道徳的動物日記

人々の議論を眺めながら考えたことや読んだ本の感想など。このブログは利益や金銭目的ではなく人々に対する啓蒙のために書かれています。ありがたがれ。

トロッコ問題批判批判

 

 先日に森村進の『幸福とは何か』 (ちくまプリマー新書、2018年)を読んでいたら、後半の方で以下のような記述があった*1

 

幸福とは何かを考えるにあたって、私は本書でさまざまの思考実験を利用してきましたが、その中には非現実的な例も少なくありませんでした。この方法は現代の哲学、特に分析哲学と呼ばれている著作の中ではごくありふれたものです。しかし世の中にはそれに反発する人も少なくありません。彼らは「そんな自体は実際には発生しない」とか「その例におていは<これこれしかじか>と前提されているが、<これこれしかじか>ということが当事者にどうして確信できるのか?」などと言って、思考実験に向かい合おうとしません。思考実験は地に足のついた思考の敵だ、と彼らは信じているのでしょう。 

 

『幸福とは何か』ではトロッコ問題はほとんど出てこなかったが、上記のような批判は、特にトロッコ問題に対して向けられがちだ。典型的なのは、以下のブログでも取り上げられている以下のようなツイートだ。

 

chieosanai.hatenablog.com

 

 私が上記のようなツイートを不愉快に感じる理由の一つが、まさに私自身が上記のような答え方をしていた時期がある、という点にある。大学院の少人数授業で先生がトロッコ問題を出してきた時に「1人か5人かを選ばなければならない、という状況を生み出したトロッコの設計者や、ひいては社会全体の責任に注目しなければならない」的なことを答えて悦に入っていた記憶があるのだ*2。…私や上記のツイート主に限らず、ある程度は知恵のまわる学生(特に左派的な傾向を持った学生)にとっては「問題ある状況を産み出した設計者や権力者、社会の責任を問え」式の答えはすぐに思いつくことのできる鉄板の答えと言えるだろう。しかし、このような答え方はメタ的な理屈をつけることで思考から逃げようとするための方便に過ぎない、と今の私は思っている。

 

 トロッコ問題のような思考実験の目的のひとつは、非日常的なまでに抽象化された極端で特殊な事例を想定することで、普段の状況では意識しづらい自分の価値観や判断の根拠をあぶり出す、ということにある。

 普段の生活で私たちが直面する現実の状況やニュースで見たりする実際の事例には、様々な要素が絡み合っているものだ。トレードオフの問題に話を絞っても、トロッコ問題のように目に見えるかたちで「少数の命か、多数の命か」を選択する状況はほとんど存在しないだろう。災害現場などにおいてはそのような特殊な状況が生じ得るとしても「防災工事にもっとそんな予算を割いてなければそのような事態は起きなかった」や「災害対応のガイドラインがもっとしっかりしていればもっと早く現場に到着できていて全員分の命が救えていた」など、現場における判断以前の大局的な要素の方が重要になってくる。「多数派の命か少数派の命か、という選択をする事態が生じないように対策をすべきだった」というのは誰にでも言える正論ではあるが、当たり障りのない正論を言う余地がある事例では、自分の価値観や判断について深く考える必要がなくなってしまう。…要するに、現実の事例はノイズや逃げ道が多過ぎるからこそ、思考実験が必要とされるのだ。

 余分な条件を捨象して、問題にしたい事柄を考えることに特化した状況を想定できることが、思考実験の利点だ。トロッコ問題の場合は、トレードオフや取捨選択の判断について考えたり、行為と結果のどちらを重視するかと言う判断について考えるのに最適化した題材だといえる。また、線路を切り替えるか歩道橋から人を突き落とすかなど、大まかな状況は一緒だが意図的に細部を変更した複数の事例について考えることで、自分の道徳判断の根拠の曖昧さや一貫性のなさが明らかになるかもしれないし、普段は意識していなかった問題点も明らかになるかもしれない。そして、場合によっては自分の判断に修正を加える必要を自覚するかもしれないし、「改めて考えてみると自分がこれまでに下していた判断の根拠は曖昧で不適切だった、より適切で一貫性のある判断ができるように倫理学理論を学んでみよう」という風に学習へと誘われるかもしれない。

 現実の世界では、よほど特殊な職業についていない限りは「少数の命か、多数の命か」といった選択に直面することはないだろう。しかし、たとえば医療資源の配分の問題のように、トレードオフが発生する状況は現実の世界でもたびたび起こる。普通の人はトレードオフについて直接的に判断を下すことはないとしても、政策を決定する議員を選挙で選出するなどの形で、間接的に判断に関与することになるかもしれない*3。となると、思考実験を通じて「トレードオフの発生する問題について自分はどう判断するか」ということを普段から考えておくことや、自分の判断の問題点や矛盾を明らかにすることには意義があるはずだ。…しかし、自分の判断の根拠を明らかにしたり場合によっては自分の判断の問題点を認めて判断を変えることは、知的に負荷がかかる作業であるし、感情的にも不愉快なものである。思考実験を提示されたときに問題の前提などを問い直すことで答えを回避する戦略も、見かけは知的かもしれないが、実際には批判的思考に伴う不愉快さから逃げているだけかもしれない。

 森村も以下のように書いている。

 思考実験をしない人は、自分の見解にとって都合が悪い判断と向き合おうとしないため思考が独善的になりがちです。

 

 また、学校の授業やゼミなどの教育の現場においてトロッコ問題などの思考実験が提示されることに対しては、「学生に対して教授が持っている権力性」などに注目した批判がされたり、不愉快さを伴う思考を学生がさせられること自体が問題である、といった批判もされがちだ。だが、この種類の批判は、大学での授業にトリガー警告を求める風潮と根を同じくしているもののように思える。トロッコ問題のバリエーションの歩道橋問題に対して「太った男を突き落とす、というのは体型差別で不謹慎だ」という批判がされることもあるが、これも思考実験に伴う不愉快さからなんとか逃れたいための理屈という感じがある。

 とはいえ、トロッコ問題に対する批判がある程度の正当性を持っていることもあるだろう。しかし、トロッコ問題の設定や出題者の権力性などなどをいくら批判したところで、トロッコ問題が提示している問題が解決する訳ではない、ということも理解してほしいところだ。

 

 

 

*1:読了後に図書館に返却してしまっており、ページ数は失念

*2:具体的にどう答えていたかは忘れた

*3:トレードオフを選択させられること自体が不正な状況だ、パイを大きくしてトレードオフの状況を発生させなくすればいいのだ」的な回答もありがちだが、その種類の意見に対する私の感想はこちら