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道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

「セーフ・スペースの暴力」 by ブレンダン・オニール

時事問題 社会運動 ユダヤ・イスラエル関連

 

 今回私訳して紹介するのは、ブレンダン・オニールの「セーフ・スペースの暴力」。

http://brendanoneill.co.uk/post/137934715274/the-violence-of-the-safe-space

 (埋め込みを行うと記事の全文が表示されてしまうので、URLのみ掲載)。

 

 本人のブログに掲載されている記事である。オニールは編集者兼コラムニストであるようだ。

 アメリカの大学におけるPC運動や「マイクロアグレッション」に関する記事はいくつか訳してきたが、今回はイギリスについての話が主となる。事情はほとんど変わらないが。

 

「セーフ・スペースの暴力」 by ブレンダン・オニール

 

 1月23日、私はカリフォルニア大学アーバイン校にて行われた、言論の自由についての討論に参加した。以下は、私が討論の口切りに主張したことである。

 

 大学におけるセーフ・スペースについて最も衝撃的なことは、その危険さだ。評判の悪い考えを持っている人や、人々には評判の悪い意見を表明する権利があると信じている人にとって、セーフ・スペースは敵対的であり暴力的でさえもある。

 セーフ・スペースはアメリカとイギリスの大学で広まっている。学生たち…特にマイノリティの学生たちが偏見的な意見に基づいた言葉に晒されることのない、お目出度いセラピー・ゾーンとしてセーフ・スペースは表現されている。

 イギリスのある学生自治会は、学生たちが「脅しや断定から自由であり」常に「快適に感じられる」べき場所がセーフ・スペースであると表現した。セーフ・スペースは当たり障りのない言葉で正当化されている。人々が恐怖や嘲笑から解放される場所を用意しているだけのことだ、と。

 しかし、実際にはセーフ・スペースは醜悪で権威主義的な場所である。セーフ・スペースは脅迫によって支えられている。物理的な安全と道徳的順応主義についての新たなカルト信仰を侵害する人に対して、いまにも爆発しそうな脅威を与えることによって、セーフ・スペースは守られているのだ。

 イギリスにおける最近の事例について考えてみよう。学生たちは彼ら自身がセーフ・スペースと呼ぶ場所を作ったが、私には、間違った意見を持っていたり間違った態度をとっていると判断された人にとってアンセーフ・スペースに見える場所だ。

 先週のキングス・カレッジ・ロンドンにて、親イスラエルの学生たちによる会合に、反イスラエルの活動家たちが押し寄せた。彼らは窓を叩き、火災警報器を鳴らし、椅子を振り回した。会合の参加者に対して、活動家たちは「ナチス!」と繰り返し叫び続けた。大半はユダヤ人である学生たちによる会合を潰しながら「ナチス」と叫ぶのは、皮肉なことである。活動家たちは自己認識について深刻に失敗しているだろう。

 過激派の学生たちが親イスラエルの会合を潰した理由として主に挙げたのは、その会合は特定の学生に対して「攻撃的」で「痛ましい」ものであるからだということだった。つまり、会合はセーフ・スペースを侵害したのだ。大学内の安全を保つという名目で、特定のイベントが暴力的に中止させられた。ジョージ・オーウェル風に…戦争こそが平和なのであり、自由こそが隷属であり、暴力こそが安全なのだ。

 ケンブリッジ大学とゴールドスミス大学では、フェミニストの学生たちが、極左グループのパンフレットを燃やした。そのパンフレットはレイプを弁解して正当化するものであり、女性の学生にとって敵対的な状況をつくるのに貢献している、とフェミニストの学生は非難した。つまり、極左グループは女性たちを不安な気持ちにさせたので、彼らのパンフレットは公然と焚書されるべきだ、ということだ。学生に安楽を感じさせるためにファシズム的な脅迫を行う…オーウェル主義が続いている。

 昨年のロンドン大学では、 イラン人の世俗主義者であるマリアム・ナマジエがイスラム系団体の会員たちに嫌がらせをされた。彼らは、ナマジエに対して「お前は私たちのセーフ・スペースを侵害している!」と叫んだ。

 ナマジエはイスラム主義を辛辣に批判してきた人である。彼女が講演をしていると、巨体なイスラム主義の男性たちが立ち上がって彼女を怒鳴りつけ、パワーポイントの電源を切ってしまった。この男性たちがもたらした状況は、敵対的な環境と表現するのにふさわしいものだろう。しかし、問題のある考えを持った人からセーフ・スペースを守る、ということが彼らの行動の理由だった。カフカ的な状況だ。学生たちが知的に脅されていると感じることを防ぐという名目で、男たちの群れが女性を物理的に脅している。

 2014年には、私はオックスフォードで行われた堕胎についての討論に出席するのを妨げられた。私は「子宮を持っていない人」なので、私には女性の体について議論する権利はない、ということが理由だった。もし討論に出席できていたなら、私はプロ・チョイスを主張するつもりだったのだが。女性が自分の体について持っている主権が役人に口出しされるいわれはない、と主張するつもりだったのだ。

 300人以上ものフェミニスト学生たちが、討論は彼女たちの「精神的な安全」を害するものだ、と主張した。だから、彼女たちは討論に対して立ち上がり、「道具を用いて」でも討論を粉砕しようとしたのだ。学生の精神的安全を守るという名目で大学内で行われる討論の物理的安全に脅威を与えることについて、そこに存在する暗くねじれた皮肉に彼女たちは気が付かなかったようだ。恥ずべきことに、オックスフォードは学生たちの要求に屈服してしまい、会議は中止された。

