道徳的動物日記

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「「ペット」:動物の家畜化に内在する本質的な問題」 by ゲイリー・フランシオン

 

www.abolitionistapproach.com

 

 今回紹介するのは、動物の権利論者・動物の権利運動家の、ゲイリー・フランシオンの記事。フランシオンはアメリカの法律学者で、法律において動物が「所有物」として扱われていることを批判し、動物を利用することを認める institution(制度・法令・慣例など)の撤廃を主張する「撤廃論者(Abolitionist)」である*1。日本語に訳されているフランシオンの文章としては、以下の本に収録されているものがある。

 

 

動物の権利

動物の権利

 

 

  

 動物の権利運動家がペットを飼っていることはよく批判・揶揄されるが*2*3、フランシオンがこの記事で論じているように、「ペットという制度や習慣自体が道徳的に問題であると考えて支持しない・廃止を主張する」ことと「ペットという制度や習慣が存在するために生まれてきた動物たちを、飼育することによって助ける」ことは矛盾せずに両立することである、と私も考えている。

 

 尚、フランシオンの「撤廃論」は、動物を利用する制度が例えどれだけ理想的であり動物の福祉が十分に考慮されているとしても撤廃するべきである、という主張だが、例えば「動物の福祉」論者や功利主義者(ピーター・シンガーなど)ならまた別の主張するだろう。「動物の権利」論であっても、理想的であり動物の福祉が十分に考慮されている状況なら、動物を使用する制度は認められる、と主張する理論もある*4*5。とはいえ、現在の社会に存在している畜産制度やペットに関する制度のほとんどは、理想的な状況とはとても言えず、動物の福祉は十分には配慮されておらず多大な苦痛や大量の殺害を動物たちに課している状況である。動物の権利を主張している人と動物の福祉を主張している人のほぼ全員が、現状には反対しているだろう。

 

 

「「ペット」:動物の家畜化に内在する本質的な問題」 by ゲイリー・フランシオン

 

 実際問題として、「ペット」のownership(持ち主であること/所有権)を認めるinstitution(制度・法令・慣例)に、動物の権利の理論と矛盾しないものは存在しない。「ペット」は所有物であって、彼らがどう扱われるかということは、最終的には彼らの「持ち主」の決定次第である。

 

 あなたがこのように質問したとしよう。「だけど、もし可能だったらどうする?つまり、仮定の話として、私たちが犬や猫の法的地位を変えることができて、彼らがもはや所有物でなくなったらどうする?犬や猫には人間の子供と同じような法的地位があるとしたら、犬や猫(や他の動物)を生産し続けて私たちの「ペット」として飼うことは、道徳的に正当化できるかな?」

 

 この純粋に仮定的な質問に対する私の答えは「ノー」だ。「ペット」を飼うために動物の家畜化(domestication)を続けることは、正当化できない。

 

 家畜化された動物たちは、生きるために必要なことの全てを人間に依存している。いつ食べたり飲んだりするか、食べたり飲んだりすることができるかどうか、いつどこで眠ったり安らいだりするか、少しでも愛情を受ける機会があるかどうか、少しでも運動できるかどうか、その他の色んなことが人間次第だ。人間の子供についても同じことが言えるかもしれないが、大半の子供たちはやがては成長して、自律して独立した存在になる。

 

 家畜化された動物たちは、人間たちの世界においても野生の世界においても部外者だ。彼らは、永遠に脆弱さ(vulnerability)の冥府のなかに存在しているのだ。彼らは自分の周りの環境がどのようなものであるかということを理解していないし、危害がもたらされるリスクと隣り合わせで、何もかもを人間に依存している。従順で奴隷的になるように、私たちが家畜を品種改良したのだ。また、実際には彼らにとって危害をもたらす特徴であるが、(訳注:可愛いらしいなどの理由で)人間を喜ばせる特徴を持つように(訳注:ペットを)品種改良した。私たちが家畜やペットをどれだけ良く取り扱ったとしても、彼らは私たちの世界のなかで身動きできずに縛られているし、そもそも私たちの世界に所属する存在ではないのだ。

 

 実際に存在している制度よりずっとマシになったとしても、そのような制度を正当化することはできない。 私と妻は5匹の保護犬(訳注:捨てられていたり野良になっていたりして、シェルターや保健所に保護された犬)と暮らしているし、そのうちの1匹は私たちが引き取ったときから健康に問題を抱えている。私たちは犬たちを愛しているし、可能な限り最大のケアや最良の扱いを彼らに与えてきたつもりだ。(聞かれる前に言っておくと、私たちの家族2人と5匹は、全員がビーガン(完全菜食主義者)である!)。犬たちと暮らすことを私と妻ほど楽しめる人は地球上に他にいないくらいだ。

 

 そして、責任持って飼育できる限りで、できるだけ多くの動物(どんな種であってもいい)を引き取って育てることを、私も妻も推奨している。

 

 しかし、例えば地球上に2匹しか犬が残っていないとして、人間がこれからも犬たちと暮らすことができるようにするために2匹の犬を繁殖させるかどうかの判断が私たちに委ねられていたとしたら、仮にそれから生まれてくる犬の全てが私たちの家の犬のように飼い主を持って愛情を注がれることが保証されているとしても、私たちは犬を繁殖させないことで「ペット」の所有に関する全ての制度を終わらせることを躊躇しないだろう。

 

 私たちは、自分たちと共に暮らす犬たちのことを、ある種のrefugee(難民・避難者)のように捉えている。私たちは犬たちのケアをすることを楽しんでいるが、彼らはこの世界に適応していないのであり、そのような生物を生産し続ける資格なんて人間は持っていないということは明らかだ。

 

 動物の家畜化に内在する本質的な問題についての私の議論に、多くの人が困惑するであろうことは理解している。しかし、それは年間で56億匹もの動物(この数字に魚は含まれていない)を殺して食べる世界、そして動物たちの殺害が彼らの肉や畜産品の味が美味しくて楽しめるからだという理由で正当化される世界に私たちが暮らしているからだ。この文章を読んでいる人の大半は、ビーガンではないだろう。動物を殺して食べることは問題ないとあなたが考えているなら、「ペット」として使用するために動物を家畜化することに関する抽象的な議論も、あなたの共感を呼ばないだろう。そのことは理解している。

 

 だから、もう少しだけ時間を割いて、完全菜食主義について議論している私の他の文章も読んでほしい。例えばこの記事だ。

The Problem With Single-Issue Campaigns and Why Veganism Must Be the Baseline - Animal Rights: The Abolitionist Approach

(訳注:動物実験やスポーツ・ハンティングに反対する運動も、完全菜食主義に基づかなければ矛盾があり、人々の賛同も得られない、と主張している記事)

 

(…中略。フランシオンがペット問題について論じているポッドキャストへのリンクが貼られている。…)

 

 あなたがビーガンでないなら、どうかビーガンになってほしい。ビーガニズムは非暴力(nonviolence)についてのことなのだ。まず、そして最も重要なことだが、ビーガニズムは感覚のある動物への非暴力である。それだけでなく、地球や環境への非暴力、そしてあなた自身への非暴力でもあるのだ。

 

 どんな動物であっても、あなたが動物を引き取って育てることが可能であるなら、どうかそうしてほしい。家畜化は道徳的に間違っているが、家畜化された動物たちはいまここに存在していて、そして彼らは私たちによるケアを必要としている。彼らにとっての彼らの生命は、私たちにとっての私たちの生命と同じくらい大切なのだ。