道徳的動物日記

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「フェミニストはいつフェミニストでなくなるか?」 by ポーラ・ライト

www.psychologytoday.com

 

 今回紹介するのは、ポーラ・ライトの「フェミニストはいつフェミニストでなくなるか?(When is a Feminist Not a Feminist?)」という記事。タイトルからは分かりづらいが、「家父長制」の存在を主張したり、社会構築主義的な主張をするタイプのフェミニズムを批判する記事である。

 記事の先頭に付いている紹介によると、著者のポーラ・ライトは、進化生物学・心理学・人類学・生態学の観点からエビデンスに基づいてセックスとジェンダーを分析している独立研究者である。彼女は自分の研究を「ダーウィン主義的ジェンダー研究」と呼んでいて、彼女のブログのタイトルも「Darwinian Gender Studies」である。

 

porlawright.wordpress.com

 

 

 記事内では参考リンクが数多く貼られているのが、煩雑になるのを避けて、翻訳の方では一部しか貼っていない。

 

フェミニストはいつフェミニストでなくなるか?」 by ポーラ・ライト

 

フェミニズム:性別の平等を理由とした、女性の権利のadvocacy(主張・提唱・擁護など)」

 

平等主義:全ての人間は平等であり、平等な権利と機会に値する(deserve)という主義」

 

 上記の二つの文章は、オックスフォード英語辞典から引用したものだ。一見すると、フェミニズム平等主義は合致するように思える。実際、批判を受けたフェミニストが、フェミニズムの辞書的な定義に訴えることは珍しくない。私はこれを「良識のある人(reasonable person)」論法と呼んでいる。例えば「良識のある人なら、この主張(訳注:女性の権利のadvocacy)に同意しないはずがないだろう」という主張だ。実際、他人から良識があると見なされたいと思っているなら、この主張を否定することはできない。

 

 しかし、同様に、良識のある人なら平等主義に同意しないはずがない。フェミニズムの前提も平等主義の前提も、どちらも十分に良識的だ。しかし、多くの研究や調査が示してきたように、平等主義の価値観を支持する人々の大半は、フェミニストであるとは判断されていない。いったい何が起こっているのだろうか?平等主義者たちは混乱しているのだろうか、無知であるのだろうか、その両方なのだろうか?

 

 どちらでもない。

 

 どうやら、平等主義の目標とフェミニズムの目標の間にある決定的な違いを、非フェミニスト(反フェミニストではない)である大半の平等主義者たちは理解しているか直感的に気付いているようだ。残念なことに、辞書の定義を見ていても、この違いを明確に表現することはできない。

 

 スタンフォード哲学辞典には、フェミニズム平等主義についてより詳細な定義が書かれている。平等主義の項目の前文は、上述の辞書的な定義としっかり一致している*1。一方で、フェミニストの項目では、辞書的な定義からはすぐに離れてしまう*2。そして、フェミニズムの鍵となるテーマは何であるかということについての様々な考えや、フェミニズムとは何であるかということについてのフェミニストたち内部での意見の相違という論点へと迷走してしまう。3000語以上書かれた段階でようやく家父長制という単語が登場するが、家父長制という単語が問題含みであり批判に晒されていることは書かれていない。

 

解放への闘争としてのフェミニズムは、全ての形式による支配を根絶するためのより大きな闘争の一部でなければならないし、それとは別物としても存在していなければならない。私たちは、家父長制による支配が人種差別主義やその他の集団的な抑圧と共通のイデオロギーな根源を持っていること、これらのシステムが手付かずに残されている限り家父長制による支配を根絶するのは不可能であることを理解しなければならない。この認識は、フェミニストの理論と実践の方向性を一貫して導くものである筈だ。

 (訳注:ベル・フックス, "Talking Back: Thinking Feminist, Thinking Black "(1989)からの引用)*3

 

 

 フェミニズム平等主義を分けるものは何であるか、そのヒントがここにある。上記のフックスの記述では「平等」が言及されていないことに気付くだろう。フェミニズムの目標は「家父長制による支配」からの「解放」なのだ。

 

 フェミニズムとはどういう意味なのかフェミニストに聞いてみると、二つのうちのどちらかの答えが返ってくる可能性が高い。一つは先述の「良識のある人」論法であり、もう一つは私が「一人一派(atomistic dodge)」論法と呼ぶものだ。フェミ二ズムとは一枚岩の運動ではないのであり、フェミニズムの目標はあまりに複雑であり一つに特定することはできない、とフェミニストは主張する。このような立場は、インターセクショナル(交差的)フェミニズムを体現するものだ。それぞれの説明がもう片方の説明と矛盾していることに注意しよう。曖昧さの迷路に放り込まれると、私たちはすぐに道に迷ってしまう。

 

 私は、フェミニストたちの派閥の違いを判別しようとするのではなく、フェミニストたちが派閥を超えて共有しているものとは何であるかと質問してみた。その答えは、平等主義フェミニズムの間の違いを理解する助けになるものだ。

 

