道徳的動物日記

人々の議論を眺めながら考えたことや読んだ本の感想など。このブログは利益や金銭目的ではなく人々に対する啓蒙のために書かれています。ありがたがれ。

家父長制・弱者男性・フェミニズム

 

 以前に訳して紹介したポーラ・ライト(Paula Wright)のブログの記事を読みながら、だらだらと考えたこと*1

 

porlawright.com

 

「改良された"家父長制"を擁護する」というこの記事では、家父長制とは単一の種類しかないものではなく、悪性の家父長制もあれば良性の家父長制もある、とされている。そして、悪性の家父長制は大半の男性と女性にとって害をもたらすが、現代の欧米社会に存在する家父長制は改良されたものであり悪性の家父長制から人々を守る役割を果たしている良性の制度だ、ということが論じられている。

 

 具体例として挙げられるのが、結婚制度の違いだ。悪性の家父長制では一夫多妻制が採用される。争いに勝利した強者は多数の妻を手に入れられる一方、敗北した弱者は妻を手に入れられなくなるので、男性間の争いが激しくなる(イスラム教のような神権政治の社会が、その実例である)。他方で、良性の家父長制のもとでは一夫一妻制が採用されるため、男性間の争いはぐっと少なくなる。一夫一妻制のもとでも姦通などが起こる場合があるとはいえ、一人の男性が多数の女性を独占して数人の男性が女性を手に入れられない、ということが原理的にはなくなるわけだから、男性たちはもはや互いを敵同士と見なす必要がなくなる。男性たち同士が協力できるようになることで社会が平和になって生産制も上がって豊かになるし、一夫多妻制の時に比べて女性も自由に活動できるようになる…という訳だ。

 ポーラ・ライトの主張のポイントは、家父長制を「男性という性別が女性という性別を支配・抑圧するために作り上げた制度」や「強者男性が他の男性と女性を支配・抑圧するために作り上げた制度」とは見なさないことである。彼女は、家父長制を「進化のメカニズムにおける適応度(自分の子孫を残すこと)を巡る争いが産む、自然発生的なシステム」という風に捉えている。適応度争いの環境が変わることで家父長制が悪性のものから良性のものに転じることもあるだろうが、何れにせよ家父長制は環境が生み出すものであり、特定の性別なり階層なりが自分の利益のために生み出すものではない。男性間の適応度争いと同じく、女性間の適応度争いも家父長制を生み出す原因となっている。そして、通常の考え方では家父長制は男性に利益を与えて女性を抑圧するものと見なされるが、たとえば悪性の家父長制は女性以上に男性にとって危険なものである、とライトは論じる*2

 

 …ライトの議論には賛否あるだろうが、彼女はかなり重要なことを言っている、と私は思う。「フェミニズムは生物学的性差や適応度争いなどの進化的な要素を無視している」ということは散々言われているし、フェミニストの側としては「聞き飽きた」という感じだろうが、特にネット上でのフェミニズム関係の文章とかミームとかを目にするとやっぱり生物学的な側面は無視されていることが多いし、「総体としての男性という性別が、総体としての女性という性別を抑圧している」という発想に固執している感が強い。

 また、近年のネット界隈で盛んな「弱者男性論」も、フェミニズムが生物学的性差や適応度争いなどの進化的な要素を無視していることに対する反動として生じたことは否めないだろう。格差社会の現在では「一人の男性が多数の女性を独占して数人の男性が女性を手に入れられない」という悪性の方の家父長制の状態が復活してきており、弱者男性は家父長制の被害者となっていると言えるが、「家父長制は男性が女性を抑圧するために作り上げる制度だ」という風に言われて批判されると、自分が損を被っている制度の責任を自分が負わされることになるのでたまったものじゃない、という感じになる訳だ。

 私としては、特に以下のことがポイントとなると思う。

 

・「ある状態の社会制度なり社会環境のもとでは、女性だけでなく男性もなんらかの被害や苦しみを負う場合がある」

 

