道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

「ハッピーエンド」を唱える議論には警戒せよ(『資本主義が嫌いな人のための経済学』読書メモ①)

 

 

 

 まずは「エピローグ」から引用。

 

若かりしころの私は、社会正義の問題など簡単だと考えていた。世界には二種類の人間がーー根っから利己的な人間と、もっと寛大で思いやりのある人間がいるように思われた。世界に不正や苦難があるのは、利己的なやつが自分の利害にかなうように仕組んだせいなのだ。したがって、この問題の解決法は、もっと思いやりをもつように人々を説得することだ。それがダメなら、思いやりのある人が政治権力を手にできると保証することだ。そのうえ、例の「見えざる手」のレトリックのせいで、資本主義とは、利己的な人間が自分の利益を増やすためにこしらえたシステムであり、右派の政党がこの作戦にイデオロギーの隠れみのを与えるために存在しているのは明白だと私には思えた。だから反資本主義は、率直な道徳的要請のような気がした。政府は善、市場は悪なのだ。

私も年をとったから思うのだが、この見方には誤りが多すぎて、どこから挙げていったらいいのか迷ってしまうほどだ。…

(p.346)

 

世界が複雑だからこそ、私は経済に関する謬見の手引きとして、この本を書くことにした。謬見というのは厳密には、真なる前提から誤った結論へ導く主張にすぎない。だが謬見は単なる間違いではなくて、最初に耳にしたときには正しいように聞こえる。実際のところ、誤謬をはらんだ推論がなぜ無効なのかを見分けるには、かなりの洞察力が必要になる。

謬見がとりわけ経済学の分野で根深いのは、人は複雑なものごとをよく理解できないからである。私たちはすべてのものが他のすべてに依存している事実を無視する。人が環境の変化に応じて行動を変えることを忘れる。すぐでなくても長期的には帳尻を合わせねばならないこと(消費と生産とか、輸入と輸出とか)があるという事実を見落とす。複雑な状況に対処するために単純な議論を提示する。右派はというと、市場が最高最善の世界を、実践的に達成しうる最良の世界をもたらすと、私たちに信じさせようとする。競争は普遍的な万能薬として提示され、競争市場などが組織されると望むのは、ばかげていることが自明のときも試乗という「解決法」が推奨される。政府の「非効率」は実証的な証拠に訴えるのではなく、想像上の根本原理(「政府がしていることだから非効率にちがいない」)にもとづいて非難される。普通の人たちが互恵的リスク共同管理のしくみから切り離されたり、自分の首を絞めるような行動をするのを看過されたり。すべては個人の自由と自己責任のためなのだ。しかるに左派は、経済に認められるどんな「不公平」でも、取引が行われる条件を直接修正するように命令を下すなり、法律を改正するなりすれば解決できると、私たちに信じさせようとする。家賃が高すぎる?安くさせろ。産業汚染がある?汚染を止めさせろ。給料が足りない?もっと払わせろ。民が貧しい?金を与えろ。いや、もっといいのは政府にすっかり任せることだ。強欲な営利目的の民間部門と折り合わないといけない煩わしさは抜きで、そのまま正しいことをできるのだから。

手っとり早い解決法はあるか?ない。だから本書は、ハッピーエンドとはいかないのだ。世界で憎まれ、疑念をもたれている資本主義だが、もっといいものを見つけるのがひどく困難であることは証明されてきた。これまでに得られたのはせいぜい、いくつかの改善点と、ほかにどんな改善ができそうかを考えるための知的ツール一式ぐらいだ。そこにこそ現代経済学の価値がある。

(p.348 - 349)

 

『資本主義が嫌いな人のための経済学』は、経済学の専門家ではなく哲学者であるジョセフ・ヒースが、右派と左派それぞれが経済に関して抱きがちな「誤謬」の問題を指摘して、彼らの考え方のどこがどのように間違っているかを丁寧に解説する本である。経済学の考え方や概念について、数式やグラフを用いずに、言葉と論理によって説明されている。

 ……こういう風に紹介すると「わかりやすい経済学入門」的な本であるように思えてしまうかもしれないが、ヒースの論理は明晰であるのに、『資本主義が嫌いな人のための経済学』のなかでは実に抽象的で掴みどころのない議論が頻発する。おそらく、それは経済学というもの自体に含まれる抽象性や複雑さというものを、単純化したり捨象したりすることなく伝えようとしているからだ。そのために正直で誠実な本ではあるし、文章そのものは決して読みづらくもないのだが、そこで議論されている内容を「理解」することはなかなか難しい。わたしは『資本主義が嫌いな人のための経済学』を読んだのは今回が三回目であり、赤ペンと定規を手にして線を引きながら時間をかけて読んだのだが、それでも自分がちゃんと理解したかどうかには一抹の不安が残っている。専門の哲学者や経済学者にとってすら難しさがあると思う。

