「人間の利益を“人間だから”という理由で優先して、動物には“動物だから”という理由で配慮しないことは、その存在が 属している生物種によって配慮するかしないかを非合理的に選択する、種差別(生物種による差別)である。これは、白人の利益を“白人だから”という理由で 優先して、黒人には“黒人だから”という理由で配慮しないという、人種差別と同じような問題である」
ピーター・シンガーが『動物の解放』や『実践の倫理』で行った「種差別」に関する議論は、動物の虐待が他の社会問題と同様に社会正義の問題 であると人々を説得させて動物の権利運動を活性化さたという点で、現在にいたるまで社会的な影響を持っている。*1。また、動物倫理のみならず生命倫理・環境倫理などの応用倫理学の諸分野でも「種差別」に関する議論は重要なテーマであり、シンガーへの反対・賛成問わずに、様々な倫理学者が「種差別」について議論し続けている。
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しかし、シンガーの「種差別」の議論は誤解もされやすい。
というのも、シンガーは前記事で紹介した「利益に対する平等な配慮」の原理によって種差別を批判しているのだが、「利益に対する平等な配慮」は「平等に配慮する」ことを求める原理であって、「平等に取り扱う」ことを求める原理ではない。場合によっては、ある存在に与えないものを別の存在に与えること、ある存在には行わないような行為を別の存在には行うこと、さらには関係者全員の利益を配慮した結果ある存在に苦痛を与えたり命を奪うこと…などなどが、積極的に求められる場合がある。現状ではちがった存在が同じように取り扱われているとしても、場合によっては、それぞれの存在の違いに基づいて、片方を優遇し片方を冷遇することが、「利益に対する平等な配慮」によって求められることもある。
本人や関係者とは関係のない理由や不適切な理由、一部の関係者に対する偏った配慮によって、ある存在と別の存在の取り扱いを変えることは、差別であり、道徳的に問題があると見なされる。
関係者全員に平等に配慮した上で、関係のある理由や適切な理由によって、ある存在と別の存在の取り扱いを変えることは、区別であり、道徳的に問題はない。
つまり、「差別と区別は違う」ということを理解しなければ、シンガーによる「種差別」の議論は理解できない。
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以下では、前の記事と同じように、『実践の倫理』第二版の邦訳に基づいて、シンガーの「種差別」の議論を紹介する。
シンガーは、人間の問題に「利益に対する平等な配慮」を行なわなければならないことと同じように、動物についても「利益に対する平等な配慮」を行なわなければならないと主張する。
「平等の原理が、我々人間の種に属する他の人との関係のために確固とした道徳上の基礎であることを認めた以上、この原理が我々自身の種に属さないもの――つまり人間以外の動物との関係のための確固とした道徳上の基礎であることも認めることになる(シンガー 1999, 67)として、動物への差別は、人種差別や性差別と同じように差別の問題であり、人種差別や性差別は重要であるが動物への差別は考慮するに値しない、という考えは「利益に対する平等な配慮の原理」に反するものとして否定する。
ある動物が苦痛を感じることができるのなら、その動物には苦痛を軽減されることについての利益が存在し、人間と動物は苦痛の軽減という点では同様の利益を持つのだから、ともに「利益に対する平等な配慮」の対象になり、正当な理由もなく動物に苦痛を与えることは非道徳的であることになる。
生物種の違いを理由に人間と動物との取り扱いを変えることは、肌の色や国籍を理由に人間同士の取り扱いを変えることと同じく、当人たちの利益とは無関係な理由によって不平等な取り扱いをしているので、差別である。黒人よりも白人を優先するような白人が、自分たちの人種に属する者の利益の方を他の人種に属する者の利益よりも重視する人種差別主義者であるように、動物より人間を優先するような人間は、自分たちの種に属する者の利益の方を他の種に属する者の利益よりも重視する種差別主義者であり、批判される 。
ただし、先述したように「利益について平等に配慮すること」と「不平等に取り扱うこと」は両立する。そして、苦痛の質や量に関わる意識能力の違いに基づいて、人間の間や動物たちの間で違った取り扱いをすることが認められる場合もある。
