今回紹介するのは、歴史学と経済学の教授であるフィリップ・T・ホフマン(Philip T Hoffman)が2015年の10月に Foreign Affairs に掲載した記事。同年に発売された自著の 『Why Did Europe Conquer the World ?(なぜヨーロッパが世界を征服したのか?)』の宣伝的な記事であると思われる。私は世界史に詳しい訳ではないのでこの記事や著書でされている主張の妥当性とかオリジナリティとかは判断できないのだが、英語圏ではそれなりに話題になっている本であるようだし、記事の内容も面白かったので紹介する。歴史や軍事関係の訳語に間違いがあるかもしれないが勘弁してほしい。
「ヨーロッパはいかにして世界を征服したか:戦争に対するひたむきな集中の戦利品(The Spoils of a Single-Minded Focus on War) 」by フィリップ・T・ホフマン
1492年から1914年にかけて、ヨーロッパは地表の84%を征服した。ヨーロッパ人は植民地を設け、彼らが住み着いた全ての大陸はヨーロッパの影響を受けた。これは必然的な出来事ではなかった。実のところ、この出来事を説明するために、歴史家も社会科学者も生物学者も数十年にわたって悩んでいるのである。アジアや中東の社会の方がずっと発達していたというのに、なぜ、いかにして、ヨーロッパは世界のトップにまで登り詰めたのか?
今のところ、満足な答えは得られていない。だが、この設問の重要さは最大級である。どの国が奴隷貿易を運営したかということから、どの国が金持ちへと成長してどの国が貧乏の泥沼から脱出できずにいるのかということまで、全てのことをヨーロッパの力が決定したのだから。
ヨーロッパが支配を行えた理由は明白だ、と考える人もいるかもしれない。ヨーロッパは最初に工業化した地域であり、先住民の人口を激減させた天然痘などの疫病に対する免疫も持っていた。だが、多くの若いネイティヴ・アメリカンの戦士たちが疫病を生き延びたことを考えると、後者だけではヨーロッパがアメリカを支配できた理由の説明にはならない。また、ヨーロッパ人たちと同様の免疫をインド人たちも持っていたので、インドの植民地化の説明にもならないのだ。免疫と同じく、工業化も説明としては不合格である。工業化を始める前ですら、ヨーロッパは既に地球の35%以上を支配していたのだ。もちろん、ヨーロッパ人が銃や武装船や築城術(fortifications)のテクノロジーを工業化によって発達させたことは決定的な影響を与えた。だが、アジアに存在していた他のどの主要な文明もヨーロッパと同様の火薬のテクノロジーを持っていたのであり、その多くがヨーロッパと同じく銃を用いて戦っていたのだ。
では、何がヨーロッパの成功をもたらしたのか?…その成功の大部分は、ヨーロッパの政治指導者たちが直面していたインセンティブによってもたらされたのである。政治指導者たちに戦争を起こさせるのみならず、戦争に大金を費やすことにも駆り立てたインセンティブだ。たしかに、ヨーロッパの君主たちは宮殿を建てていた。だが、あの巨大なヴェルサイユ宮殿でさえ、ルイ14世がそれを建てるのにかかった費用は税収の2%以下である。残りの税収は戦争に使われたのだ。ルイ14世や他のヨーロッパの王たちは、子供の頃から、戦場で名誉を追求するように育てられていた。ただし、戦争に参加しても彼らには何もコストが発生しなかったが…負けた時に王位を失うリスクすらもなかったのだ。他の地域の指導者たちは、ヨーロッパのそれとは非常に異なるインセンティブに直面していた。そのために彼らの軍事力は弱いままであったのだ。例えば、中国の皇帝たちは税金を低く抑えることを推奨されていたし、その税収もヨーロッパの王たちが熱中してたような軍事的な名誉を追求するためにではなく人民の生活のために使うことを推奨されていたのである。
上述の理由やその他の様々な理由により、戦争におけるイノベーションという点で、ヨーロッパの外の指導者たちはヨーロッパに太刀打ちできなかった。ヨーロッパ内における戦争に費やされた膨大な金額は、新しい武器や武装船を買ってみたり新しい戦術や築城術や補給メソッドなどを試してみることを可能にする柔軟性を軍事指導者たちに与えていたのである。この過程で、軍事指導者たちは自分たちが犯した間違いから学習していき、テクノロジーを改良していった。そしてヨーロッパの国々は小さくて地理的な距離も近かったために、ライバル国の犯した間違いから学んだりライバル国の行った改良をコピーすることも簡単だったのである。例えば、1628年にスウェーデン王のグスタフ・アドルフは2層の軍艦の中でも初期のものを建造したが(ヴァーサ号)、その船は海に出てから間もなく沈没してしまった。しかしスウェーデン海軍と他のヨーロッパ諸国の海軍はこの失敗からすぐに学習を行い、18世紀には2層かそれ以上の砲塔甲板(gun-decks)を備えた軍艦を建造するようになっていた。それらの軍艦は17世紀のものに比べて安定しているというだけでなく、より長距離を移動できたうえに機動性も高くなっていたのだ。
