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道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

「工場畜産は人類史上最大の罪の一つだ」 by ユヴァル・ノア・ハラリ


www.theguardian.com

 

 今回紹介するのは歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari)がイギリスのGuardian誌に掲載した記事。

 最近邦訳が出たハラリの著書『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福( "Sapiens: A Brief History of Humankind" )』は、海外ではかなりの評判でベストセラーとなったようであり、ビル・ゲイツも書評を書いていたりする*1*2。私は半年前に原著をパラパラと流し読みしたのだが、進化心理学や世界史の本をある程度読んだことのある人にとっては既知で当たり前の部分も多くて、ちょっと退屈な本ではあった。ただ、この本の特徴の一つが世界の歴史を通じて人類の「幸福」の質や量はどのような変化していったかということを論じている点であり、それに伴って、人類と動物との関係や家畜たちの「幸福」についても論じられていた。

 畜産制度に関する議論では「家畜は畜産がなければそもそも存在しなかった。畜産によって家畜たちはいまやどんな野生動物よりも数多く存在しているし世界中に拡散している。遺伝子の目的とは自分たちの生物種や子孫を残すことであって、畜産制度は動物虐待であるどころかむしろ家畜たちを助けているのだ」みたいな俗流進化論っぽい言説をよく目にするが、ハラリはこのタイプの主張の誤謬を丁寧に指摘して反論している。この記事の内容も『サピエンス全史』に書かれている内容と重なっているので、紹介することにした。

 

「工場畜産は人類史上最大の罪の一つだ」 by  ユヴァル・ノア・ハラリ

 

 

 歴史を通じて動物は主な被害者であり続けたし、工場畜産(industrial farm)における家畜の扱いは歴史の中でも最悪の罪の一つである。人類が進歩していった道程には動物たちの死骸が散らばっている。数万年前ですら、一連の生態学的災害が石器時代に暮らしていた私たちの先祖によって既に起こされていた。人間たちが初めてオーストラリアに到着したのは4万5000年前だが、彼らそこにいた大型動物の90%をあっという間に絶滅させてしまったのだ。それはホモ・サピエンスが地球の生態系に重大な影響を与えた初めての事件であり、最後の事件ではなかったのである。

 人類はおよそ1万5000年前にアメリカを征服したが、征服の過程でアメリカに存在していた大型動物のうち約75%を絶滅させた。アフリカ大陸やユーラシア大陸からも莫大の数の生物種が失われたし、大陸の沿岸にある無数の島々でも動物たちは絶滅していった。数々の国々に残る考古学的記録は同様の悲劇を私たちに伝えてくれる。その悲劇は、ホモ・サピエンスの存在を示す証拠が欠片も残っていない時代、多様な大型動物たちが豊かに暮らしているシーンから始まる。物語の第二幕では、化石化した骨や槍の穂先の焚き火の跡などの証拠を後世に残した人類たちが登場する。そこからすぐに物語は第三幕へと移り、人間の男女が舞台の中央に立っていて、大半の大型動物たちは多くの小型や中型の動物たちを引き連れて舞台を去ってしまっている。合計すれば、地球上に存在していた大型陸生動物の50%を人間は絶滅させてしまった。それも、人間が初めて麦畑を植えたり、初めての金属器を作成したり、初めての文字を書いたり初めての硬貨を鋳造したりする前の出来事である。

 人間と動物との関係に起こった次の大きな事件は農業革命だ。農業革命とは、漂泊していた狩猟採集民たちが一つの地に定住して農業を行うようになるまでのプロセスのことである。農業革命にはそれまでの地球上には存在しなかった生き方の登場も伴っていた…つまり、家畜化された動物たちだ。最初の方は、家畜化が登場したことの重要性は低く見えたかもしれない。人類が家畜化に成功した哺乳類と鳥類は20種以下であり、それ以外の無数の動物たちは"野生"のままであったからだ。だが、世紀が過ぎるにつれて、家畜化という新しい生き方は標準的なものとなっていった。今日では、地球上に存在する全ての大型動物のうち90%以上が家畜である("大型"とは、少なくとも数キログラム以上の体重を持つ動物のことを意味している)。たとえばニワトリについて考えてみよう。数万年前まで、ニワトリは南アジアの小さな生態学的ニッチの外から出てこない珍しい生き物であった。今日では、数十億羽のニワトリたちが南極大陸を除いてほとんど全ての大陸と島々に存在している。家畜化されたニワトリは地球という惑星の歴史の中でもおそらく最も広く大量に拡散した鳥である。頭数という基準で成功を測るとすれば、ニワトリと牛と豚は動物たちの中で最も成功した存在であるのだ。