「何が起きるかについて予見できること」「起こったことについてより詳細に記憶していること」「何が起こっているかについてより多く知っていること」などの「正常な成人の持つ高度の心的な能力が違いをもたらす領域」(Ibid., 72)の存在は、癌で死にかけている人間と癌で死にかけているマウスとの間では、マウスよりも人間の方がより多く苦しむことになりやすいことを説明できる。マウスに未来や過去の概念が無いのであれば、死を予見することのできる人間が抱くような死ぬことについての恐怖や未練はマウスには無いのだから、人間には死を回避することについてマウスよりも強い利益があり、死にかけのマウスより死にかけの人間を優先して治療することは「利益に対する平等な配慮」に反しないことになる。
他方で、ある動物にもし未来や過去についての概念があり死についての恐怖があるなどの場合は、その動物にとっての死を避けることの利益は一般的な人間にとっての死を避けることの利益は同等のものだから、平等に取り扱わなければならない。また、人間であっても、未来や過去についての概念が曖昧である人や、そもそも未来や過去を認識できる状態でもない人たちについては、彼らにとっての死を避けることの利益と一般的な人間にとっての死を避けることの利益を平等に取り扱うことは「利益に対する平等な配慮」に反することになる。
シンガーは、動物行動学を主とした科学的見地から、「自分たちを過去と未来を持ち、他とははっきり異なる存在として意識している存在」(Ibid., 134)、つまり自己意識を持つ存在である動物の確実な例として、チンパンジーやオランウータン、ゴリラを挙げて、これらの大型類人猿にとっての死を避けることの利益は人間のそれと平等に取り扱うべきであると主張する。
また、クジラやイルカなどの海洋哺乳類についても、大型類人猿について得られているほどの確実な研究結果はないと認めつつも、自己意識を持っている可能性が高いと見なし、犬や豚にウシなどの哺乳類や鶏などの自己意識に付いても、程度の差はあれども存在する可能性が高く、「疑いのある場合は、疑わしきものの利益とする」(Ibid., 160)という観点から、配慮されるべきであると主張する*2。
一方で、植物については、植物には感覚も自己意識も備わっていないのだから、植物にとって考慮される利益はそもそも存在せず、「利益に対する平等な配慮」の対象にはならないとされる。
シンガーが『実践の倫理』や『動物の解放』で動物に関して主張していることは、動物に苦痛を与え殺害することによって成り立つ肉食という慣習を放棄し菜食主義者になるべきであること、毛皮製品や開発に動物実験が用いられた化粧品などの不買運動を行うべきであること、研究の場における動物実験について厳密な規制を実施すべきであること、などである。
動物実験について撤廃ではなく規制を主張する理由は、厳密な規制の下で動物にたいするごく僅かな回数の実験を行なうことで数千万人の人命を救うことのできる医療品が開発できる、といった場合においては「利益に対する平等な配慮」によって動物実験が認められるからである。
ただし、シンガーはこの問題をあくまで仮説的なものとしており、実際的には現状行なわれている動物実験のほとんどが正当化されないであろうと見なしている*3*4 。
*1:「種差別」(specieism)という言葉は、シンガーの造語ではなく、イギリスの運動家リチャード・ライダーの造語であるらしい(伊勢田 2008, 18)。
*2:ここの部分の議論は、動物に関する科学的知識の発展につれて、変更される。未邦訳の第三版(2011年出版)では第二版(1993年出版)とは多少違ったことが書かれているはずである。
*3:例えば、難病治療薬の開発のためにどうしても生体実験を行なわなければならない場合には、健康な成人ではなく動物を対象にすべきであり、また動物のなかでも高度な意識能力を持つものではなく、意識能力の低い動物を用いるべきである、と説明される。また、人間であっても「自分たちの身に何が起ころうとしているのか何も理解しない」幼児や重度の知的障害者がいるのであり、誰かについて我々と同じ人間であるからというだけの理由で優遇することは種差別である以上、それらの人間より意識能力の高い動物を実験の対象にすることは、幼児や重度の知的障害者を実験の対象とすることと同程度以上の問題がある、ということになる(Ibid., 73)。