道徳的動物日記

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労働・やりがい・疎外・ベーシックインカムなどについての雑感

 

働くことの哲学

働くことの哲学

 

 

 

 ここ最近、仕事や労働や賃金、および財産の分配に関する哲学や思想史の本を何冊か集中的に読んできた*1
 それらの本を読みつつ自分でつらつらと考えてきたことを、軽くここに書いてみよう。

 

 多くの本で触れられており、私がとりわけ重要に思ったのは、「労働疎外」という概念だ。これはカール・マルクスが使っていたことで有名な用語である。辞書的な定義を引用するとこんな感じだ。

 

労働疎外(ろうどうそがい)とは - コトバンク

人間の労働は本来,自己の主体的・創造的エネルギーを発揮して自然に働きかけ,その工夫と努力が対象化された生産物の他人による享受を通して,人間が共同的な存在であることを確証する営みである。しかし賃労働を基礎とする資本主義の下では,生産手段と生産物は資本家の所有に属しているため,労働の成果は労働者を支配する新たな資本の蓄積に寄与し,労働の過程は物的資本としての機械に強制された苦役となる。

 

 また、労働が人間の精神にもたらす悪影響を示したものとしては以下のアダム・スミスの文章が印象的である(この文章のインパクトは強く、複数の本にて引用されていた。以下の引用は『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』からの孫引きとなるが、ページ数は失念した。元々は『国富論』に書いてあった文章であるかと思う)。

 

…ごく少数の単純作業だけで一生をすごし、その作業の結果がおそらくいつも同じかほとんど同じであるような場合、そうした労働者はむずかしい問題に直面することはなく、したがって問題の解決策を見つけるために知恵を働かせたり、工夫を凝らしたりする機会もない。その結果、頭を使う習慣をいつの間にか失い、およそ人間がなりうる限りで最低の無知と愚鈍に陥る。頭が鈍っているため理性的な会話を楽しむことができず、会話に加わることさえできない。そればかりか、寛大さ、気高さ、優しさといった感情も抱けなくなり、私生活上のごくふつうの義務の多くについてもまともな判断を下せなくなる。…

 

 
 さて、様々なメディアやSNSなどに書かれている文章を見てみると、現代の日本社会において人々が仕事や労働に関して持っている意見は、以下のようなものに二分できるように思える。

 

「仕事は自分の能力を発揮してそれに見合った報酬を得られる、充実した行為である。仕事は人生の中核にある営みであり、人生というものは“どのような仕事をするか”を中軸に据えて設計しなければならず、休日や余暇にもスキルアップやインプットを忘れずに、常により優れた成果を出せるような人間になることを目指して向上するべきだ。 」

 

または

 

「労働というものは生活のために仕方なくやるべきものであり、本質的には苦役であり、楽しいものではない。人生の中核は労働ではなく、趣味や遊びにあるべきだ。労働の楽しさや“やりがい”などを強調する言説はすべて欺瞞であり、幻想を与えることによって人を搾取しようとする罠である。そのため、労働には何も期待せずに賃金を得るためだけの行為だと割り切るべきであり、どんな仕事をするかは時間あたりの賃金の高さや残業の少なさなどの指標によって選ぶべきであって、終業後や休日だけを楽しみにして平日の仕事はやり過ごすべきだ。」

 

 ちょっと極端な要約の仕方になってしまったが、多かれ少なかれ、この二種類の意見のどちらかの考え方を抱いている人は多いように思われる。
 私自身の考えを書くと、前者のような労働観が当てはまる仕事…つまりやりがいがあり、費やした努力や成長させたスキルが仕事の結果と直結していて、人生の中核とするのに値する仕事…が世の中に存在していることは事実だと思う。ただし、その数は決して多くなく、すべての人がそのような仕事に就けるわけではない。そのような仕事に就けるかどうかは椅子取りゲームというところもあるし、環境や先天的な要因で最初からそのような仕事に就ける道筋がかなり狭くなっている人(またはその逆)もいれば、人生のある段階を過ぎたためにそのような仕事に就けるチャンスの扉が閉ざされてしまった人もいる。

