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道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

動物倫理・功利主義における「置き換え可能性」の議論

動物倫理 倫理学 肉食

 

www.irishtimes.com

 

 今回紹介するのは The Irish TImes というサイトに掲載された、功利主義系の倫理学者タティアナ・ヴィサクのインタビュー記事。ピーター・シンガーの『実践の倫理』などでも取り上げられている、動物や人間の生命の「置き換え可能性(replaceability, 代替可能性)」に関するヴィサクの主張について短くまとめられている。かなり抽象的な話題ではある。

 

「倫理的なステーキは存在するのか?」

 

 動物の断片を食べることがこれほどまでに一般的になっている社会、これほどまでに多くの人々が食肉の生産に関わっている経済の下では、菜食主義を擁護する主張を行うことは難しいかもしれない。

 まず行われるであろう反対…「仕事を失う人たちのことはどうする?」「肉で摂っていた栄養はどう補う?」…を乗り越えたとしても、作物を栽培することの機会費用に関する、より細かい議論に直面することだろう。

 今週にアイルランドのダブリンで行われるイベントで講演する予定である、ドイツの哲学者タティアナ・ヴィサク(Tatjana Visak)は、上述したような菜食主義に対する反論を全て知っている。彼女は『Killing Happy Animals : Explorations in Utilitarian Ethics(幸福な動物を殺す:功利主義倫理学における探求)』の著者である。その著書にて、全ての生き物たちが権利を持っていることをヴィサクは示唆しており、道徳的な意思決定を行う際に粗雑な功利主義計算を行うことに対して警告を発している*1。ヴィサクの主張は、オーストラリアの哲学者であり彼女と同じく菜食主義者であるピーター・シンガーの主張と衝突している。シンガーは、人間以外の動物たちは "置き換え可能(replaceable)"であると論じたのだ。ある動物を殺すことは、同等に幸福である動物を生み出して殺される動物の代わりに生きさせられるとしたら認められる、という主張である*2

 記念碑的な著作である『動物の解放』が出版された40年前から現在に至るまで、シンガーの主張は変化を経ていったが、「ある牛が早死にすることは悲劇ではない…牛が1年生きるとしても10年生きるとしても、牛たちには自分が達成したり獲得したいと望むものは何もないからだ」というシンガーの主張は現在でも議論を呼ぶものだ(早死に = premature death, 寿命がくる前に死ぬこと)。

 ヴィサクはシンガーの論理に同意しない。現状における動物たちの扱いを思えば、ヴィサクはかなりラディカルな立場を擁護しているように聞こえる。「死は、個体が何らかの計画を抱いているかどうかに関係なく、その個体が将来感じるであろう幸福(welfare)を奪うために、悪いのです」。

 

Q:「動物にとって優しい畜産(animal-friendly animal husbandry)」という概念は語義矛盾していますか?

 

A:一般的には、「動物にとって優しい畜産」という概念は、通常の畜産の慣習に比べると動物に引き起こされる苦痛が少しだけ小さい畜産の慣習を指すときに使われます。例えば、通常の畜産の場合よりも広い空間で生きることが動物たちに保証されているなどです。より小さな苦痛は、より大きな苦痛に比べれば動物たちにとって善いことであるのは確かです。しかし、基本的には「動物にとって優しい畜産」でも動物たちは大いに苦しみます。

 例えば、オーガニックに育てられる仔牛でさえも、一般的には生まれた後すぐに母親から引き離されます。通常は牛の親子の間の絆は強いものであるために、このことは仔牛と母牛の両方に激しい苦痛を引き起こします。

 監禁されていて人間に操作されていることが原因で、農場で生きる動物にはストレスと退屈と様々な病気が頻繁に起こります。それとは別に、一般的には農場の動物たちは若い年齢で殺されます。これが「動物にとって優しい」と言えるでしょうか?私はそうは思いませんね。

 

Q:もし、肉として生産される動物たちが屠殺されるまでは快適な人生を過ごすことが確実に保証できるとすれば、そもそも生まれなくて全く存在しないよりも生まれてくることの方が動物たちにとって善いことなのではないでしょうか?

