A Culture of Growth: The Origins of the Modern Economy (Graz Schumpeter Lectures)
- 作者: Joel Mokyr
- 出版社/メーカー: Princeton University Press
- 発売日: 2016/10/25
- メディア: Kindle版
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経済史学者のジョエル・モキールの『経済発展の文化:近代経済の起源』を飛ばし飛ばしながら読んだので、内容をごく短く要約して、適当な感想も付け足しておく。私はこの分野に全く詳しくないので著者の主張がどれくらい妥当であるかといった評価はできないのだが…。
近代的な経済成長とか産業革命はなぜ他の地域ではなくヨーロッパで初めて起こったのか、ということについては色々な人々が様々な議論を提起している訳だが、モキールは所有権の確立とか自由な通商といった「人と人との関係」の変化についてではなく、科学やテクノロジーの発達やイノベーションといった「人と外的環境との関係」の変化を強調して論じている(モキール自身は、前者はアダム・スミス的な観点であり後者はヨーゼフ・シュンペーター的な観点であって、この本はシュンペーター的な観点によって書かれているとしている)。モキールによると、ヨーロッパで産業革命が起こったのは「人間は知識によって自然界を理解してコントロールすることができ、自然界から有益なものを発見して利用することができる」「知識を通じて自然を征服することによって、人間社会を発展させて進歩させることは可能である」という考え方がヨーロッパに普及したことが理由である。
…これだけだとよくある議論のように聞こえるかもしれないが、モキールの本のポイントは「人間は自然を操作して利益を生み出すことができる」「人間社会の進歩は可能である」という考え方が、"いつ""誰に""なぜ""どのようにして"普及したかということを、文化進化論のモデルを使いながら詳細に描いていることにある。経済史の本であるのに、序盤の数十ページは文化進化論の考え方やモデルの説明に割かれているのだ。私はいわゆる比較文化論というものは論者の議論にとって都合の良い証拠とか資料だけをピックアップしたうえで都合の良い理論をでっちあげて説明するみたいな胡散臭いものが多いと思っていたのだが、文化進化論はモデルとか理論とかがしっかりしている感じがしてなかなか面白いと思うし、もっといろんなトピックについて文化進化論による解説を読みたいものである。
モキールの主な主張は、「知識は力なり」で有名なフランシス・ベーコンや『自然哲学の数学的諸原理』を著したアイザック・ニュートンの考え方がヨーロッパの知識人たちの間で普及して、知識人たちは科学的知識を追求し始めるようになったこと、それも単に自然についての知識を増そうとするだけでなく人間社会にとって利益になるような「実用的な知識」を追求することが一般化したことが、やがては産業革命をヨーロッパにもたらした、というものである。「科学知識によって自然を征服する」というベーコンの発想はいかにも悪者っぽくて、キャロリン・マーチャントの『自然の死:科学革命と女・エコロジー』などの様々な反科学・反西洋・反近代的な著作で槍玉に挙げられている訳だが、しかし、産業革命と経済発展のおかげで現代の我々が甘受できている豊かな生活はベーコンがいなければ存在しなかったのかもしれないである。
文化進化論の理論からすれば、肝心なのは、ベーコンやニュートンが何らかの考え方を提唱したこと自体ではなく、むしろ彼らの考え方が普及するために必要な要素や環境が当時のヨーロッパに存在していたことである。ではなぜベーコンやニュートンの考え方がヨーロッパに普及したかというとそれには色々な要素があって、この本ではその色々な要素が詳細に語られている。キリスト教会は両義的な役割を果たしていたとか中東やアジアのように強大な帝国がなくて各国の勢力が均衡していたことが知識の普及や切磋琢磨などを促進したなど、とにかく色々あるので全部はまとめきれないのだが…。「ヨーロッパにはやがて必然的に産業革命がもたらされるであろう背景や環境や文化が存在していた」と主張するのではなく、ある時代における様々な要素のバランスの作用によってベーコンやニュートンの考え方が(ある意味では偶然として)普及した、ということが強調されているのがこの本のポイントだろう。
また、ヨーロッパにおける科学の発達で特に重要だったのは、近世のヨーロッパにはいわゆる「文芸共和国」が成立しており、知識人たちは国家や宗教の境界を越えて知的に交流できたこと、また自国では弾圧を受けるであろう意見を持っている知識人にとっても他国に移動することが比較的簡単であったことのために、自由な意見の表明や議論を行えて知識の交換や促進されたことである。さらに、知識人たちにとって自分の知識を公開することは文芸共和国内での名声を高めることにつながり、そして当時は名声それ自体が知識人たちにとって非常に価値のあるものとされていたのであり、またパトロンを確保しやすいなどの実益につながるということもあって、知識人たちはこぞって自分の知識を公開した。普通なら知識を公開するということは他人に自分の知識が利用されたりして自分にとって得にならないことが多いのだが(だから特許という制度があったりするわけだ)、近世のヨーロッパでは「名声」というインセンティブが働いたことが科学の飛躍的な発達につながったのである。また、知識の力によって社会を発展させることは宗教的な義務であるという考えも広まっていた。特にイギリスなどのプロテスタント協会はベーコンの考え方を宗教的義務と結びつけて、それがまた科学を発展させた。
では他の国はどうだったかというと、そもそも現状維持を望む国家や官僚や宗教の力が強すぎて知識の発展が歓迎されなかったり弾圧されたり、知識を公開することへのインセンティブが存在しなかったので科学的知識も密教みたいになって発展が停滞したり、科学によって自然を征服しようとか社会を進歩させることは可能であるという発想が諸々の事情で普及しなかったり、などなどの理由で前近代的なままであった。
最近私が読んできたいくつかの本と同じく、この本でも、経済や科学の発達のためにはトップダウンではなくボトムアップで自由に交流して自由に意見を交換することが大切であると論じられている。また、「人間社会を進歩させて発達させることは可能である」と知識人たちが信じたことそれ自体が実際に社会の進歩や発展をもたらした、という点もかなり強調されている。最近ではよく保守主義の考え方が再評価されていて、「ある社会慣習が昔から残っているということは、その社会慣習は優れているはずだ」「理性の力によって社会改良をするなんて考えは災いしかもたらさない」あるいは「現在の社会は過去に比べて堕落している」みたいなことが盛んに言われているような気がするが、モキールの議論によれば、近世のヨーロッパの人々が「社会を発展させることはできる」「我々は理性と科学によって昔よりもすぐれた社会をもたらすことができる」といった考えを抱いたことによって(産業革命とか経済発展とかが起きたおかげで)現在の我々も大きな恩恵に授かっているのだ。そのことには十分に留意するべきだし、安直に保守主義をもてはやすのも有害であるかもしれない、などのことを改めて思った。