道徳的動物日記

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アメリカという実験/科学的手続きと民主主義

 

The Science of Liberty: Democracy, Reason, and the Laws of Nature

The Science of Liberty: Democracy, Reason, and the Laws of Nature

 

 

 

 先の記事に引き続いて、ティモシー・フェリス著『自由の科学(民主主義、理性、法の支配)』の内容の紹介をしよう。

 

 この本の前半で著者のフェリスが強調しているのは、民主主義という仕組みと科学的手続きの共通性、また民主主義と科学の発展との相互作用である。科学的な発想こそが民主主義を生んだでのあり、また科学が最も発達するのは民主主義的な自由な制度の下である、とフェリスは論じているのだ。

 科学と民主主義といっても、フェリスは「民主主義の有効性は科学によって証明されている」などと論じている訳ではないし、科学的知識に精通したテクノラートが行政運営に関わるべきだとか有権者は非合理的な感情よりも科学的知識を重視して投票するべきだとか主張していたりする訳でもない。そうではなくて、「民主主義とは、不確かな仮説の成否を実験によって確かめることで物事の事実を明らかにしていくという科学的手続きの発想を政治的手続きに転用したものである」と、フェリスは論じているのだ。

 

 このフェリスの議論について簡潔にまとめられている、マイケル・シャーマーの記事「民主主義の実験場:科学と政治は相互に関係があるのか?」から引用してみよう。

 

www.scientificamerican.com

 

 民主主義的な投票とは科学実験である。2年ごとの投票の度に、あなたは変数を慎重に変更して、その結果の辺りを目にする。そして、その結果が気に食わなかったら、また変数を変更する。「しばしば、アメリカ建国の父たちは新しい国家のことを"実験"と呼んでいた」とフェリスは書く。「手続き的には、自由と秩序の両方を促進するためにはどうすればよいかということや、独立宣言からアメリカ憲法が制定されるまでの11年の間に個々の州が少ならず実験することになった様々な問題についての熟慮が(訳注:アメリカ憲法の制定には)含まれていた」。トマス・ジェファソンが1804年に書いたように「私たちがいまから行おうとしている実験ほどに興味深いものは有り得ないし、私たちはその実験が事実を確立する(=実験は成功する)であろうと信じている。人は理性と真実に統べられるのかもしれないのだ」。

 建国の父たちの多くは科学者であり、データ収集・仮説の検証・理論形成というメソッドをアメリカ建国に適用したのだ。実験によって得られる結果は暫定的なものであるということを建国の父たちが理解していたことは、自然と、疑いを持つことと議論をすることこそが機能的な政治形態にとって最重要となるような社会システムを形成することへと彼らを導いた。「新しい政府は、科学実験室のように、現在から限りのない将来に渡っていつまでも行われ続けることになる実験に対応するために設計されたのだ」とフェリスは解説する。「実験の結果がどのようなものになるかは誰にも予期できないのだからこそ、政府は、社会を特定の目標へと導くためにではなく実験の過程そのものを維持するために設計されたのだ」。

(……略……)

 一度でも研究室に足を踏み入れれば、科学的な方法とは仮説や予測を立てて実験をして結論を得るという一連の小綺麗で整然とした手続きである、という思い込みはふっ飛んでしまう。発見に続く道のりとは、現実には一般の人が想像しているよりもずっと雑然としていて出鱈目なものである、と研究者たちは感じているということをあなたは理解するだろう。同じことが自由民主主義についても当てはまる。民主主義は予定通りに機能することはまずないが、どうにかして、個人の自由と社会秩序との間の正しいバランスを発見することへと近づき続けるのだ。民主主義国家の構成(訳注:constitution / 憲法という意味もある)は人間性(humanity)の構成に基づいているのであり、そして科学こそが人間性を理解するのに最も適しているものであるのだ。

 

 ジェファソンをはじめとしたアメリカ建国の父たちの他にも、トマス・ペインやジョン・ロックなどの思想家は科学的な発想に基づいて民主主義を発想した、ということがフェリスの本では論じられている。ペインにせよロックにせよアイザック・ニュートンの『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』に大いに感銘を受けており、人間性や政治についての科学的理解(と当時の彼らが思っていたもの)を政治に適用して考えた結果、人権と民主主義という発想が生み出されたのだ。