 1963年、リベラル・フェミニストのベティ・フリーダンは「名前の付いていない問題」に関する本を出版した*4。7年後に、ラディカル・フェミニストたちがその問題を「家父長制」と名付けた。家父長制は、男性による女性に対する抑圧を促進する根本的な構造であると考えられていた。「権力・支配・ヒエラルキー・競争によって特徴付けられるシステムであり、改善することはできず、根こそぎ破壊するしかないものである」*5

 

 この瞬間、フェミニストたちの戦略に根本的な変化が起こった。(訳注:社会を)改善することによって平等を達成しようとするリベラルな政策から、家父長制の破壊を目指すラディカルな戦略へと変化したのだ。この時期に、フリーダンはフェミニズム組織からあっさり追い出されてしまった。彼女が充分にラディカルではなかったというのが理由だ。この時期以降、フェミニズムの全ての派閥にとって家父長制は中心的な問題であり続けている。家父長制という概念についてはフェミニズムの派閥ごとにそれぞれ微妙に違った認識がされているのも事実だが、以下のことには全ての派閥のフェミニストが同意している。

 

・家父長制とは社会的に構築された現象であり、セックスとジェンダーに関するイメージや意見を強制する。そのイメージや意見は、男性の優越性と女性の劣等性を主張するものである。

・家父長制とは、制度的に全ての男性が全ての女性を抑圧するメカニズムである。

・全てのフェミニストたちは、家父長制に対する闘争という点で団結している(他のことは大した問題ではない)。

 

 しかし、家父長制とは何だろうか?そもそも家父長制は存在するのだろうか?フェミニズムの前提に関しては、批判理論(critical theory)よりも批判的な思考(ciritcal thinking)に価値を置く研究があまりにも不足している。もっとも、その傾向も最近では変わり始めているのだが*6。家父長制の存在も起源も、フェミニストによって発見されたのではなく、フェミニストによって仮定されているに過ぎない。上記の家父長制に関する三つの前提は、欠陥のある循環論法だ。しかし、その循環論法こそが、ラディカルからインターセクショナルまで含めた全てのフェミニズムの根本原理を代表しているのであり、今日の社会"正義"運動も代表しているのだ。

 

 フェミニストによる家父長制の概念は、多くの文化で男性は女性よりも多大な社会的・経済的・政治的な"権力"を保持しているようである、という人類学的な観察結果によって飾り付けられている。フェミニストたちは、男性が女性を支配するために権力や資源を占有しようとする理由を、男性が女性を憎悪しているからだと考える(ミソジニーと呼ばれる理論だ)。私の研究は、家父長制とはフェミニストたちが想像したこともないほど複雑なものであることを示唆している。そして、家父長制を構築して維持することについて、女性は男性と同じくらい影響を与えているのだ。「悪どい男の暮らす家に嫁ぐことを、淑女は恐れない(Ladies are not afraid to drive in their own carriages to the doors of cunning men)」とメアリ・ウルストンクラフトが書いた通りである*7

 

 家父長制とは、男性と女性のどちらもを抑圧することもあれば解放することもあるシステムのことである。そのシステムとは、人類の適応度地形(fitness landscape)だ*8

 

 そして、ここに今日のフェミニズムにとっての困難が存在する。ヘテロセクシャルの男性と女性がお互いに惹かれ合う理由は、お互いのステレオタイプ的(stereotypicalな性的特徴に他ならない。実際には、それらの性的特徴はステレオタイプ的なのではなく、原型的(archetypal)なのだ。人間は有性生殖生物である。数百万年かけた性淘汰の過程によって、男性と女性はお互いの身体と心理を形作ってきた。そして、私たちは適応度地形として文化を創造した。ここで動いている力学は単純だ。権力と資源を持った男性を女性が求めるために、男性は権力と資源を求める。

 

 女性が我が儘な金目当ての誘惑者であるとか、男性の審美眼が浅はかであるという理由ではない。また、性的二形性や労働の性別分業は、家父長制によって押し付けられる暴政ではない。他の動物と比べて際立って無力な乳幼児や先例が無いほど長い幼年期を持つ生物種である人間にとっての、エレガントで実際的な解決策なのだ。性別・チームワーク・強固な一雌一雄関係の間で働く力学は、生物種としての成功をもたらす基盤の一つである。その中核は、子孫の生存だ(私たちが子供を持つことを選択するかしないかは関係ない)。片方の性だけについて考えていたり、私たちが協力して子孫を残すように進化してきたことを踏まえずに考えていても、性別を理解することはできない。そして、私たちが人類であり続ける限り、このメカニズムは存在し続けるのだ。

 

 社会構築主義と家父長制理論というフェミニストの遺物は、男女の間の気まぐれで愉快で時には無慈悲な戦いに参戦して、戦いを消耗戦にしてしまった。そして、循環論法はフェミニズムそのものを内部から焼き尽くそうともしている。

 

