカ国旗を使用する女性、母親が死んだら毎週彼女の墓を訪ねるという約束を守らない男性、などの事例だ。これらの事例に対する拒否も、本能的なものである…義務論的であって、帰結主義的ではない。拒否感は、"なにか"が間違っているという本能的な情動からもたらされるものである。しかし、これらの事例がもたらす結果は、社会的には問題ないものなのだ。

 

 ・悪い結果をもたらす訳でもない物事について、なぜ、私たちは上述したような道徳判断を下してしまう(そして、その判断について深く考えたくもない)のだろうか?グリーン、シンガー、ハイトのいずれも、本能的な判断は大部分が進化の産物であると考えている。とはいえ、ある判断を下したなら、その判断を下した理由を正当化や言語化しなければならない。鶏肉で自慰をすることや母の墓を訪ねる約束を守らないことがなぜ不道徳であるのか、説明を求められると、人はその理由を考えつく…多くの場合は、説得的なものではないが。3人の著者たちは、この事後的なルールは「作話」の例であると考えている。自分の本能的な感情を正当化するために、ルールを後から作り出しているのだ。このことを踏まえると、義務論は道徳の土台としてはかなり頼りないものであるように見える。もはや我々に訪れることもないかもしれない状況で進化した本能に、いまだに頼っているだけだからだ。それよりも帰結主義の方がずっと良いという点で、3人の著者は合意している。帰結主義では、現代の社会の状況をふまえて理性的な推論をすることが求められるからだ。

 

・ハイトの論文には可愛いらしい題名が付けられているが(訳注:「感情的な犬とその合理的な尻尾」)、この論文は私たちが下す判断のどれほど多くが理性ではなく感情に基づいているのか、ということについてのものだ。ハイトは、彼自身の研究から多くの事例を挙げている。論文の要点は、道徳的判断において私たちは感情的な犬(本能的な道徳感情)に合理的な尻尾(理性的な判断)を振らせているのであり(訳注:感情が本体になっていて理性は感情に従っている、ということ)、それは良いことではない、ということだ。直感的な判断について事後的に作話することと、人々に自身の作話を取り下げるように説得するのは難しいということに関して、ハイトは上手なアナロジーを書いている。

 

「道徳推論は一般的には自動的な道徳感情を正当化するために後から構成されるものだとしたら、私たちの道徳的生活は二つの幻想に囚われていることになる。最初の幻想は「尻尾が犬を振る」幻想であり、私たちの道徳推論(尻尾)が道徳判断(犬)を導いている、という幻想だ。二つ目の幻想は「他の犬の尻尾を振る」幻想である。道徳的な議論において、相手の議論に対して反証することに成功すれば相手の意見は変わるだろう、と我々は期待している。このような考えは、犬の尻尾を両手で無理矢理揺らすことが犬を嬉しくさせる、と考えているようなものだ。」

 

 

 私は論文の著者たちの分析に同意せざるを得ない。私自身も帰結主義者であり、(訳注:有名な新無神論者の)サム・ハリスと大体同じような考えを共有している。しかし、私はサム・ハリスのように帰結主義の道徳が客観的なものであるとは考えていない。私は、単に、円満な社会を実現するためには帰結主義に従って振舞うのが最良であると思っているだけだ。私は「道徳的な行為」という単語を使うのは止めてしまうべきだとも思っている(私の他にこの意見に賛同する人を見たことはないのだが)。

 

 神学の話をしよう。私たちの本能的な道徳判断は神の存在する証拠である、と考える人がいるとは思えない。文化人類学者や霊長類学者(フランス・ドゥ・ヴァールが最も有名だ)による最近の多くの研究が示しているように、人間の道徳的な振る舞いは、人間の近い親戚である霊長類たちにも痕跡が見受けられるものである。

 

 だが、グリーンや他の著者たちが道徳の義務論者が行うものであるとしている種類の作話・正当化は、神学者たちが行っているものでもある、ということを私は発見した。神学者たちは、身に染みた宗教信念から話を始めることが多い…彼らの宗教信念は、進化によって獲得されたものではなく、両親や仲間たちから教え込まれたものである。そして、彼らは自分の身に染みている宗教信念を正当化するために、ある種の洗練された作話を行う。その作話こそが「神学」と呼ばれているものだ。神学について読めば読むほど、自分の子供じみた(あるいは、無邪気で純真な)信念を合理化するための教育を受けた大人たちが神学者なのである、と私は確信を抱く。

 

 読者の方々には、以下にリンクを貼った3つの論文とトムソンの本(少なくとも、「トロッコ問題」について書かれた二つの章)を読むことを強くお勧めする。これらの論文や本について公平に紹介できていることを望む。もし1つしか読むことができないなら、グリーンの論文を読むべきだ。しかし、3つの論文は、共に読まれるべきものである。論文を読んだ後にはトムソンの本を読んで、トロッコ問題や他の多くの興味深い道徳問題について学ぼう。あなたはきっとこれらの論文や本を楽しめるだろう。また、あなたが論文や本の前提を否定することになったとしても、あなたは論文や本の内容について考えざるを得ないはずだ。

