道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

肉食は"自然"で"必要"か?

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 この記事についているブコメなどの反応を見てみると、社会心理学者のメラニー・ジョイ(Melanie Joy)が『Why We Love Dogs, Eat Pigs, and Wear Cows: An Introduciton to Carnism(肉食主義へのイントロダクション:なぜ私たちは犬を愛し、豚を食べて、牛の革を着るか)』という本で論じている、「肉食を正当化する3つのNの心理」というものがよく表れているように思える。つまり、普段肉を食べている人が「(肉食は動物に苦痛を与えたり地球温暖などの環境問題を悪化させたり健康に悪かったりするのに)なぜ肉を食べ続けるのか」と問われたときに、多くの人は「肉を食べることは自然である(Natural)」「肉を食べることは普通である(Normal)」「肉を食べることは必要である(Necessary)」と答える、というものだ*1

  倫理学者のアンドリュー・グリップ(Andrew Gripp)という人が書いた以下の記事から、ジョイの議論について要約して紹介している部分を引用翻訳して紹介してみよう。

 

areomagazine.com

「肉を食べることを正当化する際にまず挙げられるのが、肉を食べることは実際問題として必要であるという議論だ。しかし、今日の世界に暮らす人々の多くにとっては…特に工業化が進んだ西洋に暮らす人にとっては、肉を食べることは選択肢の一つに過ぎない。近所の食料品店を訪れてみれば、野菜食という選択肢が豊富に存在していることを確かめられるだろう。西洋の人々の多くがベジタブル・バーガーを無視してチキンカツレツを食べていることは、それが必須だからという訳ではなく、選択の結果なのである。 

 動物を殺して食べることは短期間の生存のためには必要でないとしても、長期間にわたって健康と福利を保つためには必要である、と論じる人がいるかもしれない。結局のところ、ベジタリアンたちは[健康に生きるために必要であるとして、保健機関などから]推奨されている量のプロテインや鉄分やオメガ3脂肪酸やビタミンB12を、どうやって摂取しているというのか?…しかしながら、ベジタリアンたちはこれらの栄養素の推奨量を摂取することが可能であるし多くの場合に実際に摂取している、ということは栄養学の研究によって示されている。注意深いベジタリアンが、(仮に、肉を食べる人よりも更に健康になれないとしても)平均的な肉を食べる人と同じくらい健康になれないという理由は存在しないのだ。

 肉を食べることを正当化する第二の理由は、肉を食べることは自然である、というものだ。自然界の動物はお互いを食い合っているのだから、なぜ人間たちが…言うまでもなく、人間も動物なのであるのだから…他の動物を食べてはいけないというのだ?しかし、この正当化は、教科書に書かれているような"自然主義の誤謬"や"自然さへの訴え"の典型例だ。ある物事が自然界で頻繁に起こるということは、その物事が道徳的であるということを意味しない。レイプや乳幼児殺しは動物たちの世界では頻繁に起こるが、そのような"自然な"行動を人間も真似するべきだ、と論じる人はごく僅かだろう。

 だが、肉を食べることは生物種としての私たちにとって必要不可欠な要素である、と論じる人もいるかもしれない。確かに、科学的研究は、初期の人類は肉を消費したことによって高密度で複雑な神経を備えた脳を発達させてきた、ということを示している。

 しかし、進化史における発達にとって肉食が不可欠であったことは、今日の私たちもなんらかの身体的または道徳的な理由で肉を食べ続けることを義務付けられている、ということを意味しない。肉食が進化的なアドバンテージであった理由の一つは、私たちの祖先は肉を咀嚼することでサツマイモやジャガイモや人参のような根菜を咀嚼するのに比べてエネルギーと時間の消費量を少なくすることができたからだ。先史時代の[人間同士や人間と動物とが生存のために争いあう]ホッブズ的な環境においては時間とエネルギーは貴重な資源であったし、それらの消費量を抑えることが生存能力を向上させたことには疑いもない。だが、先史時代とはまったく違った環境である今日では([野菜を食べやすくする]ミキサーやいつでも食べられるプロテイン・バーなどを含む環境である)、肉を食べることにはもはや過去にあったような適応上のアドバンテージは存在しない。簡単に言うと、生物種としての私たちの存続はもはや肉食には依存していないのだ。

