道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

読書メモ:『「生きにくさ」はどこからくるのか:進化が生んだ二種類の精神システムとグローバル化』

 

 

 著者は心理学者で、ほかにも『日本人は論理的に考えることが本当に苦手なのか』などの著作がある。

『「生きにくさ」はどこからくるのか』については、出版社のサイトでは以下のように紹介されている。

 

ハイテクとグローバル化人間性を奪い、現代人の精神を貧困にしていると信じる人は多い。人間の脳における、「進化的に古いシステムと新しいシステム」というアプローチから現代の「生きにくさ」の由来を説き明かし、悲観論を乗り越える方途を探る。

「生きにくさ」はどこからくるのか - 新曜社 本から広がる世界の魅力と、その可能性を求めて

 

 この本のベースとなっているのは私たちの心理のシステムを「進化的に古いシステム」と「進化的に新しいシステム」とに分ける二重過程理論やモジュールマシン理論などの心理学、そしてスティーブン・ピンカーが『暴力の人類史』を基調としながらウィリアム・バーンスタインの『「豊かさ」の誕生 - 成長と発展の文明史』などの経済史も織り込んだ文明論だ。くわえて、エドワード・ホールによる「高文脈文化・低文脈文化」の考え方も援用しているところには、オリジナリティがある。

 

ja.wikipedia.org

 

 わたしたちに備わる古いシステムは関わる人が少なくて新奇な時代が起きない限定された状況に対応するために進化してきたのに対して、新しいシステムは様々な状況に柔軟に対応するために進化してきた。異なる国や人種の人とも共同するようになり、人権などの概念を理解できるようになったのも新しいシステムのおかげ。しかし、古いシステムは新しいシステムに比べて影響力は強く、現代になっても昔ながらの感情的な反応や抵抗というものは根強くて、それで差別が残ったり効率的に資本主義や民主主義を運営することが難しくなってしまう。しかしそれでも人類は進歩してきたし、「わたしたちには古いシステムも備わっているのだ」ということを織り込んだうえで古いシステムの機能が悪い方向ではなく良い方向に発揮されるようにメタレベルで適切にコントロールしていけば、人類の進歩はこれからも続くだろう……といった主張がなされている。

 このタイプの主張は、『「生きにくさ」はどこからくるのか』や『暴力の人類史』に限らず、ジョシュア・グリーンの『モラル・トライブズ』やジョセフ・ヒースの『啓蒙思想2.0』などでもなされていた主張だ。

 二重過程理論や進化心理学の考え方を受け入れつつ、「規範」や「倫理」や「理性」の効果を認めたうえで、経済学の基本的な考え方を受け入れ、そして犯罪の発生件数や富の拡大に関する統計データが示す事実も肯定すれば、おおむねこういった考えにたどり着くということである。そして、わたしも、このような考え方は多かれ少なかれ「真実」であると思っている。

 ではなぜ多くの学者が同じような主張を繰り返しているかというと、経済学の考え方を認めなかったり、「古いシステム」の影響力を過大評価して「新しいシステム」は無力であると考えたり、統計データを無視したり、進化心理学を否定したりすることで、ちがった結論に辿り着いてそれを主張する人が実に多いからである。もちろんいろんな考え方があってそれが表明されること自体に問題はないのだが、経済の発展や社会の安定、モラルや人権や民主主義に関わるトピックについて「間違った」主張が幅を利かせるようになると、悪影響も生じる。そういう状況は是正・予防しなければならない……といった危機意識や使命感というようなものもあるのだろう。

 この本は169ページしかなく、翻訳文ではないネイティブの日本語で書かれているため、『暴力の人類史』や『啓蒙思想2.0』と比べてもずっと簡単に読める。そのぶん味気なかったり議論が浅いところはあるが、このタイプの主張に興味がありつつもどの本も分量がすごくて値段も高くて手が出せなかった、という人にはおすすめだ。

 

 本書のタイトルの「生きにくさ」に関する議論については、ロバート・パットナムの『孤独なボウリング』の議論を紹介しながら、「産業化による社会関係資本の低下」が原因であると論じられている。

 

社会関係資本の少なさは、困ったことになったときに頼ることができる人が少ないということを意味する。極端な場合、たとえば豊かな社会であっても勤務先の倒産など不運なことは起こりうるが、このようなさまざまな苦境時において助けてくれる他者がいないということも意味する。また、危機的な状況ではないとしても、インフォーマルな付き合いが減少しているということは、仲間との良好な関係を快として進化した社会的哺乳類として、人生が愉快なものではなくなっている可能性もある。さらには、実際、社会関係資本が少ない人は精神的にも不健康であるのではないかということも示唆されている。

確かに、社会関係資本の意地は煩わしく、必要性が低下すればこの縮小は人々が望んだ結果なのかもしれない。しかし、望んだ結果が必ずしも全体として望ましいとは限らないのである。あるコミュニティの煩わしさから逃避したとしても、そのコミュニティが存続していれば、またそのコミュニティに戻ったり、あるいは別のコミュニティに移ったりすることも可能だろう。しかし、コミュニティそのものが消滅してしまえば、孤独になる以外の選択肢はなくなってしまう。パットナムが実際に示したさまざまなデータは米国のものではあるが、この傾向は日本をはじめとする先進的な産業国家にも当てはまる現象であろう。

(p.103 - 104)

 

 もうひとつ、著者が「生きにくさ」の原因として指摘するのが、産業化やグローバル化によって急激に生じた「低文脈化」に対して、もともとは「高文脈」な社会で生きてきた日本人が不適応になっている、ということだ*1。また、高文脈文化の社会で急激に低文脈化が生じることで中間コミュニティなどが破壊されて「無縁社会」化していき、上述の社会関係資本の低下にもつながっていく。

 

 とはいえ、産業化やグローバリゼーションや多文化共生が「生きにくさ」をもたらしているとしても、それらがわたしたちにあたえているポジティブな影響もきっちり指摘して、「止めるべきではない」と著者は主張している。とくに日本ではグローバリゼーションのウケが悪いし、多文化共生についてもあーだこーだ言いながら否定するのが"賢い"人のやるべきことだとされているフシがあるので、マイナス面にも言及しつつ肯定する著者のバランス感覚にはかなり好感が抱けた。

 最終章では「義務論」と「功利論」を両立させる方法を提示したり、政治的イデオロギーを批判したり、一見するとリベラル志向な「文化相対主義」が排外主義や国粋主義に結び付いている点が指摘されたりするなど、規範的な議論についても目が行き届いている点もよかった。 

 

 

*1:エドワード・ホールによる「低文脈」「高文脈」の議論には「実証性がない」「再現性がない」との批判もなされているようだが、一年ほど多国籍企業で働いた経験から、わたしはホールの議論にかなりの説得力を感じるようになっている。