 2015年には、20世紀を象徴する女性の一人でありラディカル・フェミニストの知識人であるジャーメイン・グリアが、イギリスの大学での講演を拒否された。彼女はどんな罪を犯したのか?グリアは生物学の全てを否定している訳ではなく、女性に性転換して女性として生きて恋愛したいと望んでいる男性たちの権利を尊重しながらも、そのことは彼らが生物学的に女性であることを意味するのではなく彼らはトランス女性(trans-woman)なのだ、と強調した。そのために、グリアの発言の権利は奪われてしまい、彼女は口汚く罵られて差別者というラベルを貼られてしまった。中産階級社会主義者のフェミニストのローリー・ペニーに至っては、グリアは同性愛者を殺害したいと思っている人たちと同類であると考えている。

 

 なぜ、女性はこのことを気にしなければならないのか?2014年のアメリカでは、トランス女性が「ワーキングマザー・オブ・ザ・イヤー」の賞をもらった。彼女が子供を産んだのではなく、彼女の子供を最も世話しているのも彼女ではない、ということにも関わらずだ。2015年には、女性としてはまだ数ヶ月間しか生きていないケイトリン・ジェンナーが「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」の賞に輝く予定だ。彼女たち自身の生物学的性別に特有の実際の淘汰圧に晒されながらも、類いまれない業績を達成した数え切れない実質的な女性たちを差し置いて、である。トランスジェンダーの活動家たちは、子供を妊娠している人を指す単語を「妊婦(pregnant woman)」ではなく「妊娠した人(pregant person)」に変更するように、助産師たちにロビーイングしている。妊娠している女性が付き合い程度にワインを飲むことは子供に対する虐待であるかどうかが議論されている間に、トランス女性は授乳を起こすために強力なホルモン剤(社会的に構築されたものではない)を飲んでいるのだ。ミルクの栄養的価値についての議論は、自分のミルクは濃くてクリーミーだと報告したトランス女性についても話題が及んでいる。人間の乳房から分泌されるミルクはかなり薄くて油脂が少ないのだから、彼女のミルクは何か別物であるはずだ。

 

 私たちはレイプ・カルチャーのなかで生きている、とフェミニストは頻繁に主張する。だが、西洋社会においてはレイプやその他全ての暴力犯罪は減少し続けているし、統計によるとレイプが起訴される割合は50%以上であり他の犯罪が起訴される割合と同じ水準である。アメリカの大学では、レイプを起訴する裁判における証拠の基準を引き下げることを目的にしたフェミニスト運動が起こっている。教育ある人々が、つい最近の歴史の記憶から私たちが学んだはずの悲惨な教訓…「ポプラの木に吊るされている奇妙な果実」の教訓をもう忘れてしまったのだと考えると、目眩がしてしまう。(訳注:ビリー・ホリデイの歌として有名な「奇妙な果実」という曲の歌詞。レイプの嫌疑をかけられた黒人男性が白人にリンチされて殺害された事件を背景とした歌詞である*9

 

 

 このようなフェミニズム運動に尻込みすることは、憎悪やフォビア(恐怖症)ではなく、健全な懐疑である。平等主義に基づいた法の前で、私たちは平等である。これは、フェミニズムには当てはまらない。フェミニズムは人よりもイデオロギーを優先する。個人の権利や選択は「問題である」とされる。私のようにフェミニズムの論理的矛盾やフェミニズムに忍び寄る全体主義を指摘する女性は、反フェミニストであり反女性であるとのラベルを貼られてしまう。まるで「フェミニスト」と「女性」が同じ意味の言葉であるかのように。だが、フェミニストと女性は同じではない。フェミニストであるかどうかは政治的意見によって判断されるのであって、性別やジェンダーによって判断されるのではない。フェミニストたちは、女性たちを代弁しているのでもなければ、平等主義者たちの大半を代弁しているのでもなく、彼女たち自身について主張しているに過ぎない。フェミニズムの辞書的定義も書き直される必要があるだろう。

 

 平等主義による平等の追求は、フェミニズムとは別物である。さて…あなたはどちらを選ぶだろうか?

 

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*1:

Egalitarianism (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

*2:

Topics in Feminism (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

*3:

 

Talking Back: Thinking Feminist, Thinking Black

Talking Back: Thinking Feminist, Thinking Black

 

 

*4:

 

新しい女性の創造

新しい女性の創造

 

 

*5:

 

Feminist Thought: A More Comprehensive Introduction

Feminist Thought: A More Comprehensive Introduction

 

 

*6:

http://psycnet.apa.org/index.cfm?fa=search.displayrecord&uid=2014-01529-004

 訳注:著者の共著論文で、進化心理学フェミニズム的に考えるための枠組みについて論じられている。

*7:

 

女性の権利の擁護――政治および道徳問題の批判をこめて

女性の権利の擁護――政治および道徳問題の批判をこめて

 

 

*8: 訳注:適応度 - Wikipedia 生物学的・生殖成功率的に最も適応している状況、という意味だろうか。

*9:

【画像】世界を変えた衝撃の写真10枚 - e-StoryPost