道徳的動物日記

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読書メモ:『<効果的な利他主義>宣言!:慈善活動への科学的アプローチ』

 

 

 この本についてはこちらの記事でも紹介した。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 また、「効果的な利他主義」の考え方そのものについては、今後に某社から公開される原稿でも取り上げる予定なので、こっちでは取り上げない。

 

もちろん、効果的な利他主義には賛否両論がある。

…(中略)…また、効果的な利他主義は貧困の根本原因(教育の不足、政府の腐敗、圧政、戦争など)ではなく貧困の症状(健康障害など)に着目しすぎているという批判もある。彼らは貧困の根本原因に対処するには制度的な変革が必要だと主張している。

…(中略)…

貧困の根本原因に目を向けるべきだという意見に関しては、貧困の根本原因などわからない、というのが私の答えだ。20世紀、韓国や台湾などの国々は貧困から脱げ出したが、エチオピアケニアなどの国々は抜け出せなかった。その理由はほとんど解明されていない。貧困の根本原因がわからないとすれば、個人がその根本原因に対処するのはとても難しい。

(p.211-212)

 

 「対処療法を行うことで、不公平な現状を結果的に肯定しているから、効果的な利他主義はダメだ」という批判については、わたしも書いたことがある。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 しかし、多くの人は、「道徳」や「思想」は現状を否定するラディカルなものでなければいけない、と思っているようだ。そのために、現状を直視して、解決の仕方がわからなかったり現実的な事情から対処できない問題は後回しにして対処可能な問題から手を付ける、という効果的な利他主義は因縁を付けられてしまうのである。

 

人々の役に立つということに関していえば、「無分別」と「無意味」はイコールであることが多い。

プレイポンプはその典型的な例だ。トレバー・フィールドと彼の支援者たちは、客観的な事実ではなく感情に流されていた。遊ぶという単純な行為を通じて、村に綺麗な飲み水を提供する楽しげな子どもたち。その魅力的なイメージに心を揺さぶられたのだ。

…(中略)…しかし、善意だけに頼って判断を下すのは、災難を招く可能性もある。

(p.10-11)

 

「プレイポンプ」とはどのようなアイデアで、そのアイデアがどのように失敗したかは、解説が面倒なのでググってほしい。

 マッカスキルはプレイポンプに発案したり賛成したりした人の「善意」に注目するが、わたしはむしろ「クールさ」や「気が利いている感」が、合理的な判断にとっての罠であると思う。

 この本のなかでは「エシカル消費」も批判されるが、寄付や募金よりもエシカル消費が人気になってしまう理由は「金を募金箱に入れるのではなく、質の良いものを買うことにその金を使いながら、現地の人々も救えるって一石二鳥で最高!」という(表面的で浅はかな)「合理的っぽさ」によるところが大きいだろう。

 大阪維新の会がコロナ問題に対して思いつきで「画期的」で「イケてる」対策を取ろうとしては失敗していること、はてはGo To イートやGo To トラベルを行なっている日本政府にも言えることではあるだろうが、道徳の問題にせよ政治や経済の問題にせよ、有意義な効果をもたらす対処や実践というものは、本来、地道でつまらなくて、淡々としているものであることが多い。しかし多くの人はそれに耐えられないので、ついつい、小賢しいアイデアに飛びついてしまうのだ。

 

ルワンダ虐殺が起こっていたとき、傷付いた市民の処置を赤十字病院で行なっていた医師、ジェームズ・オルビンスキーのエピソードに続く文章)

 しかし、オルビンスキーと私たちの状況はある意味で似ている。死傷者が続々と運ばれてくるのを見て、彼は全員を助けられないと悟った。そして、難しい選択を迫られた。誰を救うか?誰を見殺しにするか?全員を助けることはできない。そこで、彼はトリアージを行い、治療の優先順位をつけた。患者を1、2、3に振り分けることはどうしても必要だった。もし彼がこの冷酷で計算高い行動を取らなければ、死者の数はいったいどれだけ膨らんでいただろう?もし彼が何も選択を行わなかったら?両手をあげて敗北宣言を出していたら?先着順で治療を行なっていたら?きっと最悪の選択になっていただろう。

世界をよりよい場所にしようと思うなら、私たちもオルビンスキーと同じような選択をしなければならない。それがこの世界の現実だ。

(…中略…)