 

 

論文と本のリンク

 

ジョシュア・グリーン 「カントの魂に隠されたジョーク」

The Secret Joke of Kant's Soul (PDF) — Joshua Greene

 

ジョナサン・ハイト「感情的な犬とその合理的な尻尾」

http://www.motherjones.com/files/emotional_dog_and_rational_tail.pdf

 

ピーター・シンガー 「倫理と直感」

http://www.utilitarian.net/singer/by/200510--.pdf

 

 

ジュディス・ジャービス・トムソン 『権利、 賠償、リスク』

Rights, Restitution, and Risk: Essays in Moral Theory

Rights, Restitution, and Risk: Essays in Moral Theory

 

 

訳注:グリーン、ハイト、シンガーの単著はそれぞれ邦訳されている。特にシンガーの著書は数多く翻訳されているが、道徳と(進化的な)直感という話題だと『現実的な左翼に進化する』が最も関連深いだろうか(訳者あとがきがイマイチなのだが)。

 

 

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)

 

 

 

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学
 

 

 

現実的な左翼に進化する 進化論の現在 (シリーズ「進化論の現在」)

現実的な左翼に進化する 進化論の現在 (シリーズ「進化論の現在」)

 

 

 

 

 

 

 

「植物は痛みを感じるか? 生物学者に訊いてみた。」

 アメリカのVICEというwebページに掲載された、植物学者のダニエル・チャモヴィッツ氏へのインタビュー記事を私訳。

 チャモヴィッツ氏の著書は翻訳もされており、植物が痛みを感じるかということや植物への倫理的配慮などの論点は160ー164ページにて触れられている。

 

 

 

www.vice.com

 

植物は痛みを感じるか?生物学者に訊いてみた。

 

(訳注: 記事の冒頭では、アメリカの中絶論争と、胎児が痛みを感じるかどうかという議論について軽く触れられている)

 

 …しかし、感じることが確実にできる存在とは何なのか、私たちは知っているのだろうか?少なくとも、植物学者のダニエル・チャモヴィッツ氏によると、植物は感じることができるらしい。チャモヴィッツ氏はイスラエルテル・アビブ大学の生命科学部の学部長で、『植物はそこまで知っている』という本を書いている。

 

 私たちは、植物が感じることができるもののなかに痛みが含まれているかどうかを知るために、チャモヴィッツ氏の下を訪れた。もし植物が痛みを感じるとしたら、中絶論争に大きな反応が起こるはずだ、と考えたからだ。言うまでもなく、完全菜食主義(Veganism)に新しい論点を与えることにもなるだろう。

 

 Q: 私は、オジギソウと呼ばれる植物が、明らかに何かを感じている様子を撮影した動画を見ています。誰かの手が触れると、オジギソウの葉っぱが閉じていきます…

(訳注:動画は原文のページの冒頭に掲載されている)

 

A(ダニエル・チャモヴィッツ):その動画でオジギソウに触れているのは、私です。

 

Q:オジギソウは触れられたことを感じているんですよね?

 

A:はい、オジギソウは触れられたことを感じています(Feel)。気付いている(Aware)と言ってもいいでしょう。しかし、オジギソウは触れられていることを気にしません(doesn't Care)。葉っぱが切り落とされている時には、葉っぱはそのことを知っていますし、反応もします。しかし、その反応は「なんてことだ!また同じことが起こったら、僕はどうなるんだろう?」というように複雑なものではありません。

 

Q:オジギソウは他の植物とは違いますか?

 

A:オジギソウとハエトリグサには、葉枕と呼ばれる、運動を行うための特別な器官があります。他の植物には葉枕はありません。しかし、分子のレベルで見ると、葉枕が接触に反応する仕方は枝が接触に反応する仕方と同じものです。

 

Q:オジギソウが動くのを妨害したら、オジギソウは動くのを止めますか?

 

A:特定の薬品(人間用の薬品です)をオジギソウに付けることができます[備考:メトキシフルラン、クロロフォルム、ハロタン、エンフルラン、セボフルランなどの麻酔薬]。薬品を付けた後にオジギソウに触っても、オジギソウはもう閉まりません。

 

Q:この植物をいじめるために科学者が他にしたことはありますか?

 

A:人間の足に電気ショックを与えると、足が跳ね上がることは知っていますよね?オジギソウとハエトリグサも、電極を付けて葉を通じて電荷を送ると、葉を閉じていきます。

 

Q:オジギソウはそれを嫌がりますよね?

