ギリシア・ローマ-ストア派の哲人たち-セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウス
- 作者: 國方栄二
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2019/01/09
- メディア: 単行本
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自然は動物が自分自身と親密であるように創ったから、動物はまずは自己保存への衝動を持ち、それゆえ自分を保存してくれるものに向かい、破滅するものを忌避するような生まれもった傾向性を有する。…この場合に、そのなにかとは自分自身を保存してくれるものであるが、これは自分自身と「親密な(オイケイオン)」関係にある。このような親密性、親和性(オイケイオーシス)というところからストア派の倫理学が築かれる。…すなわち、人間は同じ中心を持ついくつかの円の中にいて、最初には身体的な需要を満たすべきものが周囲にあり、第二番目には両親、兄弟、妻、子供がいて、第三番目にはおじ、おば、祖父母、甥や姪が、第四番目の円には親類の者がいる。さらに次の円には同区民、同部族民、さらに隣国の人びとが、そして、最後の円には残りのすべての人間がいる。そして、こうした円が順次に認識されていくと、それぞれの円が中心に向けて引っ張られて、円の中にいる人たちも引っ張られていく。このようにして親密性の輪が広げられていくわけである。(p.77-78)
上記のオイケオーシスの議論はピーター・シンガーの『拡大する輪』を思い出した。
・「万物の尺度は人間である」はソフィストの言として否定的に扱われる訳だけど、ポストモダンっぽい言葉である。
・「どんな人であれ、いくらかでも徳のあるところをみせるようであれば、無視されるべきではないのだ」。キケロの言葉。優しい。
・他人に怒ることもあって「相手の目の中のおが屑と自分の目の中の梁」的に自分を振り替えて怒るべきではない、しかし罪は罪として罰するべきである、というセネカのバランスの取れた主張も良い。
・下記の引用に関しては、私はエピクテトスよりもアリストテレス派。
エピクテトスはあらゆる欲望や情念を、魂による真なる、あるいは偽なる判断とみなしている。つまり、悪しき行為は、プラトンやアリストテレスが考えたように、理性が不合理な欲望に負けておこなわれるのではなく、理性が誤った判断をするためにおこなわれるのである。(p.175)
・全体的にストア派は「物事は気の持ちようでなんとでもなる」という思想なようだ。アウレリウスによる「およそ生きることが可能なところでは、善く生きることも可能である」とか、エピクテトスの「幸福であるために、自由であるために、気高い心をもつために、今の自分の思いを捨てよ。そして、あたかも奴隷の身分から解放された人のように、ひとつ頭を持ち上げるのだ」など。こういうところが実践的な倫理学である所以だろう。
・ディオゲネスは「人生を生きるのに数学は必要ない」という考えの持ち主であったようだ。共感できる。
・「余計なものは必要ない」という思想であり、思想自体もシンプルなストア派だが、それゆえにコスモポリタニズムや普遍的人権論みたいな倫理に接近していくのはよいと思う。