 

 とはいえ、その「難しさ」自体が、経済というものの本質であるかもしれない。『資本主義が嫌いな人のための経済学』のなかでもとりわけ明確なメッセージが、エピローグでも書かれている通りに「ハッピーエンドはない」ということだ。

 右派はインセンティブや自由競争で全てが解決すると豪語して、左派は賃金や価格を政府が操作して再分配や平等を促進すれば苦しむ人がいなくなると唱えるが、どちらの主張もあまりに単純であり、実行しようとしたら様々な予想外の事態や弊害が生じて当初の目論見とはかけ離れた結果が訪れることが、難しく込み入った論理によって示されている。経済というものが「あちらを立てればこちらが立たず」であること、そしてどんな問題にも単純な解決方法はないということについては、かなりの説得力を持って伝わってくるのだ。

 

 とはいえ、ヒースも指摘している通り、人は単純な議論を求めるし、ハッピーエンドを望む。経済に関する爽快な解決策や素敵な理想論がまわりくどい議論によって棄却されて、地味で漸進的な対策しか提言されない本なんて、ほとんどの人はわざわざ読みたがらない。

 たとえば、ライターのブレイディみかこのような「サッチャーにはエンパシーがなかったから彼女は労働者階級に冷淡で残酷な新自由主義政策を実施した」的な物言いは、「思いやりのある人が政治家になれば世の中は良くなる」といった単純な世界観に基づいたものであるだろう。また、「世界に不正や苦難があるのは、利己的なやつが自分の利害にかなうように仕組んだせいなのだ」的な発想は、ちょうどこのブログを書いている途中で目にした、下記の記事における社会学者の酒井隆史の発言にもありありと示されている。

 

50年ぐらい前(1960年代)には、ほとんど働かないですむような世界を多くの人たちがもとめはじめた時代がありました。そして経済学者の予想した通り、客観的にも、可能性としては、その実現は遠いものではなくなっていました。

ところが、世界を支配している人々からすると、それが実現するということは、人々が、じぶんたちの手を逃れ、勝手気ままに世界をつくりはじめることにほかなりません。そうすると、じぶんたちは支配する力も富も失ってしまうことになります。

そこでかれらは、あの手この手を考えます。

そのなかのひとつが、人々のなかに長いあいだ根づいている仕事についての考え方を活用し、あたらしい装いで流布させることでした。

gendai.ismedia.jp

 

 上記の人たちは「左派」であるが、もちろん、「右派」の人たちも現在進行形で謬見を撒き散らしている。

 ただし、知識人にせよネット論客にせよ、日本の「右派」や「保守」のなかでは「新自由主義(市場主義/競争主義)」は、知的なトレンドとしては必ずしも主流派でなくなっていることは素人目にも明らかだ。むしろ、「中流の家庭」や「底辺の労働者」、あるいは「ふつうの日本人」や「家庭の大黒柱」に寄り添っている風な温情的なメッセージと、「経世済民」的な道徳主義のほうが目立っている。彼らが提言するのは、たとえば「財政出動すれば不況はなくなる」とか、「移民を受け入れずグローバリズムも拒絶することで、労働者を守って日本経済を立て直すことができる」とか、あるいは「男性の所得を上げることで出生率は解決して、ついでに経済もよくなる」とかいった主張だ。

 これはずるい言い方になるが、わたしは経済学は門外漢であるし、とくにマクロ経済学はさっぱりわからない(正直言って興味もほとんどない)ので、彼らの主張のどこがどのように誤謬であるかということを自分の力で具体的に指摘して論じることはできない。……とはいえ、「左派」に負けず劣らずに現代日本の「右派」たちの主張も九割方が「謬見」であるだろうということは、察知できる。なんと言っても、彼らの主張は「ここをこうすることで、この重大な問題が解決する」といった単純なものでしかない。彼らの主張が訴えかけるのはわたしたちの論理的思考にではなく、「労働者やふつうの人が蔑ろにされるいまの世の中は許せない」といった類の道徳感情と、自分たちの悩みや苦しみが一挙に解決されるハッピーエンドへの願望にであるのだ。……そういった類いの議論にはほぼ必ずどこかに間違いが含まれており、そして経済学的においてはひとつの間違いでも全体を多く狂わせて、当初の予想とはまったく異なる結果がもたらされることになる。

 そのような議論は警戒するにこしたことがない。とくに、自分の価値観や主義主張とマッチしている議論や、自分の気持ちに寄り添ってくれそうな議論こそが、おそらく最も危険なものであるだろう。