道徳的動物日記

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「動物の苦痛の道徳的重要性」 by ロジャー・クリスプ

 昨日に引き続き、オックスフォードのPractical Ethicsのブログから、2015年6月に公開された、倫理学者のロジャー・クリスプ(Roger Crisp)の記事を訳して紹介。

 

blog.practicalethics.ox.ac.uk

 

「動物の苦痛の道徳的重要性」 by ロジャー・クリスプ

 

 最近、私はシェリー・ケイガン(Shelly Kagan)が「応用倫理協会」にて行った、「生物種主義の何が問題か?( ‘What’s Wrong with Speciesism?’)」と題された素晴らしいレクチャーに参加した。レクチャーの冒頭でケイガンは、人間以外の動物に関するピーター・シンガーのいくつかの著作を教材とした授業を教えているうちに、シンガーが擁護しているような「他の条件が同じであれば、動物の苦しみは人間の苦しみと同等に問題となる」という主張に自分は疑念を抱くようになった、ということを説明した。

 ケイガンは、私たちの多くは「ある生物種のメンバーであるかどうかは道徳的な関連性がある」と信じる「生物種主義者(speciesists)」である、というシンガーの主張を巧みに批判した。スーパーマンについて考えてみよう。彼が私たちとは違う生物であるからといって、スーパーマン[の苦しみなど]が私たちよりも重要ではないと考える人はいない。むしろ、私たちは「人格主義者(personists)」なのであり、非-人格である存在よりも人格である存在により重大な道徳的地位を付与しているのだ。

 二十世紀の後半、権利に関する哲学的著作群では、[ある存在に]権利を帰属させるための基準は何であるべきか…合理性、言語の使用、協力をする意思、感覚、それとも人間性?…ということに関しての議論が重ねられてきた。私からすれば、このような議論には正当な根拠は無いように思える。どの基準が正しいかということは、問題となっている権利が何であるかということによって変わってくるのだ。たとえば、投票する権利であれば、一定以上の合理性が必要とされるであろう。拷問されない権利は、感覚を持つということのみに依存するべきである。

 同様の論点は、道徳的地位に関する議論にも当てはまるように私には思える。人格である存在[person]は、彼が人格を持つということ[personhood]を理由にして、一定の種類の尊敬を払うように私たちに要求することができるかもしれない(たとえば、あなたは自分の飼い犬をぞんざいに扱うことはできない、など)。しかし、道徳に関するある一つの領域においてはある資質が問題になるからといって、その資質が道徳の全ての領域において問題になると考えるべきではないのだ。(この論点の概ねは、ケイガン自身が1988年に発表した論文「付与の誤謬(The Additive Fallacy)」によって鮮やかに指摘されている)。

 苦痛に関して本当に問題になる唯一のことは、その不快さであり、そしてどのように不快であるかということだ。苦痛を経験している存在が理性的であるかどうかは、その存在の人種や性別と同じく、その存在に苦痛を発生させることの不正さには関係がない。とすれば、人格主義は、人種主義や性別主義、そして生物種主義と全く同じくらい理不尽であり否定すべきものであるということになるだろう。

 

 

 参考:動物倫理に関するケイガンへのインタビュー動画。

 

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