ヨーロッパの外では、政治と軍事の状況が、戦争のイノベーション(特に火薬テクノロジー)がヨーロッパほどに容赦のないスピードで進歩することを妨げていた。例えば、中国で軍事に費やされる税収はヨーロッパと比べて遥かに少なかった。18世紀後半にはフランスの一人当たりの税金は中国の15倍であり、イングランドは中国の40倍であった。また、中国で集められた税金の大半は新しい形の戦争には使われず、弓騎兵団(archers on horseback)を強化するために使われた。中国にとって長い時代に渡って主敵であった遊牧民たちと戦うには弓騎兵の方がマスケット銃士よりもずっと有効だったのである。さらに、ほとんどの時期で中国は東アジアで支配的な勢力(dominant power)であり続け、中国に挑戦しようとする敵は少なかった。それは、中国には軍事に多大に費やすインセンティブが少なかったことを意味する。その結果、東アジアでは火薬武器を使用する機会が少なかったのである。
対照的に、ヨーロッパには東アジアのように支配的な勢力が存在しなかった。そして、火薬テクノロジーを進歩させることについて西ヨーロッパが一度でも先を越せば、中国がそれに追いつくのは困難であった。進歩が起こっている場所は大陸の遥か向こう側であったからだ。
ヨーロッパの軍事的優位は19世紀まで続いた。ヨーロッパが工業化するにつれて税収も上がり、産業革命による科学と工学のイノベーションは戦争を行うによってだけでなく研究を行うことによってもテクノロジーを改良することを可能にした。それはヨーロッパ人たちが戦場から学んだ物事を更に拡大させたのだ。
1914年には、ヨーロッパは世界的な軍事支配を確立しただけでなく、戦争に費やすための多大な税収を調達することができる強力な国家を打ち立てていた。フランスとドイツでは、一人当たりの実質税収は前の2世紀から15倍以上に増えていたのである。このずば抜けた課税能力は、工業化がヨーロッパにもたらした一人当たりの税収の増加という事象だけで説明出来る範囲を優に超えている。この能力は、火薬テクノロジーを発達させたのと同じく学習の結果によるものである。今回は軍事テクノロジーではなく経済に関する学習であるということが唯一の違いであるが、その報酬は税収を増加させるための契約をエリート層と結ぶことに成功した政治指導者たちが得ることになった。そして、指導者たちは新たに増えた税収を陸軍と海軍を拡大して軍備を増強することに費やしたのである。
ヨーロッパほどの課税能力を得ることは決して簡単ではない。19世紀になっても中国は税収をヨーロッパと同等にまで上げることができなかった。そして、サブサハラアフリカの国々は現代になっても基本的な課税能力に欠けているのであり、そのために自国の市民たちに安全やその他の公共財を提供することもできずにいる。
ヨーロッパには他にもアドバテンージがあった。ヨーロッパの起業家たちは、征服・植民化・軍事貿易(militarized trade)を行うための探検をする際に火薬テクノロジーを用いることが許されていたのだ。通常は航海を行うためには公的な許可を取る必要があったが、起業家たちは海外に富を発見することを切望している権力者たちに奨励されることが多かった。そして、起業家たちは何の問題もなく武器を入手することができたし、事業に参加したが戦闘に慣れていない新米たちを鍛えるためのベテランを雇うこともできたのである。17世紀にはこのような私的な探検が巨大な企業を生み出しており、それらの企業は、海外へ事業を展開する出資として必要である莫大な資金をヨーロッパの急成長する資本市場から調達していた。その代表的な例がオランダ東インド会社であり、オランダの外交政策における唯一の私軍であったが、取引可能な株券(tradable shares of stock)を発行した最初の会社でもあったのだ。
ヨーロッパとその他の国々との最後の違いは政治史に存在している。紀元前221年以降、中国は一つの巨大な帝国に統一されている期間の方がそうでない期間よりも長かった。中華帝国は創立後すぐに中央集権化された官僚制を発展させたが、それは地方のエリート層を政府の官吏にして政府に引き込むことによって地方エリートにも帝国が存在することに利益関係を持たせるものであった。地方の官吏に対する報酬は帝国を団結させたのであり、帝国が強力であり統一されている間は、東アジアの他の勢力は中国を攻撃するのに躊躇した。このことは、まだ見ぬ敵を捜し出したり新しい機会を追及するインセンティブが中国には少なかったことを意味する。
