道徳的動物日記

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読書メモ:『饗宴』

 

饗宴 (光文社古典新訳文庫)

饗宴 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 哲学系の文章を書いているものとしてはあるまじきことかもしれないが、プラトンの本をまともに読むのはこれがはじめて。

 

 おじさんたちがお酒を飲みながらエロス(恋愛)について自説を代わる代わる開陳していくという形式であるが、人によって主張の内容だけでなくその展開の仕方や対象としている物事の射程が違っているという点がなかなか面白い。一般的な恋愛(といっても古代ギリシアの同性愛・少年愛がメインだけれど)の話をする人もいれば、神話的な話に終始する人もいたりする。

 個人的には第3章の「パウサニアスの話」がいちばん面白かった。

 

考えてみてください。たとえば、求愛行為は、隠れて行うよりも公然と行うほうがよいと言われています。また、たとえ容姿は劣っていても、このうえなく家柄がよく、優れた少年に求愛するのが、特によいことだとも言われています。さらにまた、求愛する者は、あらゆる人から、驚くほどの励ましを受けます。彼がなにか恥ずべきことをしているとはみなされないのです。すなわち、相手を自分のものにするのは美しいことであり、自分のものにできないのは恥ずべきことだと考えられているわけです。また、求愛する人が、相手を自分のものにしようとするときには、彼がどんな常軌を逸した行為をしても賞賛されるのがならわしになっています。ところが、もし誰かが、なにかそれ以外の目的を達成しようとして、そうした行為をするなら、その人は、たいへんな非難を浴びることになるのです。

(p.56 - 57)

 

さて、このようなわけで、わたしたちの〔アテネの〕決まりにおいては、少年が、自分を愛してくれる人に美しく身をゆだねようとするなら、その方法はただ一つしかありません。わたしはさきほど、求愛する人が、少年に対してどのような奴隷的行為をしようとしたとしても、それは媚びへつらいでもなければ、非難されるべきことでもないと申しました。それと同じように、わたしたちの〔アテネの〕決まりでは、自発的に行っても非難されることのない、もう一つの奴隷的行為が残されているのです。すなわち、徳を手に入れるための奴隷的行為です。

(p.61)

 

それでは、以上と同様の考えかたで、今度は次のような事例を考えてみてくださいーーある少年が、自分に求愛してきた人を優れた人物だと思い、彼と親密な関係になれば、自分も優れた人物になれると考え、その人に身をゆだねた。しかし、少年はだまされていた。彼はじつは凡庸な人間であり、徳を持っていないことが判明した。

この事例において、少年はだまされていました。しかし、にもかかわらず、それは美しいのです。なぜなら、この少年は、徳を手に入れて優れた人物になるためには、誰にどんなことでもするという、自分の真実の姿を明らかにしていますが、そのような姿は、あらゆる事柄の中で最も美しいものだからです。このように、徳を手に入れるために身をゆだねるのは、なににもまして美しいことなのです。

(p.63 - 64)

 

 また、『饗宴』のなかでもおそらくもっとも有名な箇所である、第5章でアリストファネスによる「球体人間」論もやはり面白い。文字通りの意味でプラトニック・ラブをアツく語っているという感じだ。最近の映画だと『ハーフ・オブ・イット』の冒頭で登場していたのが印象深いし、たしか村上春樹の『海辺のカフカ』のなかでも言及されていた。

 

さて、少年を愛する人であれ、それ以外のどんな人であれ、自分の半身に出会うときには、驚くほどの愛情と親密さとエロスを感じ取る。彼らは、いってみれば、いっときたりとも互いのもとから離れようとはしない。彼らは、生涯を共に生きていく人たちだ。しかし、彼らは、自分たちが互いに何を求め合っているのかを言うことはできないだろう。彼らは単にセックスをしたいだけで、そのためにお互いに喜びを感じ、かくも熱心に一緒にいたがるというのか。誰もそんなふうには思うまい。彼らの魂が求めているのは、明らかに、なにかそれとは別のものなのだ。しかし、彼らの魂は、それが何なのかを言葉にすることができない。彼らの魂は、自分の求めるものをぼんやりと感じとり、あいまいに語ることしかできないのだ。

(p.86 - 87)

 

 俺たちにはわかる。この言葉を聞いて、その申し出を断る者や、別の望みを申し出る者など一人もいないだろう。むしろ、自分の聞いた言葉こそ、まさに自分が望み続けてきたことだと思うだろう。すなわちそれは、愛する人と一緒になって一つに溶け合い、二つではなく一つの存在になるということだ。なぜなら、これこそが俺たち人間の太古の姿であり、俺たち人間は一つの全体であったのだから。そして、この全体性への欲求と追求を表す言葉こそ<エロス>なのだ。

(p.88)

 

 一方で、主人公であるはずのソクラテスの話は、なんだか理屈が過ぎてあんまり面白くない。知恵への愛がどうこう言われもいまいちピンと響かないのだ。とはいえ、「エロスの道を正しく進み、美を目指すことで、真実の徳を生み出すことができる」(p.151~153)というのはそれはそれはでアツいものがある。

 

 アツいという点では、第10章の「アルキビアデスの話」の以下の箇所もよかった。

 

ぼくにとって、自分ができる限り優れた人間になることよりも大切なことはなにもありません。そして、この目的を実現するために、あなた以上に力になってくれる協力者は誰もいないと思っています。そのような人に身をゆだねないとしたら、ぼくは賢い人たちに対して、とても恥ずかしい思いをすることでしょう。それは、身をゆだねたときに、ぼくがたくさんの愚かな人たちに対して感じる恥ずかしさの比ではありません

(p.176)

 

 そもそも哲学の本を「ここがアツかった」「ここに共感できた」とか言いながら読む時点で間違っているような気もするのだけれど、現代の哲学の本とプラトンの本とではさすがにかなり乖離があるみたいだし、ひとりで読んでいてもこういう読み方しかできないのだから仕方がない(大学の授業とかでこの本を扱うときにはどんな読み方をするのだろう?)。