道徳的動物日記

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「あなたが平等主義者なら、どうしてあなたは種差別主義者なのか?」 by カティア・ファリア

 

 オックスフォードのPractical Ethicsブログに、2015年の2月に倫理学者のカティア・ファリア(Catia Faria)が公開した記事を訳して紹介。

 

blog.practicalethics.ox.ac.uk

 

 

「あなたが平等主義者なら、どうしてあなたは種差別主義者なのか?」 by カティア・ファリア

 

 慈善団体オックスファムの最近の報告によると、2016年には世界の中でも1%の最富裕層が残りの99%の人々よりも多くの財産を所有することになる見込みだ。多くの人にとって、個人間の不平等がいま存在していることやその不平等が悪化し続けることは深刻な懸念を抱かさせられる事態である。その理由は、平等は重要な問題であると私たちの多くが信じているからだ。つまり、ある物事の状態がどれだけ望ましいかということは価値がどれほど最大化するかということだけに依るのではなく、その価値がどれだけ平等に分配されるかということにもかかっている、と私たちの多くは考えているのだ。平等という概念の基本にあるのは、価値の受益者になり得る個々人に価値が平等に受益されないことを正当化する理由なんて存在しない、という考えだ。その「個々人」は、分配に用いられる単位…つまり、平等に享受されるべき特定の価値…として何を認めるかによって変わってくる。福利(well-being)についての平等主義を私たちが認めたとすれば、平等は自分自身の福利を持つことのできる全ての存在に適用されることになる。福利を得るためのリソースや機会こそが平等化されるべきだと私たちが考える場合には、平等はそれらのリソースや機会から利益を得ることができる全ての存在に適用されることになる。もちろん、平等主義という言葉の意味にも関わらず、対象となる存在に限定を設けて一部の存在だけを平等の対象にすることはできる。だが、その場合にはもはやそれは平等主義の主張ではなくなる。合計された福利は水曜日だけ最大化されるべきである、と主張する意見はもはや功利主義の一種とすら言えないのと同じことだ。

 上で述べた平等主義のいかなるバージョンであっても、価値が平等に分配されるべき個々人には、その本人の生が良くなったり悪くなったりする全ての存在が含まれている。そこには、全ての感覚ある存在が含まれている。そして人間以外の動物の多くには感覚があるため、個々人の間の不平等に関して私たちが抱く懸念は動物に対してまで拡大されるべきである。その存在が属する生物種を理由にして(つまり、単に人間でないからという理由で)、感覚ある動物の個体を平等の対象から除外することは不正である…それは、生物種主義に基づいた差別の一例なのだ。そのため、どんなバージョンであっても、正しい平等主義は生物種主義を拒否しなければならない。

 人間以外の動物たちの生は、(大多数の動物たちの福利はネガティブな状態にあるので)絶対的な尺度においても大半の人間と比較した場合においても悪い状況にあることをふまえると、平等主義が生物種主義を拒否することは非常に重要な結果をもたらす。まず、人間による搾取の犠牲となっている動物たちについて考えてみよう。これらの個体は、一生において感じられる可能性がある幸福のソースをほとんど全て剥奪されており、非常に苦痛な仕方で殺される運命にある。このような慣習に左右される動物たちの数は驚くべきものだ。食料業界だけを見てみても600億頭以上の陸上動物が犠牲になっているし、その数字には数兆の水棲動物の犠牲は含まれていない。さらに、自然界に暮らす動物に関しても、その数字を把握することは難しいとはいえ、大多数の野生動物が生きる状況は人間に搾取されている動物と少なくとも同じくらい(そして、おそらくそれ以上に)悪いのである。