 

A:厳密に言うと、生まれてくることが「動物たちにとって善い」こととなるのは不可能である、と私は考えています。ある出来事が私にとって有益であるということは、その出来事が起こらなかった場合に比べて出来事が起こった場合の方が私の幸福度が高くなるということによってのみ決まります(幸福度が高くなる = better off)。つまり、その出来事が起こったために、出来事が起こらなかった場合に比べて人生における私の幸福のレベルが高くなっているということです(人生における幸福のレベル = lifetime welfare level)。

 生まれてこなかったために存在することがなかった個体には、人生における幸福のレベルが存在しません。そのために、生まれてこなかった場合と生まれてきた場合を比較することは不可能なのです。ですから、ある特定の幸福のレベルを持って存在していることは、存在しない場合に比べて個体の幸福度を高くすることも低くすることもできないのです。

 幸福度の高い動物が存在しなかったとすれば世界における幸福の総量が低くなっていた、と論じる人もいるかもしれません(世界 = universe)。そして、その主張は事実です。しかし、私は、世界における幸福の総量を考慮するべきであるとは考えません。多くの子供を生んで彼らに快適な人生を過ごさせることは世界における幸福の総量を増加させるとしても、そのことはより多くの子供を生む理由にはならない、と私は考えます。

 私たちには世界を害することも世界に益を与えることもできません。私たちが害したり益を与えたりできるのは、感覚を持った個体たちだけです。そのために、私たちの道徳的義務の対象は感覚を持った個体たちだけに限定されているのです。

 

Q:ピーター・シンガーは、動物たちに自己意識があるかどうかはこの議論の結論に違いをもたらす、と論じています。自己意識を行う能力に欠けている動物たちは置き換え可能である、と彼は言っているのです。あなたはどう思いますか?

 

A:他の条件が全て等しければ、世界における幸福の総量を増加させるということだけでも、幸福度の高い個体を追加で生まれさせて存在させることの理由となる、とシンガーは論じています。私とは違った考えです。シンガーは幸福の量について考慮しているので、世界における幸福の総量に変化がもたらされないとすれば、一部の動物を苦痛なく殺して他の動物に置き換えることは認められると彼は考えています。

 シンガーはその哲学者としての業績を通じて、少なくとも自己意識を持つ個体を置き換え可能性な存在の枠内から排除する理由を求め続けていました。現在では、自己意識を持つかどうかに関わらず原則としては全ての個体が置き換え可能である、とシンガーは認めています。

 過去にシンガーが論じていたように、生き続けたいという欲求を持っていて未来についての計画を持つ個体にとっての死はそうでない個体にとっての死よりも重大な危害である、と論じる人もいます。それらの欲求や計画を持つためには一定以上の認識能力が必要とされますし、感覚のある動物たちの一部はこれらの能力を欠いていると思われます。現在のシンガーは、未来についての計画は死がもたらす危害には関わらないと考えていますし、この点については私も同意しています。

 ある個体が自分が早死にすることを知っているという場合には、未来への計画を持つことは死のもたらす危害に影響を与えます(訳注:未来という概念を認識できるために自分が死ぬことを理解できる動物は、そうでない動物に比べて死に対する恐怖などを持つので死がもたらす危害が増える、ということだと思われる)。しかし、予期することができず、かつ、苦痛をもたらさない死について論じる場合には、未来への計画を持つかどうかは無関係です。死ななければ幸福な人生を生き続けたであろう個体が早死にすることは、その個体に危害を与えます。なぜなら、幸福な人生を短い間過ごすことよりも幸福な人生を長い間過ごすことの方が、その個体にとっては善いことであるからです。

 

Q:動物には権利がありますか?