 そして、世の中には人生の中核とするに値しない仕事も大量にあることは事実だ。そもそもの賃金が低く、費やした努力や成長させたスキルが成果に直結せず、労働の内容そのものに充実感もなければ、人間関係が広がったり新しい世界について知れたりなどの副次的なメリットもないような仕事である。
 もちろんこの分け方も極端であり、前者と後者との中間的なポジションの仕事もあるだろう。ある人にとっては向いておらず苦役でしかない仕事が別の人にとっては天職のように感じられることもあるだろうし、仕事に向き合う当人の態度や気の持ち方や性格次第で仕事の楽しさや苦しさはだいぶ左右されるかもしれない。…しかし、どうあがいても楽しさや充実感を得ることができない、何かの価値を見出すことが難しいような仕事が大量に存在することも否めないだろう。そして、AIの発達だか世界のグローバル化だか社会のネオリベラリズムだかが理由で、現代社会ではそのような仕事が増え続けている(ような気がする)。

 私自身は、諸々の事情から、ロクでもなく価値のない仕事にしか就いたことがない。 ついでに言うと私の身の回りの知人友人も私と同じタイプの人が多く、彼らも価値のない仕事に就いている。

 

 さて、いま自分がロクでもない仕事に就いておらず、今後も価値の仕事に就ける見込みが薄い人間にとっては、「仕事というものは本質的に苦役であり、労働疎外とは当たり前に起こる現象だ。ならば、仕事に楽しみややりがいなどを求めることが間違っている。仕事を選ぶ際には残業の少なさや労働時間当たりの賃金の高さなどだけに注目するべきであり、楽しみややりがいなどの要素には最初から注目せず、仕事から帰った夜や休日などに趣味や遊びを充実させることだけに人生の価値を見出すべきだ」というような考え方を抱くことは、ある意味では合理的な戦略であると言える。

 価値のない仕事に価値があるかのように装わせて「やりがい搾取」を試みる経営者などがいることは事実だし、そういう「罠」にかかって心身ともに疲弊する同世代の人間も何人かは目にしてきたことだろう。「ああはなるまい」と思って最初からやりがいや充実感を求めないことは、リスクを防ぐという点では正しいのかもしれない。

 しかし、やりがいや楽しさを最初から諦めるという道筋にも落とし穴が待ち構えているように、私には思える。
 まず、まったく残業がない職場であっても、週に5日は日中の8時間(休憩を含めれば9時間)は職場に拘束されざるを得ない。…そして、8時間はあまりに長過ぎる。

 趣味や遊びなどに人生の価値を見出すとしても、それに費やす時間が限られる以上は、充分にそれらを楽しむことはできない。あっという間に休日が過ぎてしまって、月曜日になったらまたすぐに苦役の時間に戻されるのだ。あるいは、睡眠時間を削ったり人間関係や健康を犠牲にするなど、人生における他の重要な側面を犠牲にした歪んだ生き方となってしまう。

 自分自身について反省してみても身近な人間を観察してみても、「仕事は賃金を受け取るためにやっているだけだ、余暇や休日に人生を楽しめればそれでいいんだ」というスタンスは、口で他人にそう言ったり自分自身に言い聞かせていても、やはり無理があるように思える。表に出しているスタンスとは裏腹に不安感や焦燥感に駆られたり、不毛で後悔してしまうような仕方でしか休日を過ごせなかったり、また「楽しみ」が酒になってしまってアルコール中毒のような状態になる人すらいる。

 さらに、価値のない仕事の多くは派遣社員契約社員などの不安定雇用であったり、正社員であっても給与の伸び代がない場合が多い。当面の生活には困らないとしても、結婚したり子どもを作ったりなどの人生設計を行うことができないのだ。 そして、価値観や生き方の多様化がどれだけ世の中で叫ばれていても、結局のところは、パートーナーシップや家族を築くことが大半の人にとっての幸福の大きな部分を占めているのだ。今は独りで満足している人であっても、いつ寂しさを感じて、そしてその頃には手遅れになっているかはわからないものである。