 家畜たちが生物種として集合的に達成した成功は他の生物種とは比べ物にならないが、悲しいことに、その成功の代償として個々の動物としての家畜たちは前例の無い苦痛を経験したのである。確かに、動物たちは多くの種類の痛みや苦しみを何百万年も前から経験している。しかし、農業革命は全く新しい種類の苦痛を創造したのであり、そして時代が経つにつれてその苦痛は更に酷いものになっていったのである。

 一見すると、野生に暮らす彼らの従兄弟や先祖に比べれば家畜化された動物たちはずっと良い状況にあるように思えるかもしれない。野生のバッファローは食料や水や隠れ家を探すことに数日間かけなければならず、ライオンや寄生虫や洪水や干ばつの脅威にも常に晒されている。対照的に、家畜された牛は人間に世話をしてもらい守ってもらえる。人間は牛や仔牛たちに食料や水や住処を与えるし、牛が病気にかかれば治療するし、捕食者や自然災害から牛たちを守る。たしかに、大半の牛や仔牛は遅かれ早かれ屠畜場に送られるだろう。しかし、屠畜場に送られるからといって牛たちの運命は野生のバッファローより悪いと言えるだろうか?ライオンに食べられることは人間に屠殺されることよりもマシなのか?クロコダイルの歯は鋼鉄の刃よりも思いやりがあるのか?

 家畜化された動物たちの存在を特に残酷なものとしているは、彼らの死に方ではなく、何よりもまず彼らの生き方である。家畜たちが生きる状況は二つの相反する要素によって形作られている*3。 一方では、人間たちは肉やミルクや卵や革や動物の筋力や動物を利用したエンターテイメントを欲しがっている。他方では、人間たちは家畜たちが長期間生存して繁殖することを確実なものとしなければならない。理論的には、このことは動物たちが極端に残酷な扱いを受けることを防ぐはずだ。農家が乳牛に餌や水を与えずに乳を搾ろうとすれば牛乳の生産量は下降するだろうし、乳牛自身も早期に死んでしまうからである。しかし、不幸なことに、家畜たちの生存と繁殖を確実にするのと同時に膨大な量の苦痛を家畜に与えることが人間には可能なのだ*4。この問題の根っこにあるのは、野生にいた先祖たちが抱えていた数多くの身体的・感情的・社会的ニーズ(needs, 必要)を家畜たちも受け継いでいることであり、それらのニーズは農場では全く必要とされていないということだ。農家たちは、経済的な代償を払うことなく慣例的に家畜のニーズを無視することができる。彼らは家畜をケージに閉じ込めて、家畜の角を切断して、母親とその子供を引き離して、奇形の家畜を選択的に繁殖させる。動物たちは多大に苦しむが、それでも家畜は生き続けて繁殖するのである。

 それはダーウィン的な進化論の原則と矛盾しているのではないだろうか?進化論は、全ての本能や衝動(drive)は生存して繁殖を行うために進化した、ということを前提にしている。では、家畜たちが繁殖を続けられるということは、彼らが抱く本当のニーズが満たされているということを証明しているのではないか?生存と繁殖に必要ではない"ニーズ"をどうして牛たちが持つことができるというのだ?