 肉を食べることの正当化としてよく挙げられる理由の三番目が、肉を食べることは普通である、というものだ。しかし、これも、誤った推論に基づく議論である。「衆人に訴える論証(argumentum ad populum)」と呼ばれる議論では、広く一般に受け入れられていること(または、広く一般に拒否されていること)に訴えるのだが、ある物事が真実であるか真実でないか・道徳的であるか非道徳的であるかということと"広く一般に受け入れられていること"には何も関係がない。

 この論法のおかしさは、様々な社会において"普通である"と考えられている物事のバリエーションの豊富さを理解すれば明白になる。たとえば、中国では一年に一千万匹から二千万匹の犬が食べられている一方で、アメリカでは犬は家族のように扱われている。また、アメリカでは毎年に数百万頭の牛が殺されているが、インドではたった一頭でも牛を殺してしまった人は犯罪者となってしまい、近年ではヒンドゥーナショナリストの自警団のターゲットにされてしまう。これらの事態から導き出される論理的な結論とは、慣習や習慣に基づいて肉食を擁護するためには、道徳的相対主義と文化相対主義に同意することが要求されるということだ…そして、この二つの相対主義は、近年の学問界から登場した概念の中でももっとも滑稽で最も危険なものであるのだ。」

 

 上記の「3つのN」の他にも、本邦で肉食を正当化する際によく持ち出される議論が「動物が苦痛を感じているとも、植物が苦痛を感じないとも、確実に言うことはできない」とか「植物も動物も同じ生命であるのだから、生命を奪うという点では菜食も肉食も同じだ」というものだろうか。しかし、実際問題の科学的見地からして「植物が苦痛を感じる」という可能性はほんとんどないということ、そして倫理的ベジタリアニズムの議論の多くは肉食が「動物の生命を奪うこと」ではなく「動物に苦痛を与えること」を問題視していることを考えると、これらの議論も倫理的ベジタリアニズムに対する反論になっているとは言えない*2

 また本邦の議論でよく目につくのは、先日にTwitterで取り上げた この記事のように、ベジタリアニズムに対する藁人形論法、あるいは特殊な議論・反論をしやすい議論だけを取り上げて反論するというタイプのものだ。たしかに、健康法としてのベジタリアニズムの中には「人間の本来の食生活は菜食である。肉食は健康に害しかなく、菜食主義は健康に良いことばかりである」という旨の主張をする議論も散見されるし、それは事実問題として誤っているだろう。だが、上述したように、「人間は肉を食べなければ生きていけない」というのは虚偽の主張であるし、「人間が現在のように進化できたことは肉食のおかげだ」という主張は真ではあるとしてもそれだけでは倫理的ベジタリアニズムへの反論や肉食の正当化にはなっていない。

 菜食主義に反論する議論の多くには、ベジタリアンを感情的・非論理的・非科学的などと批判・揶揄する論調が含まれている。しかし、菜食主義に反対する議論の方が科学的見地を無視していたり論理に誤りを含んでいることも多いし、その際には肉食という自分自身の食習慣を肯定したいがために明白な事実や自分の議論の論理上の問題点に対して盲目になってしまうという認知の歪みが生じている…つまり感情的になっている、ということも多いだろう。メラニー・ジョイの本はそういう点を指摘している訳である。

 

 

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*1:以前に紹介したジョイの議論を発展させた研究では、「肉を食べることは美味しい(Nice)」という4つ目のNが、多くの人が挙げる理由として付け加えられている。

*2:「動物の生命を奪うことで動物が未来について抱いている欲求や選好、動物が生命を奪われなかった場合に感じていた筈の幸福が奪われる」ことを問題視する議論もあるが、いずれにせよ植物が欲求や選好や幸福を感じているという可能性はほとんどないので、やはり動物の生命を奪うことと植物の生命を奪うことが等しい問題であるとは言えないだろう。