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道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

動物の市民権:『人と動物の政治共同体』(1)

 

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

 

 

 原著は数年前に読んだことがあるのだが、スー・ドナルドソンとウィル・キムリッカの共著『人と動物の政治共同体 「動物の権利」の政治理論(原題:Zoopolis
A Political Theory of Animal Rights)』の邦訳をようやく入手することができたので、この本の第2章と第3章で論じられていることをさくっとまとめて紹介しょうと思う*1

 

 第2章のタイトルは「動物の普遍的な基本権利」で、この本の議論の前提となっている「動物たちは普遍的な権利を持っている」という主張が論じられている。

 著者らによると、動物たちは感覚を持つ存在であるために「自己性」を持っている。「内面から自らの生を感じ、さらにその生が良くなったり悪くなったりするのを感じられる存在は、物ではなく、自己なのである。そして、我々はその存在を、喜びや痛み、欲求不満や満足感、楽しみと苦痛、恐れや死といったものに対して影響を受けやすい、脆弱性に悩まされる存在として認識する」(p. 37)。そして、「…自分の生が良くなったり悪くなったりすることを内面で感じられる主観的経験を持つ存在…」に対しては、「…彼らに知性や道徳的主体性のような可変的な能力があることを知るまでもなく、彼らの不可侵の権利を尊重すべきであることがわかるのである」(p.43)とされている。要するに、感覚を持つという時点で全ての動物が不可侵の基本的権利を持っているのであり、感覚以外の能力(高度な認知能力や、道徳的主体として行動ができる能力など)の有無は関係ない、ということである。

 感覚を持つ存在は全て「自己」であるので基本的権利が認められるべきだ、という主張に対しては、自己よりも上位な「人格性(パーソンフッド)」という概念を持ち出して「人格性には人にしか見られない何らかのより高い能力が必要とされる」(p.38)と主張する、という反論がある。人間は単に感覚を持つだけでなく、「言語」や「計画の立案」や「熟慮したうえで道徳的討論を行う能力や、そのような討論を通じて到達した原則に従うと表明する能力」(p.39)などのより高度な能力を持っているのだから、人間が持っているような基本的権利は人間が「自己」であることではなく「人格」であることに由来するとすれば、「人格」でない動物たちは人間のような基本的権利を持っていない、という主張だ。しかし、一部の動物たちは上述した能力の一部を備えているし、なによりも、高度な能力を必要とする「人格」は認知症高齢者や知的障害者をはじめとした多くの人々を排除してしまう。また、乳幼児である頃から理性的討論を行える人なんて誰も存在しないことをふまえると「この意味での人格性を持つことが人権の根拠だとすると、全ての人に対して人権を不安定なものにしてしまうだろう」(p.40)。ということで、著者らは「人格性」を重視する議論を退けている。以降で「人格」という言葉が出るときにも、それは「自己」と同じ意味で使われるものとされており、感覚より高度な何らかの能力を持つ存在を意味している訳ではない。

 動物以外の「自然」…植物や無機物や生態系に関しては、それらの存在に対しても人間は何らかの道徳的義務を負っていると著者らは考えているようである(ただし、それが具体的にはどういうことを意味するかということは詳しく論じられていない)。しかし、植物や生態系は「自己」を持たない「物」なのであり、そのために人間と動物が持っているような基本的権利を持たない。「…自然を尊び、保護する十分な理由は沢山ある。しかし、これらの理由をランやその他の感覚の無い生命体の利益を保護するものとして特徴づけることは間違っている。主観的経験を持つ存在だけが、利益を得ることができ、あるいは、それらの利益を守るために義務づけられた正義の恩恵を受けることができる。岩は人格ではない。生態系も、ランも、1株のバクテリアも、である。それらは物である。それらは、損傷されることはあっても、不正義を被るのではない。正義とは、世界を経験する主体に与えられるものであって、物に与えられるものではない。感覚の無い存在は、尊重や畏敬、愛情、配慮の対象となるにはふさわしいが、主観性を欠いているため、公正な扱いを受ける対象でもなければ、正義を動機付ける精神である間主観性を持った行為主体でもないのである」(p.51)。

 その他、第2章では、「私たちは岩などの自然に対して強い感情を抱くことがあれば動物に対して強い感情を抱くこともあるが、前者は一方通行であるのに対して後者は二つの自己が存在する双方向的なものである」という話がされていたり、動物の権利と多文化主義との関係について触れられていたりする*2