 まだまだ続く。ものは焼かれて、人々は悩まされ、本・新聞・歌が「安全」の名目のために禁止される。「安全」を成立させるために威嚇や脅迫が行われる。安楽を名目にして不安が与えられる。脅威であるとされるものを攻撃するために脅威が用いられる。暴力こそが安全なのだ。

 イギリスの学生自治会はありとあらゆるものを安全の名目の下に破壊してしまった。ロビン・シックの歌「ブラードラインズ」は、女性の学生を不安に感じさせることが明らかであるという理由で、30以上もの大学で禁止された。メキシコ風の帽子はラティーノの人たちに対して敵対的な環境をもたらすので、いくつかの大学で禁止されている。一部の自治会は、学生用のバーで性的な音を出すことを禁止した。女性に不安を感じさせるからだ。

 アメリカの大学では、セーフ・スペースの旗の下に集まった学生たちの集団が、教授を叫びつけてジャーナリストをいじめている。今日のラディカルな学生たちはねじ曲がったスローガンを叫んでいる。「お前は私たちを不安にした、だから私たちはお前を破壊する」。

 セーフ・スペースがあまりにも多くの不安をもたらしていることが明らかになっている。「自尊心のための運動」というビロードの手袋の下には権威主義の鉄拳が潜んでいることが露わになっている。個人の自己尊重は他人の自己表現の権利を上回るという考え…セラピー的なカルトの暗黒面が現れている。

 大学における検閲の動因となっているのは、学生たちが深刻に抱いている、精神的な脆弱さ(ヴァルネラビリティ)の感情だ。彼らは何もかもを自分の精神的安全に対する脅威だと見なしてしまう。大昔に死んだ白人の老人の銅像、性的暴力について扱っている小説、ポップ・ソング…全てのものが、人を傷付ける可能性があると見なされている。

 この現象は「マイクロアグレッション」という概念に最もよくまとめられているだろう。マイクロアグレッションは、日常における罪のない会話ですらも危険であると捉えてしまう。近頃、オックスフォードの学生たちはセシル・ローズの銅像を撤去しようと試みている。学生たちによると、セシル・ローズの銅像は「環境的マイクロアグレッション」なのだ。無機物でさえも、自己に対する攻撃であると捉えられてしまう。

 これらの極端な精神的脆弱さは、恐るべき検閲の時代に私たちが突入していることを示している。過去には、私たちはイデオロギー的な検閲を行っていた。特定の政治的見解を優先するために他の政治的見解を抑圧する、という検閲だ。特定の信仰体系を擁護するために他の宗教を冒涜だと見なす、宗教的な検閲も存在した。現在では、セラピー的検閲が行われている。誰かが攻撃的・不快・自己尊重を傷付けると見なす何もかもを封じ込めたり悪魔視したりすることを目指す検閲だ。自尊心の暴政である。

 セラピー的検閲は過去の検閲よりも悪質である。セラピー的検閲の範囲は膨大であり、ほとんど全ての物事を検閲の対象とすることができる。雑誌、衣服、モニュメント、ジョーク、失言。自分自身が下卑た言葉や画像や物質から守られるための自分専用の冒涜法が存在するべきだ、というような気持ちを学生たちが感じているように思われる。小さなイエスたちの時代である。何かが自分の精神的健康を傷付けていると誰かが言えば、脅迫や脅威が存在することになる。

 大学の検閲官たちだけにセラピー的検閲の責任を負わせることはできない。実際には、多くの面で、セラピー的検閲はここ数十年に発展してきた文化の産物なのである。道徳的な自主性がすり減った文化、個人は脆弱でありセラピーによる補助なしではやっていけないと見なす文化、攻撃的になることが許される権利よりも個人の自尊心の方を大切に扱う文化。若者たちではなく、彼らよりも年上の世代によって発展させられてきた文化だ。この文化を作ってきた40代や50代の人々が、現在では大学の検閲を幼稚で滑稽だと笑いものにしている。

  勿論、自分たちの気持ちは他の人々の自由よりも大切だと妄想している小さな暴君たちを、私たちは嘲笑するべきだ。しかし、もっと進んだこともしなければならない。脆弱さの流行に対抗して、強固な個人主義と道徳的自主性の美徳を改めて主張しなければならない。自分の耳に入る言論を自立的に吸収し判断をして結論を下すことのできる能動的な主体として人間を捉えずに、言論によって形作られて傷付けられる客体として人間を捉える、厭世的な世界観に対抗しなければならない。

 セーフ・スペースは、恐ろしい落とし穴である。あなたは自分が好ましく思わない考えから一時的に解放されることを保証してもらえるが、その代償はあなたの個人性であり、あなたの魂だ。あなたが評判の悪い考えを黙らせようとすることは、その評判の悪い考えを抱いている人に対して不正を犯すだけでなく、あなた自身に対しても不正を犯すことになる。自分の論敵を相手にして反論を行い、その過程で自分自身の精神的・道徳的強靭さを育むことの権利と喜びから、あなた自身を遠ざけることになるからだ。自分自身を解放せよ…そして、セーフ・スペースを粉砕せよ。