 

A:人間中心的になって「ああ、植物も痛がるよ!」と言うことは簡単です。しかし、私に確認できるのは、一つの生物学的な現象であり、そこにスピリチュアルな要素は全くありません。全ての生物は電気を使います。脱分極と呼ばれるものです。これは太古から存在する生物学的な機能です。私たちの神経も電気を使います。

 

Q:オジギソウやハエトリグサではない植物も、電気信号を持っているんですか?

 

A:アブラムシが葉っぱを攻撃する時、植物に電気信号が誘発され、身を守ることを開始するために葉から葉へと信号が送られることが知られています。この電気信号の伝播の仕方は、神経系で電気信号が伝播する仕方と非常によく似ています。そして、植物は神経系なしで電気信号を送ることができるのです。ここで覚えてもらいたいことは、神経系は情報を処理する方法の一つではあっても、唯一のものではない、ということです。

 

Q:なるほど。すると、神経系が無いとしても、植物は損傷を感じている‥‥実質的には、痛みを感じているのではないですか?

 

A:損傷(Damage)は必ず痛み(Pain)となる、という考えは間違っています。私たちが痛みを感じるのは、侵害受容器と呼ばれる特定の受容器が私たちに備わっているからです。侵害受容器は、接触ではなく、痛みに反応するようにプログラムされています。遺伝的な機能障害のために侵害受容器を持っておらず、圧力は感じても痛みを感じることは絶対にない、という人も存在します。

 

Q:でも、あなたは植物が「気付いている」(Aware)と言いました。では、植物は損傷を「認識している」(Cognizant)のではないですか?

 

A:いいえ。私は、認識という言葉を使うのを拒否します。認識とは何なのであるかについて、私たちは何も理解していません。全く理解していません。植物は認識をしません。私たちが葉っぱを切り落とす時、私たちは植物が苦しんでいるだろうと思ってしまいます。しかし、それは、私たち自身が事態を擬人化しているのです。

 

Q:つまり、植物は苦しんでいないかもしれないが、もがいて抵抗している。

 

A:全ての有機体は、恒常性を維持しようとしますし、そのためには何でもします。しかし、そこに苦しみ(Suffering)が存在するか?苦しみとは、私たちが物事に与える定義です。ニレの木が山の頂上と谷間に生えているとしましょう。風の強い山の頂上では、ニレの木は短くなり、枝と葉の数は少なくなり、幹は太くなります。普通のニレの木のような高さと枝の数のままであったなら、風に吹き倒されてしまうからです。つまり、縦方向への成長を抑制して、幹の周囲の寸法を増加させることで、植物は風に対して能動的に反応する訳です。損傷に対する反応のようなものではない、能動的な反応です。植物は、生き延びるために自らの反応を変化させているのです。

 

Q:植物は学習することはできるのですか?

 

A:植物には記憶があります。植物は情報を蓄えて、思い出します。しかし、植物が精神科医に相談に行くことはありません。ハエトリグサが最も明白な例でしょう。ハエトリグサは、大きな花糸が生えた、大きく開いた裂片を閉じます。ハエトリグサの裂片は二つの葉があるように見えますが、実際には一つの葉です。虫が近付いてきて、ハエトリグサの二つの花糸に虫が触れたら、ハエトリグサは葉を閉じます。虫が一つの花糸にしか触れていない時には、ハエトリグサは閉じません。虫が花糸の一つに触れてから這い続けていると、やがて二つ目の花糸に触れます。虫が20秒以内に二つの花糸に触れたなら、ハエトリグサは葉を閉じます。20秒以内に二つの花糸に触れたということは、その虫は大きな虫であり、葉を閉じるエネルギーを消費するのに価する虫である、ということだからです。もし二つの花糸に触れるのに時間がかかり過ぎたなら、その虫は小さすぎて、閉じるエネルギーに見合わないかもしれない。ハエトリグサは、大きな虫しか食べたくないのです。

 

Q:それのどこが記憶なんですか?

 

A:短期記憶ですよ!数秒間で、記憶は消えます。これが、ハエトリグサが虫を取る時に起こることです。まず、最初の花糸が触れられる。20秒間だけ、ハエトリグサは接触されたことを覚える。それが過ぎると、ハエトリグサは接触されたことを忘れます。

 

Q:つまり、私がお話をちゃんと理解しているとすると、植物は比喩的にではなく実際に感じることができる。しかし、植物は痛みを感じない。これで合っていますか?

 

A:植物は侵害受容器を持っていません。植物は圧受容器を持っていて、自分が接触された時や動かされた時にはそのことを知ることができます。植物は機械受容器という神経細胞を持っているのです。

 

Q:はっきりさせておきましょう。植物は自分が損傷されている時はそのことを知っているんですよね?

 

A:あなたは、明確に植物を殺すことができます。しかし、植物はそのことを気にしません。(You can definitely kill a plant, but it doesn't care.)