「不可侵の権利」を主張する著者らは、功利主義を「…他者の善のために個人を犠牲する悪」(p.31)について説明できない(否定できない)理論であると見なし、「…生に対する人々の権利の強さは、より大きな善にどのくらい貢献しているかによって測られ」 (p.33)てしまうということで、退けている。功利主義は人や動物の死の比較考量を認めて、例えば若くて才能のある人の死はそうでない人の死よりも重い、あるいは高度な認知能力を持った(「人格性」を持つ)動物の死はそうではない動物の死よりも重いとするが、「人権革命は、まさにこのような思考法を否定するものである」(p.33)。

 ただし、人間や動物の生命や権利は常に不可侵である、とは著者たちは主張していない。『正義は一定の情況下でしか適用されない。ロールズは(ヒュームに従って)それを「正義の情況」と呼んだ。当為は可能を含意するのである。つまり人は、自分の存在を危険にさらさずに互いの権利を尊重することが実際に可能な時にだけ、互いに対して正義の義務を負う。ロールズはこれを「適度な希少性」の要求と呼んでいる。つまり、資源は無限ではないので、誰もが欲しい物を全て手に入れることはできないために、正義が必要となるのである。しかし、正義を可能なものにするためには、資源をめぐる競争が過酷なものであってはならず、適度でなければならない。自分の生存を危うくされずに私があなたの正当な要求を承認する余裕があるという意味においてである』(p.57-58)。要するに、船が難破して救命ボートの定員がいっぱいになってしまったので人だか犬だかを海に投げ捨てなければいけない場合とか、銀行強盗に人質をとられていて事件を解決するためには犠牲を出さなければいけない場合、あるいは極寒地域で人々が生存するためには動物を狩猟して肉や毛皮を採取する必要があるという場合などでは、不可侵の権利は成立しないので犠牲を出すのは許される、ということだ*3

 

 第3章は「シティズンシップ理論による動物の権利の拡張」で、この本の本題である「動物の市民権」というアイデアのあらましが述べられている。

 私たち人間はみんな「不可侵の権利」を持っているとしても、全ての人がいついかなる場所でも平等な配慮を受ける訳ではない。「拷問されない権利」「殺されない権利」「奴隷化されない権利」などのごく基本的で普遍的な権利はどんな場所であっても配慮されるべきだが、例えば自分の国に入国するのと同じように無条件に外国に入国する権利を私たちは持っていないし、外国で投票したり、外国のどこかの都市のまちづくり計画に対して口を出す権利なども私たちは持っていない。権利には「市民的権利」や「人民主権」という種類のものも含まれているのであり、「我々は普遍的な人権(特定の政治的コミュニティとの関係を問わない)とシティズンシップ(特定の政治的コミュニティの構成員であるかどうかに基づく)とを区別しているのである」(p.77)。政治的コミュニティの利害のために部外者の普遍的権利を侵害することは許されないが、政治的コミュニティの内部の者にしか保障されない様々な権利も存在しているのだ。また、外国人であってもその国に長年にわたって居住している人には他の外国人が持たないような何らかの法的権利や政治的権利が付与されることも多いので、1か0かの問題ではなく中間的な部分が存在する多層的な問題でもある。

 世の中には国境なき世界を是とするコスモポリタニズム的な思想も存在している訳だが、「民主主義や福祉国家というものは、信頼や連帯、相互理解を必要とするものであり、境界線で仕切られそこに根付いた政治的シティズンシップの感覚がない国境なき世界においては、維持するのが難しいかもしれない」(p.78)。ナショナル・アイデンティティや国民文化という要素を考慮しても、国という形式の政治的コミュニティは維持した方が良い、というのが著者らの考えである。

 過去の数十年に渡ってシティズンシップ論は大いに議論されてきており、「どのような立場の人々がどのような政治的コミュニティのどのようなメンバーとしての権利を持つべきか。様々な政治的コミュニティの境界線をどのように引くか。そうしたコミュニティ間の移動についてどこまで規制するか。様々な自治的なコミュニティ間の相互作用についてのルールをどうやって定めるべきか」(p.79)ということが論じられてきた。そして、シティズンシップ論の対象を動物たちにまで拡大し、政治的コミュニティの一員としての動物が持つ市民権を主張しようとするのが、著者らの試みである。

「シティズンシップ」という言葉には 1:国籍  2:人民主権 3:民主政治における行為主体  という意味が含まれている。現代の政治理論研究で特に注目されがちな「3」の意味でのシティズンシップは動物たちは持たないが、「1」と「2」の意味でのシティズンシップは動物たちも持っている、と著者らは論じる。政治的な行為主体ではない存在に政治的権利を与えることはできない、と主張する人はいるかもしれないが、そうすると子供や知的障害者といった人々もシティズンシップやそれに基づく権利を持たないということになってしまう(人格性を持たない存在は普遍的権利を持たない、という先述の主張と同様に)。「政治的な行為主体性の有無を、誰が市民であるかを決める閾値や判断基準として扱い、あれやこれやの主体性を発揮できない人々を非市民としての地位に追いやるようなことは重大な過ちである」(p.86)。