 

A:私たちが何らかの行為をするための規範的な理由は、その全てが最終的には幸福に基づいている…自分たち自身の幸福と他の存在の幸福の両方を含んだ幸福です…と、私は考えています。生きる権利を含む法律的な権利を豚や牛などの動物に認めることは、彼らの幸福を増させる方法として効率的なものかもしれません。私たちが生み出して存在させる動物たちの数は現在よりも遥かに少なくなるでしょうが、存在することになる動物たちは現在私が生み出している動物たちよりもずっと幸福な人生を過ごすことになるでしょう。

 

 

 

Killing Happy Animals: Explorations in Utilitarian Ethics (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

Killing Happy Animals: Explorations in Utilitarian Ethics (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

 

 

 

The Ethics of Killing Animals

The Ethics of Killing Animals

 

 

関連記事:

davitrice.hatenadiary.jp

*1:訳注:ヴィサク自身は功利主義者で、(法律上の権利・社会通念上の権利はともかく)道徳的権利の存在を認めてもいないようなので、この解説はちょっとミスリード気味

*2:訳注:『実践の倫理』の第3版(未邦訳)に基づいて、シンガーの主張について解説しよう。

 まず、『実践の倫理』で「置き換え可能性の議論(replaceability argument, 代替可能性による議論)」が取り上げられるのは、畜産制度を批判するシンガーの議論に対する畜産制度を擁護する側の反論として、である。具体的には『雑食動物のジレンマ』の著者マイケル・ポーランや19世紀の哲学者レスリー・スティーヴンの議論が取り上げられている。

「畜産制度があるから家畜たちは存在するのであり、畜産制度がなければ家畜たちは存在しない。家畜の幸福に配慮した畜産制度なら、ある家畜を一匹殺しても同じだけ幸福な家畜を一匹生み出すことでその死を埋め合わせることができるから問題がない」という主張について、総量功利主義かつ快楽功利主義を主張する人は基本的にはこの主張を受け入れなければならないとしつつも、シンガーは「置き換え可能性の議論」を認めた場合に起こる問題点を以下のように挙げている。

 そもそも、現状の畜産は「家畜の幸福に配慮した畜産制度」からは全く程遠いので「置き換え可能性の議論」では擁護できない。

 また、「幸せな存在の数は増えれば増えるほど良い」という主張を認めると、人間と動物の幸福について平等に配慮するとすれば、人間をほとんど絶滅させてその代わりに幸福な小型動物を大量に増やしたほうが良くなる、ということになってしまう。

 幸福な動物を増やすために人間の数を減らすことを回避するために、人間の幸福を動物の幸福よりも高く価値付けたとしても、畜産制度は認められない。なぜなら、肉食を撤廃して全人類が菜食主義者になった方が、地球上に暮らす人間の総数が増えるからである。

 更に、動物が置き換え可能なら人間も置き換え可能であることを認めるべきである。すると、遺伝子操作して自己意識や未来についての認識を制限した人間を意図的に生み出す人間工場(臓器のスペアとして利用するなど)も認められることになってしまう。

 …これらの問題点を認めつつも、『実践の倫理』の第3版ではシンガーは「置き換え可能性の議論」を否定しない。第1版では、哲学者のヘンリー・ソルトによる「存在する場合と存在しない場合との比較はできない」という議論をシンガーも認めていたが、第2版では「現在ではこの点について、以前ほどの確信が私には持てない」と書かれており、第3版では存在する場合と存在しない場合の比較は可能であると認めるようになっている。

 この後は『理由と人格』や『On What Matters』などの著書がある哲学者のデレク・パーフィットや、反出生主義で有名なデビッド・ベネターの議論などが取り上げられて、様々な思考実験が繰り広げられて細かな議論がされるのだが、まとめきれないので今回は省略する。

 

 http://nationalhumanitiescenter.org/on-the-human/2011/02/taking-life-animals/

↑『実践の倫理』第3版の該当箇所の原文はインターネット上で無料公開されているので(数多くの哲学者による反論コメントと、それに対するシンガーのレスポンスも付いている)、気になる人はそちらも参照してほしい。