 つまり、当たり前のことであるが、フルタイムで働くのであれば給与もやりがいもどちらも充実している仕事に就けるのがいちばんなのだ。「給与さえあれば、残業さえなければ、やりがいはなくてもよい」というのは消去法的で後ろ向きな発想なのであり、もとより最善の選択ではないのである。…とはいえ、やりがいも給与も充実している恵まれた仕事のポジションの数は限られている、という最初の問題に戻ってしまうのだが。

 

 つらつらと考えていると、やはり、「やりがいのない仕事をしなくてはならない」人が生じる状況こそが不正であると思ってしまう。
「給与の低い仕事に付かなくてはならない」人がいることも、「(望んでいる訳でもないのに)激務で働かなければならない」人がいることも、どれも不正だ。ベーシックインカムなりワークシェアリングなどの構造的な改革でこのような状況が改善されること(少なくとも、1日8時間ではなく4時間程度の労働に抑えられること)が道徳的に要請されるように思える。


 ところで、最近流行りの経済理論であるMMTには「ジョブ・ギャランティー」という考え方がある。「中央政府による就業保証」のことだ。小浜逸郎という学者はベーシックインカムとジョブ・ギャランティーを対比させて、以下のように論じている。

 

38news.jp

…ただ、思想として見た場合、どちらが優れているかといえば、就労を条件とするJGPのほうが、人間的自由の獲得の条件としてやはり立ち勝っていると言えるでしょう。ベーシックインカムは、かつて救貧のために方法を見出せなかった時代の、富裕層による上からの慈善事業の現代ヴァージョンです。もし誰もが勤労の対価を受け取り、それによって社会に参加しているという実感を抱けるなら、それが結果的に一人一人の誇りを維持する一番の早道と言えるのではないでしょうか。

 

 私に言わせてもらうと、そもそも現代の社会でベーシック・インカムが盛んに議論されるようになった(そして一部の国や地域では実現に移されるようになった)のは、いまのこの世の中には「社会に参加しているという実感」や「誇り」なんてものが得られようのない労働で溢れ返っているからである。ジョブ・ギャランティーにおいては労働条件や賃金などに関しては一定以上の補償がなされるだろうが、所詮は政府からお仕着せで与えられる仕事であり、私には「社会に参加しているという実感」や「誇り」がそんなもので簡単に得られるとは思えないのである。

 そして、先に引用したアダム・スミスの文章にも書かれている通り、労働というものには人々の知性や感性や気概を奪うという側面が存在している。利益の追求なりノルマの達成なりに気を取られるあまり他人を目的ではなく手段と見なすようになったり、他者に危害を与えることに無頓着になったり、徳性や品性を捨てた下劣な人間に成り下がるということもごまんとあるだろう。

 それよりも、労働時間を減らして、それに代わる活動を行うための時間と気力が残される方が、 「社会に参加しているという実感」や「誇り」 を得るための方策としてはよほど優れているはずだ。だからワークシェアリングなりベーシックインカムなりの方がよっぽど的を得た発想なのである(実現可能性に目を瞑れば、の話だが、少なくともジョブ・ギャランティーの発想だってベーシック・インカムとはどっこいどっこいだろう)。

 

 ところで、労働に関する哲学の本は労働の悪影響について論じる一方で、理想的な労働の状態についても述べる。その場合は「労働」ではなく「仕事」や「活動」の話になっていき、古代ギリシャとかアーレントとかそちら系の話になっていく。また、労働と対比する形で、余暇や閑暇の話にもなっていく。それらの議論を見ていて思うのは…話がまた戻ってしまうが…やはり、「平日の仕事している時間は苦役だと思ってやり過ごして、終業後や休日だけに人生を楽しむことができる」というのは人生における幸福を考えるうえで根本的に間違っているということだ。充実して幸福を感じられるような仕事をするか、苦役に感じられるような労働を行わないか、どちらかであるべきだ。

 

 

人生の短さについて 他2篇 (古典新訳文庫)

人生の短さについて 他2篇 (古典新訳文庫)

 

 

*1:『働くことの哲学』の他に印象に残ったものとしては、以下のような本がある。

 

じゅうぶん豊かで、貧しい社会:理念なき資本主義の末路 (単行本)

じゅうぶん豊かで、貧しい社会:理念なき資本主義の末路 (単行本)

 

 

 

分配的正義の歴史

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