 全ての本能と衝動は生存と繁殖の進化的圧力(淘汰圧)に対処するために進化してきた、ということは確かに事実である。しかし、それらの進化的圧力が存在しなくなったとしても、形作られてきた本能や衝動はすぐには消失しない。一部の本能や衝動がもはや生存と繁殖にとって必要なものではなくなったとしても、それらは動物たちの主観的な経験を形成し続けるのである。今日の牛や犬や人間たちが抱いている身体的・感情的・社会的ニーズは現在の環境を反映しているのではなく、むしろ彼らや私たちの先祖たちが数万年前に直面していた進化的圧力が反映されているのだ。現代の人々はなぜこれほどまでに甘いお菓子を好むのか?私たちが21世紀初頭の世界で生きるためにはアイスクリームやチョコレートをたらふく食べる必要があるから、ではない。石器時代の先祖たちが熟して甘くなった果物を見つけた時には、できる限り早くできる限り大量にその果物を食べることが先祖たちにとっては最も合理的な行為だったからである(訳注:当時は糖分が貴重だったから)。なぜ若い男たちは車を無謀に運転して、暴力的な騒動に加わって、機密のwebサイトをハッキングしようとするのか?古代からの遺伝子的な指令に彼らが従っているからだ。7万年前には、命を賭してマンモスを追いかける若いハンターこそが、競争相手の男たちの誰よりも輝いて見えて地元の美人を自分のものとすることができた…そして、現代の私たちも、若いマンモスハンターのマッチョな遺伝子に捕らえられているのである。

 これと全く同じ進化論的ロジックが、工業畜産の下での牛や仔牛の生き方を形作っている。古代にいた野生の牛は社会的な動物であった。生存して繁殖するためには、野生の牛たちは効果的に仲間たちと関わり合い協力し合い競争し合わなければならなかったのだ。他の全ての社会的な動物と同じく、野生の牛たちも遊びを通じて社会生活に必要なスキルを学んでいった。仔犬も仔猫も仔牛も、そして人間の子供たちも、みんなが遊ぶことを愛している。進化が遊びへの欲求を彼らに植え付けたからである。野生の世界では、彼らは遊ぶ必要がある。遊ばなければ、生存と繁殖のために不可欠な社会的スキルを学ぶことができないからだ。もし仔猫や仔牛が遊びに無関心であるという特殊な突然変異を備えて生まれたとすれば、彼らが生存して繁殖する可能性は低いだろう。もし先祖たちが遊びを通じて社会的スキルを得ていなければ、子孫である彼らはそもそも生まれていなかったであろう。同様に、進化は、母親のそばにいることへの圧倒的な欲求を仔犬や仔猫や仔牛や人間の子供たちに植え付けた。母親と子供との絆を弱めるような突然変異は子供にとって死刑宣告に等しいのである。

 農家が若い雌の仔牛を母親から引き離して、狭くて小さなケージに仔牛を入れて、様々な病気に対するワクチンを仔牛に打って、食料と水を仔牛に与えて、そして彼女が十分な年齢になれば雄牛の精液で人工的に受精させるとして…その時、何が起こっているのか?客観的な視点から見れば、この仔牛が生存して繁殖することには、もはや母親との絆も遊び相手も必要とされない。人間の主人に世話をされるだけで、彼女は生存して繁殖することができる。しかし、主観的な視点から見れば、母親のそばにいることや他の仔牛と遊ぶことへの強い欲求を彼女は未だに持ち続けているのである。これらの欲求が満たされなければ、彼女は大いに苦しむのだ。

 これは進化心理学の基本的な教訓だ…数千世代も前に形作られたニーズは、現代に生存して繁殖することには必要とされなくなっても、主観的に経験され続ける。悲劇的なことに、農業革命は家畜たちの主観的なニーズを無視しながら家畜たちの生存と繁殖を確実に行わせる力を人類に授けてしまった。結果として、集合的には生物種としての家畜たちは世界で最も成功した動物となったが、同時に、個々の動物としての家畜たちは歴史上に存在してきた中で最も悲惨な動物となってしまったのである。