対照的に、ローマ帝国崩壊以降の西ヨーロッパは中華帝国のように持続した統一を経験することがなかった。その代わりにヨーロッパは何世紀にも渡る戦争を耐えなければならなかったのである。その戦争は戦士団たちの間で行われたが、その戦士団の主導者たちは現代の将軍たちと似通っている。絶え間のない戦争によって、勝利を得ようとする指導者たちが鍛え上げられていった。争いはそれぞれの指導者とその従者たちから成る各集団の間に永続的な対立を生み出し、その対立はやがて永続的な政治的国境という形をとることになった。西ヨーロッパが単一の指導者によって統一されて何世紀も中国に存在していたような帝国が築かれることを妨げていたのは、自然の地理ではなく、集団間の悪意によるものだったのである。結局のところ、戦争の資金を調達するために重税を課す方法を学んだ軍事指導者たちが西ヨーロッパの勝者となった。その結果としてヨーロッパはファラオ王のごとく莫大な金額を戦争に費やす王たちと共にあることになったのだ。マキャベリに言わせると「戦争の他には何も目的がなく、戦争の他には何も考えておらず、戦争の他には何も適性がない」王たちである*1。
戦争に対するひたむきな集中と類い稀なる課税能力がなければ、ヨーロッパ帝国は存在しなかったかもしれない。戦争とそれに費やされた税金は軍事的テクノロジーのずば抜けた優位をヨーロッパに与えた。それはヨーロッパが征服を行うことを可能にしたし、大量の部隊を海外に駐留させずとも現地民たちを管理下に置き続けることも可能にした。軍事的なアドバンテージがなくてもヨーロッパは豊かに成長できていたかもしれないが…もっと早くから工業化されていた可能性すら存在するのだが…、1914年に世界を支配してはいなかっただろう。
Why Did Europe Conquer the World? (Princeton Economic History of the Western World)
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追記:この記事を書いた後に自分でも『なぜヨーロッパが世界を征服したか』を読んでみたので、感想を付けたそう。
●中国が統一されていてヨーロッパが分断されていた理由として、ジャレッド・ダイアモンド的な地形決定論を否定して政治史に理由を求めている箇所が印象深かった。
ヨーロッパの人らは互いに争いあう好戦的な文化を進化させてきたこと(文化進化論が参照されている)、あとキリスト教会も皇帝とかの影響力を抑えて自分たちの権力を保ちたかったのでヨーロッパを統一するのではなく分断する方向にがんばっていた、みたいな。
●ヨーロッパがアメリカ大陸をはじめとして世界中を支配するようになった理由としては銃火器などのテクノロジーや軍事技術の優位と病原菌の抗体という二つの要素がよく指摘されるが、病原菌についてはその影響力は過大評価されていると論じて、じゃあなぜヨーロッパではそれほどまでに軍事が発達したか…その理由は、ヨーロッパでは「1:戦争が頻繁に起こり続けていた。2:支配者たちにとって戦争の勝利が魅了的であり、大量の金が戦争に注ぎ込まれていた。3:古い軍事技術ではなく銃火器が重点的に使用されていた。4:軍事技術のイノベーションを適用することに対する障壁が少なかった」から、と論じている。
ダイアモンドとかは「1:戦争が頻繁に起こり続けていた」ことだけにヨーロッパの軍事の発達の理由を見出すんだけど、それだと同じように戦争が頻繁に起こり続けていたインドなどではヨーロッパのように軍事が発達しなかった理由が説明できないのであり、「2」以降の条件が必要になる、という議論。
「2」に関しては、好戦的な文化が培われていたヨーロッパでは支配者たちは戦争の勝利を得て名誉を得ることを追い求めており、戦争に熱心であった。
「3」に関しては、例えば中国などでは遊牧民に対処する必要性が常に存在していたが、遊牧民に対しては銃火器よりも弓矢騎兵の方が有効だったために銃火器にリソースがあまり注がれずに、銃火器同士で争っていたヨーロッパのように近代的な軍事(テクノロジー、戦略や技術)が発達することはなかった。
「4」に関しては、敵国同士の距離が近いので一方で発達した技術をもう一方が真似することが容易であったり、軍事製品そのものだけでなく軍事技術に関わる人的資本も国境を越えて移動しやすい環境だったから。
あとは支配者が戦争をしようと思った時に国内から反発を受けることが少ない政治体制、戦争のために必要な資金をいつでも用意できる課税能力、力のバランスがある程度保たれていたこと(あまりに強すぎる国がいたら、他の国は戦争を起こす前に諦めて降伏してしまう)ことなど。国が動かずとも個人の探検家や企業などの民間レベルで海外征服を行うことが促進される環境があったことも一因。
●日本の戦国時代や中国の王朝交代期にも銃火器を含めた軍事の発達が起こっていたが、どちらも統一されてしまってヘゲモニーができたので戦争が起こらなくなり軍事の発達が途絶えてしまった。逆に言えば、統一さえされていなければこれらの国の軍事がヨーロッパを上回って世界を支配する可能性もあった。
例えば、チンギスハンが登場せずに元による支配が行われずに、南宋が西夏や金とずっと戦い続けていたとしたら中国でも軍事技術が発達し続けていたであろうし産業革命も早々に行われていたかもしれない…と論じられている。
*1:“no object, thought, or profession but war.”