オルビンスキーの状況は、相手が目の前で泣いて助けを求めているという点で、私たちの置かれている状況よりもずっと切迫していた。何かを選択せざるをえないという事実、そして選択しないという決断自体もまたひとつの選択であるという事実からは逃れようがなかった。しかし、慈善活動や寄付の場合、恩恵を受ける相手が私たちの目の前にいるわけではないので、オルビンスキーの身になって考えたときと比べると状況を軽くとらえてしまいがちだ。それでも、状況は同じぐらいリアルだ。世界では文字どおり数十億人が助けを求めている。その一人ひとりが助けに値するし、現実的な問題を抱えていて、私たちの行動ひとつでその生活を向上させることができる。だから、私たちは誰を助けるかを決めなければならない。それを決めないのは最悪の決断だからだ。

(p.32-33)

 

 いまは懐かしの「トリアージ論争」を思い出す一節だ。

「選択をしない」ことも選択であること、それも最悪の選択であるということが強調されているのは、傾聴に値する。社会的・政治的な問題をトリアージ(あるいはトロッコ問題など)に例えながらトレードオフの必要性を強調する言説について、批判側は「それは構造や権力の要素を無視した擬似問題である」と答えがちだ。実際、コロナ禍に際して大阪維新の会の吉村知事が「トリアージ」を言い出したのは批判されて当然ではある*1。政治家はそんなことを言い出すヒマがあるならまともで合理的な対策を取るべきだからだ。……しかし、現実世界では常にトリアージの状況が起こり続けていることは、一面の真実であるのだ。それを忘れて「権力」や「構造」への批判に明け暮れるのも、無益で空虚なことではある。

 

たとえば2009年、「ギビング・ワット・ウィー・キャン」を創設するとき、私は同じ1ドルで最大限によいことをしてくれる慈善団体を探そうとしてた。そんなとき、私は「フィスチュラ財団」という組織を見つけた。産科フィスチュラ(瘻孔)はとても恐ろしい疾患だ。

…(中略)…フィスチュラ財団の資金を主に受け取っていたのがエチオピアの首都・アディスアベバにあるハムリン・フィスチュラ病院だった。この病院は手術によるフィスチュラ治療を行い、アフターケア、カウンセリング、教育を提供している。明らかに価値の暑活動だし、とてつもなく人々の役に立っていたが、私は結局、ほかの組織に寄付するほうが人々の生活を大きく向上させられるだろうと結論づけた。

しかし、ひとつ問題があった。数年前にエチオピアを訪問したとき、私はその病院を訪れたことがあったのだ。私はこの病気に苦しむ女性たちとハグをし、訪問への感謝を述べられた。それは忘れられない経験だった。世界の問題の深刻さをまざまざと痛感させられた。フィスチュラは私にとって個人的な結びつきのある問題だった。

では、ほかの組織に寄付したほうがもっと人々の役に立てると知りつつ、フィスチュラ財団に寄付するのが正しかったのだろうか?私はそうは思わない。もし、もっと効果的だと思う慈善団体があるのに、フィスチュラ財団に寄付するとしたら、私はたまたま困っている本人と会ったことがあるという理由だけで、一部の人々のニーズを優先していることになる。これでは、もっと効果的に手を差し伸べられる人々に対して不公平だ。もし私がエチオピア、またはほかの国の別の施設を訪れていたら?きっとまた別の心の結びつきが芽生えていただろう。私が世界の別の問題ではなくこの問題を目にしたというのは、単なる偶然にすぎない。

(p.42-43)

 

「ケアの倫理」だとか「共感の倫理」だとかに対する「理性の倫理」や「正義の倫理」の優位性を力強く主張している一節であろう。

 

福島の安全対策技術者たちは安全性を評価して被害を防ごうとしたが、低確率ではあるが重大な出来事を無視したために失敗した。同じように、何かよいことをしようとするときには、成功の確率とその成功の度合いの両方に敏感にならなければならない。 つまり、成功は確実だがたいして見返りのない活動よりも、成功の確率は低いが成功した場合の見返りが大きな活動を優先すべきケースもあるのだ。この事実は、「一人じゃ何も変わらない」とよく言う人々が大きな誤解をしていることも示している。

(p.88)

 