 

 私は昨年にシャーマーの『道徳の道徳の弧:科学と理性はいかにして私たちを真実と正義と自由に導くか』を読んだ時にこの「民主主義=科学的手続き」論を読んで面白いなと思ったし感心したのだが、アメリカで起こったドナルド・トランプ大統領の当選とその後の惨状を目にしたり、フランシス・フクヤマによるアメリカ民主主義の機能不全についての批判を読んだ後には、フェリスの議論はあまりにも建国の父を礼賛し過ぎていて楽観主義過ぎると思うようにはなった*1。とはいえ、民主主義と科学がとかく敵視し合っており相性が悪いとされている昨今の世の中(というかはてな界隈)では、フェリスの議論が読まれることには価値があると思う。

 

 余談として、フェリスの本を読んでいる時に抱いた感想をいくつか。

 

⚫︎ 「大陸哲学は合理主義的で、イギリス哲学は経験主義的」というのは哲学史の知識としては知っていたのだが、この本を読んでいると、自然科学の発想に親しんでいたロックが頭のなかで演繹ばかりして満足しているデカルトの本を読んで呆れて「自分の頭の中で完結して満足しているんじゃなくて外に目を向けてみろ、自分の仮説を実験してみて検証してみろ」と愚痴っている図が想像できて、ちょっと可笑しかった。

 社会科学を含めた経験科学の知識を全く参照せずに、自分の頭の中だけでっちあげた人間観とか社会観だけに基づいて適当な人間論とか社会論を放言する人というのは現代でも思想界隈には多いので(SNSにもよくいる)、ロックはそういう人たちを目にした時にも呆れるんだと思う。

 

⚫︎ トクヴィルは、自由な民主主義の下では人々が"役に立つ(=金儲けになる)"ことを各々に研究し始めるので、特に応用科学が発展しやすくなる、と論じたそうだ。また、「役に立つことばかり研究するなんて高尚じゃない」と言っている人に対してトクヴィルは批判的であったそうだ。ここらへんも現代の色んな現象に通じていて可笑しい。

 

⚫︎ 

集合知は、数量で表わせるような問題の推測において最もよく発揮されるため、集団の知恵というより、「集団の精度」と表現するのが適切かもしれない。この現象は何十年も前から文献に記されてきた。古くは1907年、イギリスの人類学者フランシス・ゴルトンが、見本市の来場者たちは雄牛の体重を言い当てられるという話を取り上げている。

(……略……)

集合知が発揮されるためには、一定の条件がそろわなければならない。つまり、集団の各構成員は多様な意見をもち、また、それらの意見にはめいめい自力で到達する必要があるという。*2

 

 

  フェリスの著書の中では、「生得的に愚かな人間たちには民主主義は任せられない、世の中を賢い人で統一するべきだ」として優生学を主張し続けていたフランシス・ゴルトンが、85歳もの晩年になって見本市で集合知の力を目にしたことによって人間の間に多様性が存在することの価値を理解した、というエピソードが短いページながら鮮やかに描写されている。ここはちょっと感動的であった。

 

 ⚫︎ ジェファソンの自然科学者としての才能や行動が強調されている。アメリカが独立した当日にも、自分の研究のために気温を測っていたそうだ。

 

⚫︎ この本の中でフェリスはしばしばリチャード・ファインマンを登場させている。現代では、絶対的に正しい事実とか完璧な政策とかを求めがちな文系の人々よりも、事実や正しさというものを突き止めることの難しさ・曖昧さを理解しているファインマンのような科学者の方がむしろ民主主義の本質を理解している、というのがフェリスの主張だ。…SNSなどの発言を見る限り、少なくとも日本では科学者が特別に民主主義を理解しているとか民主主義に賛同しているという感じはしないが(むしろテクノクラート志向である人の方が多いような気がする)、一部の文系が純粋主義のあまりに民主主義を軽視・否定して権威主義に走るというのはたしかにたまに見かけるような気はする。

 

 

*1:トランプ大統領当選とアメリカ政治の問題について書かれている記事と、私がフクヤマの著書を読んでいた時の読書メモ。

ware-bluefield.hatenablog.com

togetter.com

*2:

wired.jp