 さて、大半の動物は大半の人間よりも悪い状況にあることをふまえれば、人間と動物たちとの間の不平等を減少させるために、現在人間に割かれているリソースの内のかなりの量が動物たちに移されるべきである、という主張が平等主義には含まれることになる。左派リバタリアニストのピーター・ヴァレンタインは平等主義に含まれるこの主張を「問題含みの結論」と認識しており、人間と動物の福利を同等に扱うことには直感に反するという性質があることを指摘している。その代わりに彼が提案するのは、平等な分配において用いる単位を、認識能力によって相対化された福利(ヴァレンタインはそれをfortune[幸福、繁栄、富などの意味]と名付けている)にするべきである、ということだ。つまり、高い認識能力を持った個体の福利が少し改善されることは低い認識能力を持った個体の福利が大幅に上昇することよりも望ましいことである、という主張だ。大半の人間は高い認識能力を授かっているので、人間がfortuneを得るためには動物が同程度のfortuneを得るために必要とするよりも多くのリソースが要求される、ということである。したがって、相対化されていない福利が平等に分配されるべきであるという主張に比べて、大半の人間から大半の動物へとリソースを移すことの理由はヴァレンタインの主張においては弱くなる。ヴァレンタインの主張は、要求過多による反論[demandingness objection]の明白な一例だ。この反論の根本にあるのは、動物たちの利益のためにかなりの犠牲を払うことを人間に要求することは道徳にはできない、という考えだ。

 しかし、このような主張は、それが解決しようと目論んでいる問題よりもさらに大きな問題を引き起こすことになってしまうかもしれない。この主張が含んでいる結論は、動物と同程度の認識能力しか持たない人間に対しても当てはまってしまう。しかし、重度の認知障害を持った人にとっての利益が最良の認識能力を授かった人にとっての同様の利益よりも軽視される、ということは到底受け入れられないように思える。この点がなぜ受け入れられないかということは、ネガティブな福利について考慮してみると特に明白になる。福利がネガティブな状態にあることを私たちの計算の対象から外す理由は存在しない。実際には、認知障害を持った人の福利の状態は通常の人よりも低くなりがちであるのだから、彼らの利益を満たすことの必要性はより切迫していると考えられるべきであるのだ。

 さらに、ヴァレンタインの主張は、理性的な存在たちが持つ同様の利益は彼らが異なる程度の認識能力を持っていたとしても同等に数えられるべきである、ということを説明できない。もちろん、合理的な存在の福利のための閾値を設けて、その閾値を超えている場合には認識能力の程度が異なっているとしても全ての合理的な存在の福利が同等の重みを持つと見なされる、とすることは可能であるだろう。しかしながら、私が知る限り、そのような閾値を定めるための恣意的でない方法は未だ提示されたことがない。それに、そのような方法が本当に存在するかどうかも怪しいものだ。たとえば、道徳的な主体であるために必要とされる能力こそが閾値を設定する、と主張する人がいるかもしれない。そこには、道徳的主体である存在たちが持つ同様の利益は同等に数えられるべきであり、そして道徳的主体でない存在たちが持つ同様の利益よりも重視して数えられるべきである、という主張が含まれている。だが、閾値を設定した場合にはその主張を実行することはできない。結局のところ、道徳的主体であるために必要な能力というのもまた認識能力なのであり、それには程度差が存在するからだ。 閾値の座標として道徳的主体を指摘しても問題は解決されず、ただ問題が先延ばしにされるに過ぎない。したがって、ヴァレンタインの反論は強固な足場に基づいたものではないのだ。

 さらに付け加えると、要求過多による反論は、どんな道徳理論であっても私たちに対してかなりの要求を行う理論はその要求を行わない理論に比べて妥当性が低いことは当然である、という前提に依っていることが多い。しかし、倫理学においてある理論の要求の程度が低いことはその理論の美徳になる、となぜ見なさなければならないかは明らかではない。実際には、世界の状態はこれ程までに悲惨であるのだから、私たちに対して大きな犠牲を要求することはいかなる妥当な道徳理論にも含まれているべきなのだ。

 このことは、特に動物に関する問題においては真実だ。動物たちの福利の状態が非常に低いことをふまえると、(たとえば、ビーガンになることによって)動物たちに対して危害を加えることを防ぐだけでなく、彼らの福利の状態を私たちのそれと平等にするために積極的に動物たちに利益を与えることを、平等主義は要求するのだ。その対象は、生きる価値も無いような生を過ごしている、人間の支配下に置かれている動物たちと自然界たちに生きる動物たちとの両方である。結局、私たちに対して多大な要求を生じさせているのは平等主義そのものではない。可能なうちの最善のシナリオから現実の世界の状況があまりにもかけ離れているがために、平等主義は私たちに対してこのような要求をしなければならないのだ。

 

 

 

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