 最近の数世紀で伝統的な農業が工場畜産へと移り変わっていったことは、家畜たちの現状を更に酷いものにしてしまった。古代エジプトローマ帝国や中世の中国のような伝統的な社会では、生化学や遺伝学や動物学や疫学について人間たちが持っている知識は非常に限られたものであった。その結果として、人間たちの持つ操作能力も限定されていた。中世の村ではニワトリは家々の間を自由に走り回っていて、ゴミ捨て場で植物の種やミミズをついばみ、農家の納屋に巣を作っていた。野心的な小作人が鶏小屋に1000羽のニワトリを押し込めて満杯にしたとすれば、致死的な鳥類インフルエンザが蔓延して、全てのニワトリと大半の村人を死に至らしめる結果がもたらされていたであろう。どんな僧侶やシャーマンや呪術師であっても鳥類インフルエンザを防ぐことはできなかったはずだ。しかし、現代科学が鳥類やウイルスや抗生物質の秘密を解読してしまった後には、動物を極限的な生活環境に押し込めることが人間には可能になってしまった。ワクチン・薬物・ホルモン剤・農薬・中央式空気調和装置・自動餌やり機を用いることで、数十万羽のニワトリを小さく狭い鶏小屋に押し込めて前例のない効率で鶏肉と卵を生産することが現代では可能となっているのだ。

 このような工業畜産の下における動物たちの運命は、私たちの時代における倫理問題の中でも最も喫緊なものの一つとなっている。巻き込まれる存在の数という観点からすれば確実に最大の問題であるだろう。今日では、大型動物の大半は工業畜産の下で生きている。私たちが地球上の生き物を想像するときには、ライオンや象や鯨やペンギンを想像しがちだ。それはナショナルジオグラフィックの番組やディズニー映画や子供向けの童話としては正解かもしれないが、現実の世界ではもはや真実ではない。世界には4万頭のライオンが存在するが、それに比較すると、10億匹の家畜化された豚が存在している。世界には50万頭の象と15億頭の家畜化された牛が存在しており、5000万羽のペンギンと200億羽のニワトリが存在しているのである。

 2009年には、ヨーロッパに存在している野生の鳥の数は全ての種類を含めて合計16億羽であった。その同じ年に、ヨーロッパの畜産業界は19億羽のニワトリを飼育していた。世界中に存在する家畜の全て重量を合計すれば700メガトンであるが、人類全員の重量の合計は300メガトンであり、野生の大型動物の重量の合計は100メガトン以下である。

 これこそが、家畜の運命が倫理的に些細な問題ではない理由なのだ。家畜の問題とは、地球上の大型動物たちの大半に関わる問題なのである。世界についての複雑な感覚や感情をそれぞれに備えているのに、工業的な生産ラインの上に生きて死んでいく、数百億の感覚ある存在たち(sentient beings)に関わる問題なのだ。40年前、道徳哲学者のピーター・シンガーは記念碑的な著作『動物の解放』を出版した*5。『動物の解放』は畜産の問題についての人々の意識を変えることに大いに貢献した本である。歴史上の戦争が生み出した痛みと苦しみを全てを合計したものよりも多大な痛みと苦しみを工場畜産は生み出してきた、とシンガーは主張している。

 この悲劇においては、動物についての科学的な研究も陰鬱な役割を演じてきた。動物についての知識は増していったが、科学者たちは、動物の一生を操作してより効率的に彼らを人間たちの産業に奉仕させることにその知識を使ったのだ。しかし、同じ知識が、家畜たちは感覚のある存在であるという事実を証明してもきたのである。家畜たちは人間ほどには賢くないかもしれないが、彼らは確かに痛みや恐怖や孤独を感じている。彼らも苦痛を感じられるのであり、そして彼らも幸せになれるのだ。

 そろそろ、家畜たちについての科学的発見を心から受け止めるべきだろう。人間の力は増し続けているのであり、動物たちを傷付けたり動物たちのためになる行動をする能力も同時に増し続けているのである。40億年に渡って、地球上の生命は自然淘汰によって支配されてきた。現代では生命は人間による意図的な設計によって支配されるようになっている。近い将来、人間は生命科学ナノテクノロジー人工知能によって生命の有様を画期的に作り変えることができるようになるだろうし、それは生命そのものの意味を再定義するであろう。かように素晴らしき新世界を設計する際には、ホモ・サピエンスのみならず、全ての感覚ある存在たちの福祉(welfare)を考慮に入れるべきであるのだ。

 

 

 

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

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