「期待値」を重視したこの発想は類書のなかでもなかなか見られないものであり、マッカスキルの議論のオリジナリティがあらわれている箇所である。具体的には、「投票行動」や「商品のボイコット(ベジタリアンがスーパーで肉を買い控えるなど)」が、行動が結果につながる可能性が低いとしてももし成功した場合には見返りが大きいために、期待値の観点からすれば行うべきである行動の例として挙げられている。

 

(「エシカル消費」運動に関して)

この運動には高貴な目的がある。搾取工場に反対する活動家たちは、人々がこれほど劣悪な環境で働いていることにゾッとしている。それはもっともなことだ。しかし、不買活動を通じて搾取工場に抗議する人々は、第5章で説明したとお理、「この行動を取らなければどうなるか?」という視点が抜けている。私たちは、自分たちが搾取工場の商品をボイコットすれば、工場は経済的な圧力に負けて廃業し、労働者たちはもっとましな就職先を見つけるだろうと思いこんでいる。

しかし、それは正しくない。発展途上国では、搾取工場の仕事はむしろよい仕事なのだ。工場で働けなくなれば、低賃金で肉体を酷使する農業労働、ごみあさり、失業など、ふつうはいっそう劣悪な状況が待ち受けている。

(……中略……)搾取工場が比較的よい仕事を提供しているという明確な証が、発展途上国の人々からの巨大な需要だ。搾取工場の労働者のほぼ全員が自分の意思で働いており、なかにはあの手この手で工場の仕事にありつこうとする人々もいる。

(……中略……)搾取工場の状況はとても劣悪なので、人々が国外追放のリスクを冒してまでそこで働こうとするのは、私たちにとって想像しにくい。しかしだからこそ、第1章で説明したとおり、世界の貧困は想像を超えるほど激しいのだ。

(p.136 - 137)

 

 この後のページでも、「モラル・ライセンシング」現象を指摘しながら、「エシカル消費」は目的とは逆の効果をもたらしてしまうことが論じられている。

 なお、引用部分の議論は「労働者側が、他の可能な仕事と比較したうえで自発的に選択した仕事」に対してのみ当てはまることに注意。中国で行われているウイグル族の強制労働や、畜産業(言うまでもなく、家畜は肉になることを自発的に選択しているわけではない)については、「エシカル消費」やボイコットが目的通りの効果をもたらす可能性があるはずだ。

 そして、発展途上国貧困層の人々には「劣悪な仕事」か「もっと劣悪な仕事」の選択肢が存在しないという事実も、規範的には不当であるだろう。それを不当であると認めることと、(他に可能な手段がなければ)「もっと劣悪な仕事」を避けさせて「劣悪な仕事」に就かせることが正当であることは、両立する。グローバルな経済格差や搾取の構造について非難するのもいいかもしれないし、「将来的にはこうあるべきだ」ということを論じるのもいいかもしれないが、「いまできることで最善なのはなにか」ということにも注目しなければいけないのである。

 

研究を通じて世の中に影響を及ぼすひとつの効果的な方法は、複数の研究分野を組みあわせるというものだ。当然、複数の分野の組みあわせのほうが個々の分野よりもはるかに種類が多い。そして、研究活動は伝統的な学問分野の分け方に左右されやすいので、ふたつの学問分野を組みあわせた研究は特に見過ごされていることが多く、非常に大きな影響を及ぼせる可能性もある。

(p.183)

 

「ふたつの学問分野を組みあわせた研究」の例が、行動経済学(心理学と経済学の組み合わせ)や、効果的な利他主義(道徳哲学と経済学の組み合わせ)である。わたし個人としても、このテの「学際的」な研究には昔から魅力を感じてきた。些細な一説だが、学問論として新鮮で、なかなか面白いと思う。

 

 第10章では、「極度の貧困」「アメリカ刑事司法制度の改革」「気候変動」の様々な問題について、「どの問題に優先的に取り組むべきか?」と読者が判断するための指標として、規模・見過ごされている度合い・解決可能性がそれぞれランク付けされている。

 移民問題(貧困国から富裕国への移民を認めることには貧困国の人々の生活が大きく向上するというメリットがあるが、富裕国側の移民政策によってそれが阻害されている)は、規模はかなり大きいものであるのに、解決可能性は極度の貧困や気候変動よりも少ないとされている。一方で、工場式畜産も規模はかなり大きいが、解決可能性は高いものとされている。ここら辺の判断基準も常識からはちょっと外れていて、なかなか新鮮だった。