道徳的動物日記

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読書メモ:『自分で考える勇気:カント哲学入門』

 

 

 石川文廉の『カント入門』もわかりやすかったが、こちらはさらに輪をかけてわかりやすかった。

 ただし、表題の「自分で考える勇気」というのはイマイチ内容に即していなかったように思える。三批判書を中心に、あくまでカントの思想をわかりやすく説明してくれることに特化した本、という感じだ。

 

 私の関心はどうしても倫理学に絞られる(というか、悟性だとか理性だとかは現代では自然科学に任せてしまえばいいじゃんと思えてしまう)のだが、気に入った部分を引用しておく。

 

(「わが上なる星しげき空」と「わが内なる道徳法則」の一節に関して)

 

私たちは小さい存在ではあるけれども、人類の努力によって大宇宙の法則を少しずつ解明することができますし、弱い存在ではあるけれど、普遍的な善の実現に寄与することができます。たとえば、すばらしいピアノの演奏を聴いて感動する場合はどうでしょうか。私たちは、そうした演奏を可能にしてそれを聴衆に届けるピアニストに感心するのみならず、分野は違っても自分も努力をすればなにかを実現する能力があると意識するのではないでしょうか。(p.136)

 

では、私やあなたが自分自身であるために必要なのはなんでしょうか。それは自由です。自由がなければ私は他人に支配されるままであり、私自身であることができないからです。まとめて言えば、私が私自身の主人である自由を侵害すること、また、あなたがあなた自身の主人である自由を侵害すること、これこそが最も根本的な侵害であり、このような侵害を阻止することが、私たちの第一の課題です。(p.156)

 

世界市民という人間観はすでに古代ギリシアにも見られるものですが、カントの批判哲学を特色づけるものでもあります。人間は一般にいずれかの国籍をもつことで、日本人や中国人やドイツ人などと分類して語られます。しかし、私たちはそうした国籍と無関係に一人の人間でもあります。そうした人間を「自然人」と称することがありますが、世界市民とはまずもってそのような人のことです。ということは、すべての人が世界市民でもあることになりますね。

カントはこの概念に、さらなる内容を付け加えます。というのは、自分が世界市民でもあることに気づかず、世界市民として生きることに意味を見出さない人もいるからです。もしみなさんが日本人や中国人などという自分の国籍が自分自身のアイデンティティーを完全に決定していると考えているなら、したがって、そのような国籍とともに表現される文化に従ってしか生きられないと考えているなら、それはあなたが世界市民である可能性に気づいていないことを示しています。(p.176)

 

…私たちは自由と自然とをはっきり区別するという視点をまずは手放さないようにすることが大切です。そうすれば、<道徳的に善く生きることで幸福になること>としての最高善において「道徳的に善く生きること」と「幸福になること」とをはっきり区別することができます。「道徳的に善く生きること」は自分の意志において実現可能なことですが、「幸福になること」は自分一人では如何にもならないことなのです。これで先の悩みが完全に解決するわけではありませんが、「道徳的に善く生きること」へとこころを集めることは可能になるでしょう。(p.111)