 そして、政治的な行為主体でない存在が持つ政治的権利はどのようなものであるかということを導きだすために、著者らは障害者の民主的政治参加に関する議論を参考にして論じていく。障害者運動は、通常の市民とは異なりコミュニケーションや討論を行うのが難しい障害者たちの利害や選好を様々な手段によって表明したり、健常者の協力によって議会やその他の政治プロセスに反映させるための様々な方法を生み出してきたりした。それでも障害者たちの政治的行為主体としての能力は健常者に比べると様々な限界があるが、健常者の政治的行為主体としての能力も、年齢や健康によって大幅に変わっていく。子供や老人の利害や選好を政治プロセスに反映するためには、障害者の場合と同じく、協力者に依存する必要が出てくるだろう。結局、多かれ少なかれ誰もが政治的行為主体としての能力に何らかの限界を持っているし、程度の違いはあるとはいえ誰もが他人に依存する必要があるのだから、政治的な行為主体である存在だけが市民権や政治的権利を持つとはいえない。とすれば、動物たちの政治的権利や市民権という発想も的外れではなくなるのだ。

  シティズンシップ論を動物に対して適応する意義のひとつは、動物の「普遍的権利」ばかりに注目していては論じることが難しい、様々な動物と人間との関係や人間のコミュニティにとっての各種の動物の位置付けという要素を反映することができることだ。また、これまでの動物倫理の議論の多くは動物に対する人間の消極的義務(動物を傷付けてはならない、動物を殺害してはならない、動物を人間の目的のために利用してはならない、などの「〜してはならない」という義務)を論じてきたが、動物との関係から生じる動物に対する人間の積極的義務(「〜をすべきである」という義務)についてはあまり論じられてこなかった。シティズンシップ論は動物に対する積極的義務についても光を当てることができる、というのが著者らの目論見である。

 著者らの分類によると、家で飼われているイヌやネコなどのペット動物や農場で飼われているウシやブタやニワトリなどの畜産動物を主とする、人間のコミュニティ内で飼育されている家畜動物は「市民」である。他方で、森や川や海などの自然に暮らす野生動物は外国人に近い存在だ。その中間に、リスやスズメやコヨーテといった、人間に飼育されている訳ではないが人間のコミュニティ内に出没する境界動物たちがいる。家畜動物と野生動物との間に位置付けられる境界動物に対して、著者らは「デニズン」という政治的地位を見出している*4。これらの属性を持つ動物はそれぞれにどのような権利を持っており私たちはそれぞれに対してどのような義務を負っているかということについては、第4章以降で個別に論じられていくことになる。

 従来の動物倫理は人間による抑圧や暴力から動物を「解放」させることを強調させてきたのに対し、著者らは人間のコミュニティ内で家畜動物を倫理的に処遇する方法を探ろうとする。野生動物についても、人間が行っている様々な活動が彼らの生息地を破壊したり食料を枯渇させていることなどを考慮すれば、自然の存在からといってただ単に放っておくだけでは野生動物に対する道徳的義務が果たされるとはいえない。『すべての動物を2種類に分類する考え方、すなわち野生に暮らす 「自由で自立した 」動物と、人間とともに暮らす「捕らわれの身で依存した 」家畜動物とに分けて考えるのは…』(p.95)的外れである、と著者らは主張する。ある種の野生動物の生存は人間の行動に大きく左右されることや、一部の希少動物の自然への復帰は人間の手に委ねられていることなどを考えると、野生動物たちは家畜動物よりも強く人間に「依存」している場合があるのだ。また、街中でゴミを漁るカラスや郊外や農地に出没するシカやイノシシなど、「害獣」と目されることもある境界動物との間に人間が築くことのできる道徳的関係性は、家畜動物に対するそれとも野生動物に対するそれともまた異なったものになるはずだ。…そんなこんなの具体的な各論については、次回以降、第4章以降の内容としてまた紹介していきたいと思う。

*1:第1章は全体のまとめ的な序論なので、ここではあまり触れない

*2:著者らによる動物の権利と多文化主義についての議論は、以前に紹介した

davitrice.hatenadiary.jp

*3:この判断はどう考えても功利主義的なものであるように思えるし、逆に功利主義であっても「正義の情況」が成立しているような場合に人や動物の生命を犠牲にすることを要求することはほとんどないように思えるので、功利主義に批判的な権利論者たちによるご都合主義的な議論のように私には思えてしまう

*4:デニズンは「永住市民」や「定住外国人」などの意味を含む言葉であるようだ