 上記のことはごく当たり前の主張であるが、一部のフェミニズムの間には上記の主張すらを否定しようとする雰囲気がある。

 たとえば、フェミニズムと対になる主義主張として「男性学」というものがある。フェミニズムが女性の被る辛さや苦しみに寄り添い、女性であるために生じる被害を訴えるのと同じように、男性学も男性の被る辛さや苦しみに寄り添い男性あるために生じる被害を訴える…という風になってもいいようなものだが、実際には「男性としてのつらさ」を主張すること自体が非難されるような風潮がある。たとえば、以前にもこのブログで取り上げた社会学者の平山亮はまさに「男性としてのつらさ」を強調する男性学を批判しており、そのために(通常の「男性学者」よりも)フェミニストからのウケがよく好意的に取り上げられている感がある*3

 

・「女性の行動や傾向には社会的要因だけでなく生物学的要因も関わっている」

 

 弱者男性論者の間では「女性の上方婚志向」を強く非難するのが定番であり、「女性は収入が増えても自分より収入が上の男性としか結婚しようとしないから、女性の収入は低く抑えた方が丸く収まる」というような極論が飛び出したりする。ここまでくると言い過ぎだが、しかし、適応度の観点から考えても女性は収入・立場が安定した男性を選びたがる傾向が存在することは否めないし、そのような女性の傾向や行動が社会制度なり社会状態なりの成立に関わっていることは確かだろう。フェミニストの側は弱者男性に対して「女性が安定した結婚を求めるのは、女性一人で生きるのは収入などの面から不安定過ぎるからだ」という風に反論するし、それはそれでもっともな意見だが、しかし弱者男性論者が言うように「収入や立場が安定している女性であっても、より収入が高い男性と結婚したがる傾向がある」ということもまた事実だ。そして女性の上方婚志向に生物学的要因がある程度以上は関わっていることも事実だろう。事実からどのような解決策なり規範的主張を導くかは別として、まずは事実を事実として認めないことには議論にならないし、だから極端な反論が飛び出してくるんじゃないかという気がする。

 

 ・「ある社会の制度なり文化なりは、男性の傾向や行動だけでなく、女性の傾向や行動も関わって成り立つ」

 

 就職や収入や昇進などのキャリア的な事柄に関しても、デートや家庭生活や育児などのプライベートな事柄に関しても、性差別的と指摘される制度や文化は数多く存在している。しかし、そのような性差別的な制度なり文化なりも、大多数の男性や女性における一般的な傾向や一般的な選択が積み重なった結果として成立した、ということが多いだろう。通常の社会状態における一般的な男女にとっては合理的な制度や文化が、通常とは異なる行動や選択をしたがる男女にとっては差別的なものとなったり、社会状態の方が変化したおかげで大多数にとって非合理なものとなったりする。…抽象的な書き方になってしまったが、ともかくこうやって自然発生的な制度や文化を捉える発想は必要であるだろうし、ある性差別的な制度なり文化なりの責任をいつもいつも男性という性別に帰そうとするのはやっぱり的外れだろう。

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*1:以前の記事はこちら。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:関係ある話題として、以前の記事で訳した、適応度に関するライトの文章を引用しておこう。

そして、ここに今日のフェミニズムにとっての困難が存在する。ヘテロセクシャルの男性と女性がお互いに惹かれ合う理由は、お互いのステレオタイプ的(stereotypical)な性的特徴に他ならない。実際には、それらの性的特徴はステレオタイプ的なのではなく、原型的(archetypal)なのだ。人間は有性生殖生物である。数百万年かけた性淘汰の過程によって、男性と女性はお互いの身体と心理を形作ってきた。そして、私たちは適応度地形として文化を創造した。ここで動いている力学は単純だ。権力と資源を持った男性を女性が求めるために、男性は権力と資源を求める。

女性が我が儘な金目当ての誘惑者であるとか、男性の審美眼が浅はかであるという理由ではない。また、性的二形性や労働の性別分業は、家父長制によって押し付けられる暴政ではない。他の動物と比べて際立って無力な乳幼児や先例が無いほど長い幼年期を持つ生物種である人間にとっての、エレガントで実際的な解決策なのだ。性別・チームワーク・強固な一雌一雄関係の間で働く力学は、生物種としての成功をもたらす基盤の一つである。その中核は、子孫の生存だ(私たちが子供を持つことを選択するかしないかは関係ない)。片方の性だけについて考えていたり、私たちが協力して子孫を残すように進化してきたことを踏まえずに考えていても、性別を理解することはできない。そして、私たちが人類であり続ける限り、このメカニズムは存在し続けるのだ。

*3:以前に書いた記事。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

平山に対するフェミニストの反応